2025年10月23日木曜日

洗濯日和

昨日は、雨が降って寒かったです。
妹が父に付き添って病院に行くと
子どもたちが多かったのでインフルエンザかなと思ったけど
ワクチン接種に来院していたそうです。

今朝も寒かったのですが、日ざしがたっぷりで洗濯日和(^_^)v
今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)
神戸 六甲山の小学校でストーブの「火入れ式」〟(関西NHK)
こころの時代~宗教・人生~「地獄に佛のつかいあり 戸澤宗充
1937年生まれの戸澤宗充(とざわそうじゅう)さんは、
8歳の時に敗戦、収容所に入れられて
旧満州から2年後にやっと引き揚げてこられた。
ソ連兵が夜になると襲ってきた時のことを話しておられました。
戦争で悲惨な体験するのは女性や子どもたち。

結婚を決意する時にご主人が言ってくれたのが
これからの女性はね。家事・育児だけにとどまってほしくない
一生かけて、勉強するものを持つべきだと 僕は応援するよと言ってくれたの
そのご主人が宗充さんが二人目の子どもを産んだ時に交通事故で亡くなります。
鉄道自殺までしようとした宗充さんを救ってくれた本
涙が出るほど、私は、読み返し、読み返し読み返してきましたね
石川康明編著『現代語訳 日蓮上人の手紙』 国書刊行会
宗充さんがボロボロになるまで読んでおられた本は、絶版になっているようです。
手には入りやすい本

 はじめに

 …前略…

 日蓮は、檀越たちのそれぞれの情況に応じて手紙を書いた。
従って、日蓮の手紙には、人生相談あり、生活指導あり、激励ありと内容が幅広く、日蓮は、時に応じ、機に応じて弁護士、教育者、心理学者、演出家、劇作家、戦略家、詩人、ネゴシェーター(交渉人)であるかのような多彩な文章を綴っている。
それも、法門を型にはまって説明するのではなく、相手に応じて仏典だけにとどまらず、インド、中国、日本の故事や説話、歴史的教訓などを駆使して何とか分かってもらおうとする配慮に満ちている。
(『日蓮の手紙 ビギナーズ 日本の思想』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2021年)
 子を亡くした母や、夫に先立たれた妻の悲しみに寄り添い、少年には父が子に嚙んで含めるように語って聞かせるような文章を綴っている。
信仰と、職場と親子などの人間関係との葛藤に悩む人には、きめ細かい現実的で極めて具体的な教示を与えていて、そこには精神論も、抽象的な答え方も全く見られない。
 一人の人を激励するにも、相手の身になって、その人の周辺の人間関係を押さえて、その人間関係の中でどうしたらその人が生きるのか、やりやすくなるのか――という視点からなされていることに気づく。

 …後略…

(『日蓮の手紙 ビギナーズ 日本の思想』植木雅俊 角川ソフィア文庫 2021年)
先日、歩いた金光寺について

 時宗・時衆・遊行
 十四……… 作阿と金光寺 


『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』は、数ある絵巻物の中でも最高傑作の一つではないかと、私には思われる。
巻十二の奥書には、

 正安元年己亥(つちのとゐ)八月二十三日
 西方行人(さいはうのぎやうにん)聖戒(しやうかい)記之畢(これをきしをはんぬ)
 画図(がと) 法眼円伊(ほふげんゑい)
 外題(げだい) 三品経尹卿(さんぼんつねただきやう)

