「クリスマス寒波」という言葉がありますが、
今週は、季節外れの暖かさで「クリスマス暖波」だとか…
歩いていると汗こそ出ませんでしたが、熱くなってきました。
ここしばらくの暖かさに誘われたのか水仙が今にも咲きそうでしたし
梅の蕾からチョコンと花びらも見えました。
と言って、油断をしていると……
「1月と2月は冬らしい寒さの見込み 気象庁が3か月予報発表」(NHK 12月23日)今日、24日はクリスマスイブ。
公園の帰り、中高生が帰宅する姿をみかけました。
2学期の終業式があったみたいです。
そして父の故郷では、
昭和28年(1953)12月24日
奄美群島返還の日米協定調印、即日国会で承認される(25日、公布・発効され本土復帰)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
「奄美大島 本土復帰へ」(NHKアーカイブス 1953年)以前、転記したことがありますが
第3章 変貌する戦後――1955年~1972年
沖縄返還交渉の核心――「核抜き・本土並み」の意味
…前略…
1953年(昭和28)12月、日米協定、つまり、調印国すべてではなく日米二国間の交渉のより、奄美大島返還が実現した。
これは「奄美方式」といわれたもので、後に沖縄の施政権返還の際に、先行事例となった。
ところで、奄美大島返還は逆にみれば、残る沖縄・小笠原についてはアメリカの譲歩があり得ないことを示唆するものであり、沖縄の基地建設は、これ以後本格化する。
1960年(昭和35)の安保条約改定の際、日本側には、沖縄問題に関するアメリカの理解を求める方針であったが、結局、まず条約改定を実現することが優先された。
さらに、本土の米軍基地が整理縮小された結果、本土から沖縄基地への機能移転が進む。
アメリカには沖縄の長期保有方針を、変更する考えはなかったのである。
(『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年) しかし、1961年(昭和36)に発足したJ・F・ケネディ政権が、60年安保における日本国内の反米感情に配慮して、E・ライシャワーを大使に任命したことは、沖縄問題の重要性を日米関係の安定化という観点から見直すことにつながった。
ライシャワー大使の沖縄への関心は、ジョンソン政権へ受け継がれる。
その後、国務省と国防省は、沖縄問題に関する特別研究グループを発足させ、国務省のR・スナイダーと国防相のM・ハルペリンが中心となって、軍部に対する説得を試み始めていた。
…後略…
(『戦後と高度成長の終焉 日本の歴史24』河野康子 講談社学術文庫 2010年)
今日のニュース
「第1次核危機で“有事の備え不十分と米国いらだち” 安保転機に」(NHK) 「1934年、ベルリン」つづき
しかしながらナチスに理解できなかったのは、アメリカではなぜ「われわれも関心を持つユダヤ人が有色人と見なされないのか」だった。
ナチスにとってはユダヤ人が別個の「人種」であることはあまりに明白だったうえ、アメリカもユダヤ人に移民割り当て人数を適用することですでに一定の反ユダヤ人感情を示していたからである。
ナチスからすれば唯一の不可解なこの抜け落ちを除けば、「アメリカの法体系はドイツに完全に合うだろう」とフライスラーは言った。
出席者たちは知らなかったが、フライスラーはのちにナチスドイツの「死の裁判官」としてその法体系を自ら利用する地位につくことになる。
「われわれはアメリカの諸州で用いられているのと同じ粗雑さをもって前進するべきだと考える」とフライスラーは述べた。
「そのような手順は粗削りのものになるが、十分だろう」
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年) 懐疑派はアメリカの法規になかなか納得せず、雑婚禁止法が正確にはどのように適用されるかについて議論し、ユダヤ人とアーリア人の定義案を分析して、少しでも黒人の血が入っていれば黒人と見なすアメリカの制度を理解しようとした。
穏健派は、ユダヤ人とアーリア人の血を半分ずつ引く人がアーリア人の部分から切り離され、そうでなければ享受していたカーストによる特権を奪われることが気になっていた。
そのような人は半分ユダヤ人と定義されるのであれば、同時に半分アーリア人ということになるのではないか?
