2025年10月27日月曜日

久しぶりの青空

今朝は、青空が広がっていました。
暖かかったからでしょうか?
コスモスの花にミツバチがやってきていました。

冬のはじめのミツバチ」(小学4年生)
朝ドラばけばけ第4週「フタリ、クラス、シマスカ?」 (19)

おトキちゃん… 給料が入ったら一緒に聴きに行こう。
という銀次郎との約束が果たせないまま二人別れてしまいました。
二人で聞きたかった怪談落語「牡丹燈籠」を高座で演じたのが

 三遊亭円朝 (さんゆうていえんちょう)

 天保10・4・1―明治33・8・11(1839―1900) 落語(はなし)家。
本名出渕次郎吉(いずぶちじろきち)
江戸・湯島切通(きりどおし)、通称根性院横町に生まれた。
父は長蔵、母はすみ。
父は橘(たちばな)屋円太郎という音曲師。
弘化(こうか)2年7歳、小円太と称して江戸橋、通称土手倉(どてぐら)という寄席(よせ)に初高座。
異父兄に僧玄正がいて、そのすすめで寄席をひいて寺子屋に通い、歌川国芳(くによし)に浮世絵を学んだ。
(『新潮日本文学小辞典』伊藤整他編著 新潮社 昭和43年)
 安政2年17歳、初代円生(えんしょう)の墓前に三遊派再興を誓い、みずから円朝の名をえらんで場末の真打ちとなる。
鳴り物噺(ばなし)をはじめ、はなやかな芸風によって次第に人気を得た。
師の二代円生を中入り前にたのんでいたが、円生はいつも円朝の話そうと思う演題をさきにやってしまったので、苦しんだ結果『累(かさね)ヶ淵(ふち)後日怪談』(安政6)(『真景累ヶ淵』は明治31初演)その他を創作、口演した。
文久3年25歳、粋狂(すいきょう)連に加わり、のちの河竹黙阿弥(もくあみ)、瀬川如皐(じょこう)、仮名垣魯文(かながきろぶん)、一恵斎芳幾(よしばく)などと親交を結んだ。
4年、両国垢離場(こりば)の昼席で真打ちとなる。
明治2年、柳橋の芸妓(ぎ)お幸(こう)を妻とする。
4年、山々亭有人(さんさんていありんど)の補筆で『菊模様皿山(さらやま)奇談』を上梓(し)
10月、父没。
5年、弟子(でし)の円楽に師名三代円生をつがせ、円朝はこれより扇一本の素噺(すばなし)となる。
以来、続々と自作の新作を演じてその速記は新聞に連載、刊行されて明治芸界の名家となった。
10年39歳、伊達自得居士(だてじとくこじ)に禅を教えられ、高橋泥舟(でいしゅう)によってその義弟山岡鉄舟を知るにおよんで、芸ひとともにさらにその円光を加えた。
11年『塩原多助一代記』、17年には酒井昇造、若林玵蔵(かんぞう)の速記術によって『怪談牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』を出版、22年、向島木母(むこうじまもくも)寺に三遊塚(づか)を建立(こんりゅう)、その門下にすぐれた落語家が輩出した。
同年、郎月散史『三遊亭円朝子の伝』を出版。
24年、井上馨(かおる)邸で明治天皇ために『塩原』を演じた。
32年9月発病、10月木原店(きわらだな)で『牡丹燈籠』を演じたのがさいごの高座となり、33年8月11日没、62歳。
進行性麻痺(まひ)兼続発性脳髄炎。
谷中全生庵(ぜんしょうあん)、鉄舟の墓のかたわらに埋葬された。
辞世は「目を閉(とじ)て聞き定めけり露の音」と聞くが、墓碑には「耳しひて」と上(かみ)五の改悪が残された。
品のいい芸風で、その人情噺は自身、涙を流して話すほどの真実性があり、それゆえにまた理につむ話術ともいわれる。
しゃべりことばによる円朝の速記本が、明治文学におよぼした影響は大きい。
  (安藤鶴夫)
(『新潮日本文学小辞典』伊藤整他編著 新潮社 昭和43年)
 二 「怪談牡丹燈籠」
 はじめに


