日曜日、京都の街歩きは蒸し暑いと思ったのに
今日は、20度に届かないとの予報。
そのうえ風が吹いていていっそう寒く感じました。
ヒガンバナは、花の時期を終えて花茎の根元から葉が出てきていました。高市氏が総理大臣になりましたね。
昨日、高市氏と吉村代表が満面の笑みで握手をしている映像が映っていました。
大阪では、自民党党本部から公認を得る候補者はいるのかな?
私は、特定の政党を支持していないので、
選挙のたびに「よりましな」後補に投票しています。
一方、父は長年、自民党を支持していますが、自民党の候補者がでてくるのか?
こんな試算があります……
「連立解消で自民から離れる公明票を可視化……」(産経新聞 10月19日)龍谷ミュージアムで秋季特別展「仏教と夢」を見てきました。
第3章 高僧がみた夢
●――明恵上人がみた夢
明恵上人(1173~1232)は19歳の頃に仏眼仏母(ぶつげんぶつも)を本尊として行った儀礼を起因として、好夢(こうむ)をみたことから58歳までの夢の記録を『夢記』(No.3-49~3-52)として綴ったことで知られる。
そこには、普陀山観音菩薩や五臺山文殊菩薩、そして善財童子など、『華厳経(けごんきょう)』に説かれ明恵が善知識と尊崇する尊格や、仏教僧の理想として位置づけた羅漢らを夢でみたことがわかる(No.3-53、3-54も参照)。
明恵は生涯を通して釈尊に思慕し、世俗と離れた仏教僧としての在り方を追った。
24歳時には、仏眼仏母像の前で自らの耳の一部を切り落としており、No.3-48にはその痕跡が描かれている。
厳格に高山寺の裏山(楞伽山<りょうがせん>)で瞑想するなどして、その道を確立していった。
夢の中に生きた明恵の姿を垣間見ることができよう。
…後略…
(『展覧会図録 2025年度秋季特別展 「仏教と夢」』龍谷ミュージアム、京都新聞)
「高山寺の仏眼仏母像(国宝)」(京都国立博物館) 第一章 明恵と夢
夢の記録
明恵が生涯にわたって夢を記録したのは、まったく稀有なことであると述べたが、果たしてそうであろうか。
人類はきわめて古くから夢に関心をもっていたように思われる。
古代エジプトにおいて、夢は神のお告げと考えられていたようである。
古代エジプトにおける夢のことは、旧約聖書の夢の話に反映されている。
創世記第41章には、エジプトの王が「七つの肥った牛と七つの痩せた牛」の夢を見て、それをヨセフが解釈し、7年の豊作の後に7年の凶作が続くと予言したことが記されている。
そして、旧約聖書によれば、その通りのことが実際に起こったという。
旧約聖書にはこの他に十例をこえる夢が記載されている。
新約聖書にも夢の記載が数例あり、マタイ伝第1章には、マリアがキリストを妊娠したのを知り、ヨセフが離縁しようとしたとき、彼は夢に主の使いを見て、それによってマリアを妻とすることを決心したことが記されている。
(『明恵 夢を生きる』河合隼雄 講談社+α文庫 1995年) わが国の古代の夢については後に述べるとして、インドや中国に目を転じても、古代における夢の記録には事欠かないのである。
摩耶夫人(まやぶにん)が釈迦(しゃか)を身ごもるときに、菩薩が白象に乗って胎内にはいる夢を見たという話もあるし、あの合理主義者の孔子(こうし)でさえ、年老いて三日間も周公の夢を見なかったと嘆く有様である。 このようにして、古代からの夢の記録をあげよと言われるなら、いくらでもあげることができるが、個人が生涯にわたって夢の記録をつけたということになると、近代になるまでおそらく例がないのではないかと思われる。
筆者は夢分析を専門にしているので、そのような点については相当に気をつけているし、欧米に行ったときも、あちらの学者に問いかけてみるが、今までのところ、そのような例に接したことがないのである。 わが国には、後に少し触れるが、明恵に影響を受けたと考えられる多聞院英俊(たもんいんえいしゅん<1518-1596年>)が日記に多くの夢を書き残しているが、ともかく、世界を見渡しても、フロイトの『夢判断』にも引用されているが、19世紀末になって、フランスのサン・ドゥニが長期にわたる夢の記録を残しているくらいしか、その例を見ないのである。
