それでも昼間の暑いこと……
柿の実にスズメバチが来ていました。
スズメバチは甘いものも好きで樹液にも集まってきます。
「樹液にそそられて -生垣や庭木には甘い誘惑がある-」(上野高敏 九州大学)朝ドラ「ばけばけ」第1週「ブシムスメ、ウラメシ。」 (1)
主題歌もそうですが、スライド写真のように展開される
松野トキとヘブンの笑顔にポカポカと温かくて幸せな気持ちになりました。
出演者等の文字が小さいと不評なようですね
老眼なのですが二人の姿に引き込まれたていたので
老眼なのですが二人の姿に引き込まれたていたので
SNSなどの投稿を見て気がついたくらいです。
「蛇です。蛙です。」と登場したのが……
なんかEテレ2355のヨルガヤ姉妹みたいだな(^_-)
阿佐ヶ谷姉妹が出演する、それも蛇と蛙という役柄なので???と思っていましたが……
「蛇・蛙役 阿佐ヶ谷姉妹さん インタビュー」トキのモデル小泉節子の『思ひ出の記』に書かれていたのが
…前略…
北堀の屋敷に移りましてからは、湖の好い眺望はありませんでしたが、市街の騒々しいのを離れ、門の前には川が流れて、その向ふ岸の森の間から、御城の天主閣の頂上が少し見えるのです。
屋敷は前と違ひ、士族屋敷ですから上品で、玄関から室々の具合がよくできて居ました。
山を背にして、庭があります、この庭が大層気に入りまして、浴衣で庭下駄で散歩して、喜んで居ました。
山で鳴く山鳩や、日暮れ方にのそりのそりと出てくる蟇(がま)がよい御友達でした。
テテポッポ、カカポッポと山鳩が鳴くと松江では申します。
その山鳩が鳴くと大喜びで私を呼んで「あの声聞きますか、面白いですね。」
自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどゝ申しました。
(『思ひ出の記』小泉節子著 一絛裕子絵 ヒヨコ舎 2003年)
「蛇はこちらに害意がなければ決して悪いことはしない」と申しまして、自分の御膳のものを分けて「あの蛙取らぬため、これを御馳走します」などと云ふてやりました。
「西印度に居ますとき、勉強して居るとよく蛇が出て、右の手から左の手の方に方を通つて行くのです。それでも知らぬ風をして勉強して居るのです。少しも害を致しませんでした。悪い者ではない」と云ふて居ました。 私が申しますのは、少し変でございますが、ヘルンは極正直者でした。
微塵も悪い心のない人でした。
女よりも優しい親切な処がありました。
たゞ幼少の時から世の悪者共に苛められて泣いて参りましたから、一国者で感情の鋭敏な事は驚く程でした。
…後略…
(『思ひ出の記』小泉節子著 一絛裕子絵 ヒヨコ舎 2003年)
参照した本は絶版になっていますが
ハーベスト出版で祖父や幼少期のことも収録した新装版が重版中のようです(「試し読み」)。小雪と発酵おばあちゃん「富山・泡を楽しむバタバタ茶」(9月18日)
で、紹介されていたバタバタ茶について
第一部 女性と茶
一 振茶と茶粥
振茶をさかのぼる
振茶(ふりちゃ)とは、桶なり茶碗なりに煎茶や番茶をだして茶筅で泡立てて飲む方法をいい、抹茶を用いる「茶の湯」とは異なる庶民の飲み方である。
まず、その独自なたて方で有名な富山県のバタバタ茶を紹介しよう。
北陸本線泊駅前からバスで南へ30分ほどのところに蛭谷(びるだん<富山県下新川郡朝日町>)という古い集落がある。
農業のほかに、他国への炭焼などの出稼ぎなどで生計をたてていた歴史を持ち、北陸地方に多い真宗のムラでもある。
バタバタ茶は以前はかなり広い範囲で見られたが、現在では、ここ以外ではほとんど行われなくなった。
それは、発酵させた黒茶という特殊なお茶を茶釜で煮出し、五郎八(ごろはち)茶碗と称する抹茶茶碗を小振りにしたような茶碗に茶杓で汲み出して、塩を少々混ぜてから茶筅で泡立てて飲むというもので、現在の煎茶の飲み方とくらべると、大変特異な飲用法である。
なお、黒茶は地元では作られず、福井県三方郡下で作られていたが1976年(昭和51)に製造が中止されたので、愛好者の要望によって現在は富山県射水郡小杉町青井谷で生産されるものを取り寄せている。