しかし強硬派の一人のアヒム・ゲルケが、皆で検討していた定義案に話を戻し、ユダヤ人の血が十六分の一あればユダヤ人とする定義を提案した。
クーンズによれば「アメリカ人よりも厳格な定義をしたかったから」だった。 その日、出席者たちは10時間話し合い、合意にいたらなかった。
「話が嚙み合っていない」と、進展のなさに業を煮やしたフライスラーは終わりのほうで言った。
アメリカの見本を採用しようと主張する過激派を、穏健派が今のところ抑えたのだったが、15ヵ月後には過激派のほうが優勢になる。 1935年9月、ヒトラーはニュルンベルクで開かれたナチ党の年次党大会で国会を招集し、ナチスが支配権を握って以来あたためていた新法を発表した。
その頃までにヒトラーは政敵の多くを投獄または殺害しており、そこには国会議員12人のほか、ヒトラーの長年の友人でナチスのSAを率いていたエルンスト・レームも含まれていた。
こうしたことを受け、国会は脅迫によって服従する政府の手先のようになっていた。
ちょうどそのときナチスは国中に強制収容所を建ててもいた。
一つは首都の北のザクセンハウゼンにあり、まもなく開所すると「モデル」の一つになる。 ヒトラーは、やがて「血の法律」として知られるようになる法律を最終日に発表しようと考えていた。
その前夜、ヒトラーは数人の部下に、国会に提出して形ばかりの承認をさせるための法案を作成するよう指示した。
ナチスの調査員たちは、半分ユダヤ人である人がユダヤ人かアーリア人かを決めるのを助けてくれる規定を米国の雑婚禁止法の一部に見つけていた。
テキサス州とノースカロライナ州の禁止法には、どちらかはっきりしない人が黒人か白人か、特権を持つのか冷遇されるかを決めるのを助ける「関連条項」があった。
その人がカーストの純潔に抗って冷遇される集団の人と結婚していた、または関わりがあることが知られていた場合には、その人は冷遇される集団に属するとされた。 ヒトラーが9月に発表し、以後拡大していったのは次のことだった。
「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」のもと、祖父母のうち三人以上がユダ人である人はユダヤ人とされた。
またアメリカの関連条項に倣い、二人のユダヤ人の祖父母を持ち、かつユダヤ教を実践する、またはユダヤ人の共同体に受け入れられている、またはユダヤ人と人もユダヤ人として「数え」られた。
第二に、同法はユダヤ人とドイツ人の結婚と婚外交渉を禁じ、45歳未満のドイツ人女性がユダヤ人家庭で働くことも禁止した。 こうして始まった制限は厳しくなる一方だった。
以後、ユダヤ人は市民権を剝奪され、ドイツの国旗を掲げることを禁じられ、旅券も取得できなくなった。
その発表で「ドイツは一人前の人種主義体制になった」と歴史家のジョージ・M・フレドリクソンは書いた。
「そのような法律の外国における主な先例はアメリカの諸法だった」 しかしナチス自体も人種に執着していたので、アメリカの見本にも限界があった。
「アメリカとナチスの人種分類が類似しているとする学者たちは、その点で間違っている」とウィットマンは述べた。
「ただし、それはアメリカ法の相対的な厳格さを過小評価している点においてのみである」 ニュルンベルク法は恐るべきものだったが、ナチスはアメリカについての調査でわかったことをすべて取り入れたのではなかった。
あの日の非公開会合でも、ニュルンベルク法の最終版でも、アメリカの制度のある面については採用が検討されなかった。
ナチスは「人類の純潔について法律を定めることに関するアメリカの意欲」は称賛したが、ウィットマンによれば「一滴でも二グロの血が流れるアメリカ人男女が黒人として数えられる」という「容赦のない冷淡さ」を受け入れることはできなかった。
「一滴規定(ワンドロップ・ルール)は、ナチスにとってもあまりに厳格すぎた」
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)
映像の世紀バタフライエフェクト
「奇妙な果実 怒りと悲しみのバトン」(2024年5月13日)
戦時中、アメリカでは、ドイツ人やイタリア人は収容所に強制的に隔離されませんでしたが、
「鉄条網に囲まれて」(NHKアーカイブス) 100分de名著
キューブラー・ロス「死ぬ瞬間」 (4)希望と「死の向こう側」
に子どもの詩が紹介されていました。
〝テレジン強制収容所で子供たちが描いた大量の絵と詩の原稿が残されていたことを知ります。
そして、ある詩の一篇に強く心を動かされたのでした。
太陽の光は
金色のベールとなって輝き
あまりの美しさに私の体は疼(うず)く
頭上には叫びだしそうな青い空
確信を得てわたしは思わず微笑(ほほえ)む
世界は花に満ち
微笑んでいるかのようだ
飛び立ちたい、でもどこへ?
どこまで高く?
有刺鉄線に囲まれていても花は開く、
それなら
この私だって!
絶対に死んだりしない!
1944年 作者不明「陽ざしのあふれる夕べに」
収容された1万5,000人の子供のうち生存者は 僅か100人ほど。
そのような状況下でも「生きる可能性」を諦めなかった彼らにキューブラー・ロスは、終末期患者が抱く「希望」を重ねたのでした。〟
… … … … … … …
そしてイスラエルによって
〝ガザ地区、5万人以上の子どもが死傷 「想像を絶する恐怖」……〟(ユニセフ 5月27日)