 三遊亭円朝は「怪談牡丹燈籠」を、文久元年(1861)、円朝23歳ころ創作したといわれています。
牛込軽子坂(うしごめかるこざか)に住む隠居から聞いたという話――飯島孝右衛門という旗本が牛込軽子坂の自宅で、下男に討たれた――を下に、義兄玄昌から教示をうけた海音如来(かいおんにょらい)の呪文と『剪燈新話(せんとうしんわ)』に収録された「牡丹燈記」のストーリーを交えて創作したとされています(清水康行「怪談牡丹燈籠」『円朝全集 第一巻』)。
「牡丹燈記」は、複数の写本が日本に伝えられました。
これに関しては石井明が詳述しています(石井明『円朝 牡丹燈籠』)。
(『三遊亭円朝と江戸落語』須田努 吉川弘文館 2015年)
 現在、わたしたちが手にしているものは、明治17年(1884)、東京稗史出版社から速記本として刊行されたものです。
円朝の「怪談牡丹燈籠」は、この速記本によって広く読まれていきました。
ただし、永井啓夫が指摘していますが(永井啓夫「怪談牡丹燈籠」『明治開化期文学集』)、この速記本は円朝が高座で演じた噺の忠実な再現となっていません。
ましてや、文久から元治年間に創作されたオリジナルと、現在のわたしたちが読んでいる『怪談牡丹燈籠』との差異を確認するすべも、残念ながらありません。
 ところで、岡本綺堂(おかもときどう)が「怪談牡丹燈籠」について、興味深いことを語っていますので紹介したいと思います(岡本綺堂『明治の演劇』)。

  一三、四歳のころ、『牡丹燈籠』の速記本を読んだところ、とくに怖いと感じなかった。その後、円朝が「牡丹燈籠」を高座にかけるというので聴きに行ったところ、「だんだんに一種の妖気を感じて来た(中略)。私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて」

円朝の噺の凄みは、速記本(活字)では伝わらないということです。
文字からは、噺の間、息づかい、声の様子などが分からないのです。
残念ですが、本書でも同じ事が言えます。
関心を持って頂いた方々は、ぜひとも、落語として観ていただければと思います。
 円朝は二つの物語を同時進行させる形(テレコ)で「怪談牡丹燈籠」を創作しています。
この二つの物語を仮に「孝助の物語」「半蔵の半生」と名付けましょう。
それぞれの中心人物、孝助と半蔵とはまったく互いに関わり合うことなく行動していきます。

 …後略…

(『三遊亭円朝と江戸落語』須田努 吉川弘文館 2015年)
今朝の父の一枚です(^^)/
カワラヒワかな?

 「八幡神の使いがハトである理由」つづき 

 八幡大神は応神天皇の神霊ということですから、応神天皇について少し触れておきます。
 第十五代応神天皇は、実在したか否か判断が分かれる微妙な時代の天皇です。
『日本書紀』には誉田天皇(ほむたすめらみこと)として記され、実在していたとすれば、四世紀後半から五世紀初頭頃ということになります。
宮内庁は、大阪府羽曳野(はびきの)市にある世界文化遺産・古市古墳群の中の最大の陵墓「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」を応神天皇陵としています。
この前方後円墳は墳丘長四百二十五メートルという国内第二の大きさの古墳として有名ですが、考古学的にはこの墳墓の埋葬者は不明で、その点でも応神天皇が実在したかどうか確証は得られていません。
 歴史的には、応神天皇は、多くの渡来人を迎えて積極的な外交を行ったことで知られています。
そうした政策によって経済や文化、学問などさまざまな分野での進展を含め大和朝廷の勢力が飛躍的に発展しました。
その立役者が応神天皇であったと評価されています。

 …つづく…

(『鳥たちが彩る日本史 武将・文人と交わる8種類の鳥』大橋弘一 山と渓谷社 2025年)