2023年2月22日水曜日

晴れてほしかったけど

予報では、曇りのち晴れ
公園を歩いているときは曇り空
帰宅すると晴れてきました…
今夏も覚悟しないといけないみたい

近畿地方 夏は去年に続き厳しい暑さか」(関西NHK)
2月22日 推古30年(622.4.8) 聖徳太子、斑鳩宮(いかるがのみや)で没(49、推古天皇の摂政皇太子)(法隆寺釈迦如来像光背銘・天寿国曼荼羅繍帳銘)(『日本書紀』では、前年2月5日とする)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

発病する前、2009年1月1日に二上山から叡福寺をお参りしたことがあります。
甘酒のお接待をうけて体も心も温まりました。
 聖徳太子と奈良仏教 
   ――その普遍的理想の世界
 中村元
 飛鳥王朝と聖徳太子
 法隆寺学問寺


…前略…

 推古天皇の29年(621年)に、太子の母の穴穂部間人大后(あなほべのはしひとおおきさき)が死去し、そのため大きな精神的打撃を受けたのであろう。
太子は翌年早々に病床につかれた。
また妃の膳岐岐美郎女(かしわでのききみのいらつめ)もともに病臥し、2月21日に妃はなくなった。
『法王帝説』によると、その臨終に妃は水を乞うたが、太子がこれを許さないうちに亡くなったので、太子は悲嘆のあまり
  
  斑鳩(いかるが)の富の井の水生かなくに
    喫べてましもの 富の井の水

と詠んだという。
 つづいて太子は翌日、すなわち推古天皇の30年2月22日夜半に亡くなったと伝えられている。
ときに49歳であった。
(『日本の名著2 聖徳太子』責任編集 中村元 中央公論社 昭和58年)
 磯長の太子廟

