2023年2月5日日曜日

春のような

昨日以上に陽ざしが春のような暖かさでした。

京都の伏見稲荷大社で「初午大祭」 福を授かろうと大勢の人〟(京都NHK)
年中行事
 初午
(はつうま)

 2月初めの午の日には、大阪では水間寺(大阪府貝塚市に現存)の観音に参詣(さんけい)することが『日本永代蔵』一に描かれているし、ほかにも観音参りを行なう所、道陸神(どうろくじん)の祭りを行う所もあった。
 この日に稲荷(いなりしゃ)社へ参詣することは、『貫之集』『枕草子』158段などに見えるように、平安時代から行われていた。
二月初午を稲荷の縁日とするのは、和銅4年(711)2月11日(一説に9日)の初午の日に伏見稲荷大社(京都市伏見区の稲荷山の西側のふもとにある)の祭神が降臨したという伝えによるという。
稲荷山の杉を折ってしるしの杉と言って持ち帰ることが『蜻蛉日記』中や『更級日記』などに見え、平安時代から江戸末期まで行われた。
(『日本古典風俗辞典』室伏信助他、角川ソフィア文庫 2022年)
 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説によって稲荷は荼枳尼天(だきにてん)と習合し、荼枳尼天の玄狐(げんこ)に乗る姿に基づいて、稲荷は狐(きつね)と結び付いた。
芭蕉の「二月吉日とて、是橘(ぜきつ)が剃髪(ていはつ)、医門に入るを賀す はつむまに狐の剃(そ)りし頭かな」<末若葉>の句は、狐に化かされて剃髪したと戯れたものである。
 初午の日に寺子屋に入るならわしのあったことが芭蕉門の其角の「初午に寺のぼりの例を、二人のお子たちに祝願いたし候 いの字より習ひそめてや稲荷山」<五元集拾遺>からうかがうことができる。
(『日本古典風俗辞典』室伏信助他、角川ソフィア文庫 2022年)
同性婚めぐる発言で首相秘書官更迭 岸田政権 打撃避けられず」(NHK)

 徒然草の第54段の現代語訳を転記します( ..)φ

第五十四段
 やはり仁和寺に大変かわいらしい稚児(ちご)がいたが、それをどうぞして誘い出して遊ぼうとたくらむ坊さんどもがあって、芸の上手な遊芸僧やその他のものを仲間に入れて、しゃれた破籠(わりご)風のものを特に念を入れて作りたて、また箱の恰好(かっこう)をしたものを調え入れて、さて双(ならび)の岡のぐあいのよさそうなところへ埋めておいて、紅葉を散らして上にかけたりして気のつかないようにしてから、寺へ伺って、その稚児を誘い出したのだった。
(『徒然草』今泉忠義訳注 角川文庫 昭和32年改訂)
ようやく誘い出しのを嬉(うれ)しく思って、ここかしこと遊び廻って、さいぜんの苔(こけ)のむした場所に一同並んで腰をおろして、「ひどく疲れてしまった。ああ、この紅葉を焚(た)いて酒の燗(かん)をつけてくれるような人がいたらいいのになあ。霊験あらたかな坊さんたち、試みに祈ってごらん」などといい合って、破籠を埋めておいた木の下に向かって、数珠をおしもんで、印など大げさに結び出したりして、いかつく振る舞って、木の葉を掻(か)きのけたところが、全然何ものも見えない。
場所が違っているのだろうかと、掘らないところもなく、山中探し廻ったけれども、出ないでしまった。
実は破籠を埋めたのを、誰かが見とどけておいて、寺に出かけた間に、盗んだのだったそうだ。
坊さんたちはいう言葉もなくて、聞き苦しくいい争い、腹を立てて帰ってしまったそうな。
 普通以上に興のあるようにしようとすると、必ずかえってつまらない結果になるものだ。
(『徒然草』今泉忠義訳注 角川文庫 昭和32年改訂)