(『茶の民俗学』中村羊一郞 名著出版 1992年) バタバタ茶は、原則として、各家の先祖のヒガラ(命日)に近所の人々を招いて行うのだが、特にそうした機会にこだわらず気楽に集まることも多い。
これは「こっそり茶」と呼ばれるが、別にこそこそやるわけではない。
バタバタ茶で使われる茶筅は抹茶で使用するもとのと異なり、細い竹を二本束ねたような形をしている(21頁の写真2参照:省略)。
五郎八茶碗は、はるばる松江から取り寄せる。
これに茶を注いで茶筅で泡立てることを「振る」という。
この時、茶筅が茶碗にあたって、カタカタという調子のよい音がでる。
家の前を通りかかるとこの音が聞こえるから、やはりこっそりとはできない。
むしろ、この音が通る人を呼び寄せ、ささやかな茶会を賑やかにさせる大事な役割をはたしているといってもよい。 1989年(平成元)の7月、泊駅前発一番のバスで蛭谷に行き、この音が聞こえてくる家を探した。
あいにくその日はどこもヒガラに当たる家がなかったが、いわゆるこっそり茶の家に行くことができた。
昔は、囲炉裏を囲んでの茶会だったが、現在は囲炉裏のかわりに石油を使った火鉢を真ん中にすえ、女衆があつまっている。
誰かのぞく人がいると、「入って、お茶のまっしゃえー」と声をかける。
みんな茶碗と茶筅を入れた袋を持参しているのが楽しい。
次々と人が増えて火鉢のまわりでは四方山話に花が咲く。
各自が持ち寄った香の物、菓子、干鱈などを食べながら、何杯でもおかわりをする。
私も仲間に入れてもらい、勧められるままに茶を振ってみた。
土地の人のようにいい音はだせないが、それでもちゃんと泡が立つ。
不思議なことに何杯飲んでもがぶがぶした感じがしない。
昔は塩を入れたのだが、高血圧を心配する保健婦さんから止められて、今は塩なしである。 なお、ここが真宗の地帯であることはこうした茶会の意義をとくに大きくしている。
真宗独特の講という組織には茶会という形式がまさにぴったりだったと思われるからだ。
真宗の人々は門徒とも呼ばれ、極めて強固な団結力を誇る。
毎月、日を決めて集まり、相互に信仰を深めているが、その集まりの核をなしたのが実はこの茶であった。
また、女衆が主役をつとめている点が注目されるが、この点に関しては後に詳しく触れることにしよう。 バタバタ茶は富山県の朝日町、入善町のほか新潟県の糸魚川市でもかつてさかんに行われていた。
ただし、蛭谷などではお茶は各自がたて、また使用する茶は黒茶であるのに対し、糸魚川では主人がたて、また茶は普通の番茶に茶花を加えて使うという相違点が認められる。
このように、バタバタ茶を含めての総称である振茶の習俗は富山県の東北部にはかなり広く分布しているほか、名称は少しずつ異なっているが、日本各地に点々と見られる。
例えば、島根県松江のボテボテ茶、沖縄のブクブク茶などで、茶碗のかわりに桶で茶を振るところもあり、桶茶と呼ぶ地方も多い。
この振茶に注目し、全国を訪ねてその実態を集大成した漆間元三の『振茶の習俗』を中心に、先行の研究と筆者が現在把握している振茶に関する伝承をまとめてみると、第1表(「振茶の習俗一覧表」:省略)のようになる。
東北から沖縄県にいたるまで、ほぼ日本列島全域にわたって、振茶が行われていたことがわかる。
…後略…
(『茶の民俗学』中村羊一郞 名著出版 1992年)
中村氏が取材した時は「黒茶は地元では作られず」と書かれていますが
現在では番組にあったように地元の方が茶を作っておられます。
番組を見ていた父が故郷でもお年寄りが飲んでいたと話していました。
検索すると
〝徳之島で育まれる親睦のお茶「ふり茶」〟(世界自然遺産 奄美・沖縄)
先日、大阪市立美術館で
特集展示「売茶翁から花月菴―煎茶道はここから始まった!―」を見てきました。
お茶のことをほとんで知らないので
第3章 食文化の発展を支えた生産と流通
抹茶から煎茶へ
生活に密着した茶
「一服一銭」などで庶民に広がる
日本における茶の歴史は、それほど古いものではない。
弘仁(こうにん)6年(815)に僧・永忠(えいちゅう)が嵯峨(さが)天皇に煎茶を献じた記録が初見で、平安時代には、寺院などで薬用程度にしか利用されなかった。