 太子の廟のある磯長(しなが)をたずねてみよう。
飛鳥王朝の新コロニーが磯長のあたりにあったらしい。
大和のほうから竹内峠(たけのうちとうげ)を越えて、昔の街道を通ってゆくと磯長に達する。
それは聖徳太子の通られた道であったようだ。
 境内の高みから東を見ると、松林の蔽(おお)われた丘が見える。
それは用明天皇の陵墓である。
ほぼ四角形であり、周囲に堀があるが、松は明治になって植えたものだという・
そのなかに推古天皇の陵墓があり、また孝徳天皇や敏達天皇の御陵もあり、小野妹子の墓や石川麻呂の墓も近隣にある。
 また物部守屋の邸も近くの八尾市にあり、その邸跡には勝軍寺というお寺が建っているが、ここは「下(しも)の太子」と呼ばれて、太子をまつる代表的な寺の一つである。
それに対し、叡福寺は「上(かみ)の太子」と呼ばれている。
 磯長(しなが)は科長と書かれることもある。
飛鳥朝のコロニーであり、新しい開拓地であったのであろう。
現在ではこのあたりを太子町と称している。
太子が生前にこの場所を墓所の地と定め、47歳の冬12月にみずから工事を監督してこの墓所をつくり、それから2年後に亡くなったというから、このあたりの風光のすがすがしさが、太子の心を打ったのであろう。
 入口に「聖徳皇太子磯長御廟」と刻みつけた大きな石柱がある。
30段ほどの石段を登って南大門を通って境内に入ると、一面に白砂が敷きつめてあり、青い松の木が茂っている。
法隆寺と同じような清らかな感じであるが、松の木が数多く茂っているために、さらに森厳な感じがする。
 御廟の正面に堂がある。
屋根は三層になっている。
まわりの廊下は後代につくったものである。
堂の奥は横穴になっていて、古代の古墳の風を残したものである。
 聖徳太子の陵墓には母の間人大后と后の膳(かしわで)夫人との御骨をも納めている。
それゆえ、「三骨一廟」と呼ぶのである。
太子の薨去(こうきょ)に先立つこと二ヵ月、母の間人大后の崩御があり、また妃の膳夫人も太子の薨去の前日に薨じたので、ともに御廟に合葬したと伝えている。
この三人を弥陀三尊にたとえ、母后を阿弥陀、太子を観音、妃を勢至(せいし)菩薩に比定するという。
 御陵の位置は昔から変わらず、ずっと叡福寺でお守りしてきたという。
太子の没後、推古天皇から六町四方の地を賜わり、坊舎を建立したのが、叡福寺の起源である。
だから太子の御廟は、他の天皇の諸陵墓とは異なって荒廃することはなかった。
 太子の陵墓そのものは大きな円形の塚のようなものであり、三段に土を盛ってある。
サーンチーなどのストゥーパを思わせる。
外側は石灰岩の板碑で円形に囲まれている。
その内側に同じく円形の古い板碑の列があり、それが塚自体を取り囲んでいる。
これを「結界石」と称する。
内側の板碑の列は弘法大師がつくったと伝えられている。
外側の板碑の列には経文が彫ってあるが、浄土三部経の全文が彫りつけてあるという。
こいうアイディアは外国にもある。
たとえば、タージ・マハールにはコーランの半分を宝玉のモザイクで、総大理石の霊廟に書きしるしてある。
この豪壮華麗な、世界でもいちばん美しいといわれるタージ・マハールは、シャー・ジャハーン帝が皇妃ムスターズ・マハールのために建てた霊廟であるが、それに比べて聖徳太子の霊廟はおそろしく簡素である。
伊勢神宮や出雲大社の見られるような簡素な美しさがどこかに生きているように思われる。
 シャー・ジャハーン帝はタージ・マハールを建て、デリーの「赤い城」をつくった。
しかしそれ以外にはなにが残っているだろう。
聖徳太子は目に見えるものばかりではなくて、幾多の文化的伝統を創始した。
だからこそ、たとえば四天王寺が焼けてもまたすぐ大伽藍が建つのである。
こういう偉大な帝王――天皇ではなかったが、普通名詞としての「帝王」という呼称はあてはまる――の陵墓がかくも清らかで簡素である。
これは聖徳太子の人格にも由来することであろうが、またここにわが国で皇室という一つの王朝が人民からさほど憎まれないで、永続した秘密の一つを見出しえたような気がした。
 また終生「太子」の地位にとどまってかくも偉大な事業をなしとげた実質的帝王というものが、はたして外国にどれだけあるだろう。
聖徳太子は自分が天皇になろうと思えば、少なくとも実質的に権力の確立した晩年においては、きわめて容易であったはずである。
ところが、いろいろ事情があったのであろうが、叔母の推古天皇を上にいただいて、自分は終生皇位につかなかったということは、うるわしいことである。
1300年後の今日になると、むしろ「太子」とよばれることによって、人びとにかえって親しみがもたれるのではなかろうか。
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワセミをキレイに写せて喜んでいました。
解像度は縮小していますが、トリミングや加工はしていません。
私は、カワセミをこんなにキレイに写せたことないです!
カワセミの翡翠色と呼ばれる青緑色は構造色だそうです。

羽の色の不思議 森本 元

 構造色の例~空には色素がない~

 構造色の代表的な例は空の色です。
青空や夕焼けは空気中に青や赤の色素が存在しているのではなく、空気中の分子に太陽から光が当たり散乱し、特定の波長の光(色)が地上にいる我々の目に届くことで青色や赤色に見えています。
 色素による発色では、太陽からの光のうち、特定の波長の光が色素に吸収されて、吸収されなかった波長の光が色として近くされます。
 これに対して、構造色である空の色では、色素による光の吸収は行なわれず、空気中の分子の存在によって、太陽からの光が散乱されて、特定の色が生じています。
こうした超微細構造によって特定の波長の光が強まったり弱まったりして生じる発色を構造色と呼びます。
 ここではセンチメートルやミリメートルよりもずっと小さな、ナノメートルというスケールで光の挙動(反射や散乱)が発色の源です。
鳥の構造色は、こうしたナノスケールの微細構造が、鳥の羽毛内部に存在することで生じています。
 カワセミの青緑色やルリビタキなどに見られる青色、クジャク類などに見られる金属光沢様の色、公園などで見られるドバト(カワラバト)の胸の虹色などが鳥の構造色の代表例です。
 なお、構造色発色においては、前述した雄間闘争といった同性内選択に影響する社会的信号として機能することが、複数の研究により示唆されています。
(『日本野鳥の会のとっておきの野鳥の授業』日本野鳥の会編、上田 恵介監修、山と渓谷社 2021年)