サン・ドゥニの場合は、夢を「研究」するという立場が強く、明恵のように、生きることの本質のかかわる大きな意味を夢に見出して書きとめているのとは、少し趣きを異にしている。 このような点から言っても、明恵の『夢記』がいかに重要なものであるかが理解されるであろう。
生涯にわたって夢の記録を書き続けることは、思いのほかに心的エネルギーを必要とすることなのである。
うそと思う方があれば、自ら試みられるとその困難さが解るであろう。
これを行なうには、まず夢の意味ということが相当に解っていないと、関心が薄らいでくるために続行できないであろう。
それに、夢というものは、覚醒時の意識とは簡単につながるものでないので、それを覚えることは思いのほかにむずかしいことなのである。
夜、夢を見たと思っても起きたときに忘却してしまう人が多いのは、このためである。 たとえば、夢分析を受けている人でも、分析家の援助によって夢の意味を実感し得るので、夢を覚えておられるが、夢分析を中止すると、なかなか夢を覚えられないという人が多い。
時には、夢を非常に克明に覚えていて、記録もどんどん書いているという人もある。
このような人の場合は、無意識の力が強すぎて意識的な制御をこえている場合があり、危険を伴うこともある。
このような場合は、結局はそれが長続きすることが少ない。
あるいは、その夢の内容に病的な要素が強く示されることもある。
明恵の夢にはそのような点がほとんど認められない。 このような点から考えると、明恵があの時代に、夢の記録を書き続けたという事実は、彼の強靱(きょうじん)な精神力が計り知れぬものであることを示していると言わねばならない。
世界の精神史においても稀有な、と先に述べたことは誇張でもなんでもないのである。
精神病理学者の小田晋がこのような点を踏まえ、「文化史的に、個人の異常ともいえる内的体験に主体的に取りくんだ本邦では最初の一人」という讃辞を呈しているのも、まことにもっともなことである。
「内的体験に主体的に取りくむ」には夢に頼る以外の方法もあるので、簡単に結論できないが、夢を用いてこの困難な課題に取りくんだという点では、「世界で最初の一人」という讃辞を呈し得ると思われる。
毎日のごとく現代人の「夢の記録」に接している筆者としては、明恵が12、3世紀の頃に、何ら「分析家」という援助を必要とせず、生涯にわたって夢を記録し続けたことの偉大さが実感されるのだが、それをうまく読者に伝え得たかと思うと、もどかしい感じを抱かされるのである。
(『明恵 夢を生きる』河合隼雄 講談社+α文庫 1995年)今朝の父の一枚です(^^)/
この枝が、モズのお気に入りの場所のようで会えるのを楽しみにしています。
モズではありませんが(^_-)
父がお参りする石清水八幡宮の眷属(けんぞく)
第4章◎源氏とハト
八幡神の使いがハトである理由
でも、八幡神の使いがなぜハトなのでしょうか。
じつは、その由来ははっきりとわかっていません。
ただ、古い時代の八幡神にまつわるいくつかの伝説がヒントになると考えられていますので、その代表例としてここでは大神比義(おおがひぎ)の伝説をご紹介します。
比義は6世紀の人物とされますが、伝説には矛盾点もあり、実在したかどうかは不明です。
神職の子として生まれた大神比義は、第29代欽明(きんめい)天皇(509~571)の勅命により九州の宇佐を訪れました。
その頃、宇佐では不可思議な出来事が起こっており、その調査のため派遣されたのです。
すると、笹の葉に乗った童(わらべ)姿の八幡大神(はちまんおおかみ)が現れ、自分は応神(おうじん)天皇であり日本の守護者になることを告げたというのです。
その後、八幡大神は宇佐の地で、鍛冶の翁や金色の鷹、さらにハトへと姿を変え、居場所を移しながら最終的に小倉山(おぐらやま<現在の宇佐神宮が鎮座している場所>)に落ち着いたそうです。
やがてその御殿が宇佐神宮へと発展したと伝えられています。
…つづく…
(『鳥たちが彩る日本史 武将・文人と交わる8種類の鳥』大橋弘一 山と渓谷社 2025年)