喫茶の本格的な開始は、栄西(えいさい)が入宋(にっそう)して抹茶を伝え、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著わしてからのことで、茶の湯の興隆で普及をみせるものの、やはり僧や一部の上流階層のものだった。
(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)
室町時代末期から江戸時代初期には、武家の間にも茶の湯が広まり、路上での「一服一銭(いっぷくいっせん)」などで、庶民にも茶を飲む習慣が広がっていった。
日本料理の原形のひとつともいうべき懐石(かいせき)料理も茶の湯から発したもので、日本人の食生活と茶の関係は密接なものになっていった。
一方、正保(しょうほう)2年(1645)刊の俳書『毛吹草(けふきぐさ)』には、山城(やましろ)・丹波(たんば)・大和(やまと)・伊勢(いせ)などの国々が茶の産地として登場する。お茶のことをほとんで知らないので
第3章 食文化の発展を支えた生産と流通
抹茶から煎茶へ
生活に密着した茶
「一服一銭」などで庶民に広がる
日本における茶の歴史は、それほど古いものではない。
弘仁(こうにん)6年(815)に僧・永忠(えいちゅう)が嵯峨(さが)天皇に煎茶を献じた記録が初見で、平安時代には、寺院などで薬用程度にしか利用されなかった。
喫茶の本格的な開始は、栄西(えいさい)が入宋(にっそう)して抹茶を伝え、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著わしてからのことで、茶の湯の興隆で普及をみせるものの、やはり僧や一部の上流階層のものだった。
(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)
室町時代末期から江戸時代初期には、武家の間にも茶の湯が広まり、路上での「一服一銭(いっぷくいっせん)」などで、庶民にも茶を飲む習慣が広がっていった。
日本料理の原形のひとつともいうべき懐石(かいせき)料理も茶の湯から発したもので、日本人の食生活と茶の関係は密接なものになっていった。
しかも、山城国以外は「煎茶」と記されている点が注目される。
煎茶は入れ方が簡単で、庶民向きだからである。
現在の煎茶が急須(きゅうす)に茶葉を入れ、上から湯を注ぐのに対し、この時代の煎茶は薬缶(やかん)などで「煎じる」もので、製法的には現在の番茶に近いものだったと考えられる。
煮立った茶を茶碗に半分ほど入れ、水を加えて飲むという記録もある。
…つづく…
(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)今朝の父の一枚です(^^)/
9月15日の記事から飛んでしまいましたが(^^ゞ
「世界最大の川は空にある?」つづき
大気の河の水蒸気を雨に変換するからくりの一つが線状降水帯です。
大気の河の上陸地点にはしばしば線状降水帯が発生します。
2023年の台風2号では、その東側に形成された大気の河がまず四国付近に上陸し、高知県では非常に強い線状降水帯が発生しました。
台風の移動とともに、大気の河の上陸地点は紀伊半島、東海地方と東に移動していきます。
それとともに上陸地点に次々と線状降水帯が発生しました。
このように大気の河は線状降水帯を発生させる極めて危険な現象なのです。
方丈記は、枕草子、徒然草と並ぶ古典文学の三大随筆の一つですが、そのおよそ3分の1は、長明が経験した災害を記述しています。
低気圧の強風による大火、竜巻と考えられる京都の「辻風」、台風と思われる「秋大風」、そして飢饉や洪水などが出てきます。
方丈記の書かれた鎌倉時代にも線状降水帯や台風に伴う大気の河があったのでしょう。
人の力では如何ともしがたく、無理無体に、不条理に人の命が奪われること何度も経験したことが、方丈記の無常観となったのかもしれません。
これらの災害は現代の日本にも通ずるものではないでしょうか。
日本は依然として災害大国なのです。
(『天気のからくり』坪木和久 新潮選書 2025年)