稚児が僧たちにとってどういう存在だったかを知っていると、ただの笑い話として読めないと思います。
Ⅲ 仏教の革命
 栄西 禅の大祖師にして茶道の祖


…前略…

 彼が最初に中国へ行ったとき、たまたま法然の弟子の重源(ちょうげん)と出会い、一緒に帰国した。
法然の浄土教の普及には重源の力が大変大きいが、この重源のやり方を彼は真似しようとしたかのようにみえる。
彼は重源の死後、重源に代わって東大寺勧進識(かんじんしき)に就いて東大寺再建に力を尽くし、さらに法勝寺の九重の塔が倒れるや、塔の修造を命じられ、みごとに再建の大事業を果たした。
 このようなめざましい業績を上げた功績として、すでに大法師(だいほうし)や法印(ほういん)の位を得ていた彼は大師号まで要求したが、それは、禅を普及するにはまず権力者を禅の信者にし、彼自身も権力者から栄位を賜り、人々の尊敬を得るのがいちばんよいと考えたからなのであろう。
栄西はこのように八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍をして、禅宗を一つの新しい仏教宗派として朝廷にも、幕府にも、民衆にも認めさせ、75歳にして死んだ。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年)
 彼の著書で注目すべきは何といっても『興禅護国論』であろう。
『興禅護国論』は十門に分かれるが、それは三つの部分からなる。
彼はまず、禅は釈迦(しゃか)仏教の中心教義であり、古くから日本に移入された仏教であることを、「法華経(ほけきょう)」「涅槃経(ねはんぎょう)」「大般若経(だいはんにゃきょう)」などの経典を引用しながら論証する。
そして次に、いま禅宗という新しい仏教宗派を他ならぬ栄西という僧が開くことについてのいろいろな疑義(ぎぎ)に対して問答の形で答え、最後に禅宗がインド及び中国においていかに盛んであるかを語り、その文明国の宗教をできるだけ早く受け入れて、国を安泰にしなければならぬと強い自信と熱い熱情で語る。
『興禅護国論』は堂々たる禅の弁明書であり、それを読むと栄西の博学と論証の鋭さ、布教への情熱が十分に伝わってくる。
後の禅の老師の書物のように反語や逆説の多い禅問答らしいところはまったくなく、変化球を一切使わずに剛速球一本やりで、禅を日本の国教として採用することを主張している。
 最澄(さいちょう)は『内証仏法相承血脈譜(ないしょうぶっぽうしょうじょうけちみゃくふ)』で「私は行表(ぎょうひょう)の弟子であるが、行表はその師の道璿(どうせん)から達磨大師(だるまだいし)の法門を受けた。さらに私は入唐(にっとう)して、天台山禅林寺(てんだいさんぜんりんじ)の僧翛燃(しゅくねん)から天竺大唐(てんじくだいとう)二国の付法の血脈と達磨大師の付法、牛頭山(ぎゅうとうさん)の法門等を伝授された」と語っている。
禅はすでに祖師最澄の仏教の中にあり、比叡山延暦寺は天台ばかりか密教、禅、戒律(かいりつ)を併せて学ぶ四宗兼学の寺であった。
それゆえ栄西は、すでに天台宗の中にあった禅仏教が衰えているのを復興する僧にすぎず、栄西に反対する天台の僧は宗祖最澄の意にもとるものであると主張する。
 栄西はこのように禅を称揚するが、また彼は、禅宗は戒を厳しく守る仏教であることを口を極めて強調する。
「是ゆえに禅宗は戒をもってさきとなす」とか「それ仏教は持戒(じかい)をもってさきとなす」などといい、空(くう)を悟れば戒などどうでもよいとする僧は外道(げどう)、魔民(まみん)であると非難する。
この点、栄西は叡尊(えいぞん)や忍性(にんしょう)などの戒律の復興者と主張を同じくし、彼が栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)を後継者としようとしたと伝えられるのも、明恵に彼と同じように戒律の厳しい僧をみたからであろう。
 私は今度改めて『興禅護国論』を読み、この書が明治初年の新島襄(にいじまじょう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)などの書に似ていなくもないことを強く感じた。
彼らは日本が西欧に比べて遅れていると感じ、西欧の宗教や思想を日本に輸入することが緊急の課題であると考えた。
栄西もまた二度の入宋の経験から、文明国中国の仏教を日本に移入することが緊急の課題であると考えた。
 日本は中国から仏教を移入して国づくりをしたが、平安時代の半ばに遣唐使(けんとうし)が廃止されて以来、両国の仏教は大きく変わった。
日本では、初めは真言(しんごん)密教、後に浄土教が大流行したが、真言密教も浄土教も中国では唐の時代に一時流行した過去の仏教にすぎなかった。
中国においては破仏すなわち仏教の弾圧によって寺院は壊され、経典は焼かれ、裸の身一つで悟りを開くことを説く禅が唐から宋にかけて中国仏教の中心となった。
このような日中仏教の相違をみて、栄西は日本の仏教を文明国中国の仏教に近づけようと思ったのであろう。
 栄西の奮闘によって、法然の新しい浄土教と並んで、禅は日本において布教の大道を開いた。
後の円爾弁円(えんにべんねん)による東福寺(とうふくじ)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)による建長寺(けんちょうじ)、さらにまた道元による曹洞宗の永平寺(えいへじ)の創立も、すべて栄西の開いた禅の大道の上に可能であったのである。
この禅の大祖師というべき栄西に、曹洞宗の僧ばかりか臨済宗の僧すらいっこうに尊敬を払わないのはいささか忘恩的であるといわねばならない。
 この栄西の茶を勧める理論は科学的とはいえないが、彼は素朴に、先進国宋において愛用されている茶を禅とともに心からよきものと信じているのである。
彼はまた桑の葉を煎じて飲むことや、宋国の高良(こうりょう)郡より産出する高良薑(こうりょうきょう)を服用することを勧めている。
栄西は自分が携えてきた中国の茶の木を宇治に植え、そこから宇治茶が興ったという。
 後にその茶を飲む行事が儀式化され、芸術家され、茶道(さどう)という日本独自の文化を生んだ。
栄西が勧めた茶は後世の茶道とはまったく別のものであるが、茶と禅を結びつけた点において、彼は茶道の祖ともいえるかもしれない。
(『梅原猛、日本仏教をゆく』梅原猛 朝日文庫 2009年