 とある。
聖戒がこの絵巻を創る熱意は大変なものであった。
彼は一遍の遊行(ゆうぎょう)を総て同行した訳ではないので、一遍の死後、一遍の歩いた土地土地を絵師・円伊を伴って訪れ、その様を誠に写実的にかつ芸術的に画面に表現させた。
(『京都発見(一)―地霊鎮魂―』梅原猛著、井上隆雄写真、新潮社 1997年)
 この絵巻物には、一つのクライマックスがある。
都において一遍が「踊り念仏」を披露した場面である。
一遍の浄土教は、例えば遊行とか賦算(ふさん)とかいう幾多の特徴を持つが、それが人々に強い印象を与えたのは、やはり「踊り念仏」であろう。
一遍が遊行を始めた時には、彼はまだ「踊り念仏」を行なっておらず、弘安2年(1279)に信州の佐久(現在の長野県東部)で、一遍をリーダーとする遊行僧が念仏を称えていた時、自然に踊躍(ゆやく)の心が起こり、「踊り念仏」が始まった。
しかし、この「踊り念仏」には先例がある。
既に空也(くうや)は「捨て聖(ひじり)」と呼ばれ、一遍の如く諸国を遊行する僧であったが、彼が、踊りを念仏に取り入れた。
私は、この踊りというのは縄文時代以来ずっと日本の各地で根強く行なわれていたものと思うが、空也は、その踊りを念仏と結び付け、それを布教の手段としたのであろう。
 一遍は、既に「捨て聖」と「遊行」において空也の伝統を受け継ぐ僧であったが、ここでまた、踊りを通じて、彼と深く結び付いたのであろう。
一遍は都に上り、四条京極の釈迦堂、烏丸松原の因幡堂(いなばどう)、八坂の雲居寺(うんごじ)、そして空也と縁の深い六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)などを訪ね、この東の市にやって来た。
ここは、「市聖(いちひじり)」と呼ばれた空也がしばしば「踊り念仏」を興行した所である。
ここに一遍は板敷きの踊り屋を造り道場とし、四十八日間、「踊り念仏」を行なった。
その様子が『一遍聖絵』巻七段の三に描かれている。
画面左に堀川の流れが描かれ、筏師(いかだし)が筏を操っている。
その近くに、乞食(こつじき)や漂泊の民、病者がたむろしている。
おそらく、この場所は、「市」のある時以外には、こういう乞食・漂泊の民・病者の集まる場所になっていたのであろう。
 その日七条の東の市には、「踊り念仏」を一目見ようとして、多くの群衆が詰め掛けて、棧敷さえ出来ているという有り様である。
踊り屋の上では僧たちが、恍惚として踊り狂っている。
この僧たちの中でも一際背高く、色黒く、頭の長いのが一遍である。
なぜか他の僧は眼を細め口を開け、いかにも恍惚として踊りを踊っているが、一遍一人、口を結び眉(まゆ)を釣り上げ、ただならぬ相で踊っているのである。
私は、一遍は恍惚として踊り狂う念仏踊りを勧めながら、自身は真に恍惚になれなかった人ではないかと、この「踊り念仏」の絵を見て思うようになった。
 この四十八日にわたる「踊り念仏」の興行によって、田舎の遊行僧に過ぎなかった一遍が突如として有名人になり、ここに時宗の基礎が造られた。
この「踊り念仏」を見て深く心を動かされ、一遍に帰依(きえ)して弟子となった人がいた。
京都八条の人で、橘氏の出ともいわれ、東寺の別当中室善貞(べっとうなかむろのよしさだ)の子ともいわれた人である。
園城寺(おんじょうじ)で学び胤恵(いんえ<院恵・印承とも)と称し、唐橋法印(からはしほういん)と呼ばれた。
この唐橋法印が一遍の弟子となり作阿弥陀仏(さあみだぶつ)と称し、空也の市屋(いちや)道場を市中山金光寺(こんこうじ)とした。
これがいわゆる時宗市屋(いちや)派である。
この作阿の市屋派は、江戸初期まで、独自の道を歩み、藤沢の遊行派との交流を持たなかった。
それで金光寺では、空也を始祖とし、一遍を二祖(にそ)、作阿を三祖としている。
 この『一遍聖絵』の場面には、鳥居が描かれているが、この鳥居は市比賣(いちひめ<姫>)神社の鳥居であろう。
市比賣神社は、延暦14年(795)、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が宗像三女神(むなかたさんめしん)を東西の市に祀(まつ)って守護神にしたという伝承を持つ神社ある。
宗像三女神は北九州の玄海町、大島、沖ノ島に鎮座している、市寸嶋比賣(いちきしまひめ)・多紀理毘賣(たぎりひめ)・多岐都比賣(たぎつひめ)の三女神であるが、ここは朝鮮或いは中国への貿易の地なので市場の神となったのか、或いは市寸嶋比賣の「市」に因(ちな)んで市場の神としたのか、明らかではない。
また延暦14年は、藤原冬嗣(775~826)の事績としてはあまりに冬嗣が若すぎるので、藤原継縄(つぐただ<727~796>)ではないかという説もある。
とにかく、東の市で一遍が「踊り念仏」を興行した時には、既にここには市比賣神社があり、それでその隣りに造られた一遍の市屋道場、後の金光寺は、市比賣神社を鎮守社のような形にしたのであろう。
 この時宗の聖地は今どうなっているのであろうか。
そこは今でも聖地であるが、時宗の聖地ではなく、浄土真宗の聖地となっている。
東の市の一帯は、西本願寺の南半分から興正寺(こうしょうじ<浄土真宗>)及び龍谷大学が存在する所である。
石山本願寺の武力抵抗にさんざん苦労した秀吉は、この東の市の地に本願寺の本拠地を移した。
これは懐柔と監視を兼ねた秀吉の巧妙な宗教政策であった。
 この秀吉の政策によって、金光寺と市比賣神社は河原町五条下ル下寺町に移され、おそらく寺地や社地は、著しく狭くなったと思われるが、それでも、今もなお仲良く並んで建っている。
金光寺もまた時宗の寺らしく、神とともに仲良く暮らして来たのである。
この市屋派の本山・金光寺は、寺宝として『一遍上人絵詞伝』(四巻)他、彫像、古文書類などを今も多く保有している。
そして、その研究を御住職の新堀俊尚(しんぼりしゅんしょう)師は熱心にされ、「時宗教学年報」等に発表されている。
 また市比賣神社の飛驒富久(ひだとみひさ)宮司は、雅楽の普及に大変熱心であり、「いちひめ雅楽会」を組織され、海外演奏も企画されている。
神と音楽――ここにも一遍の伝統を現代に生かそうとする姿がある。
 そしてこちらの神社には、赤子の誕生を祝う「五十日餅(いかのもち)」という神事があり、『源氏物語』や『拾遺和歌集』などの勅撰集、『小右記(しょうゆうき)』などの公家の日記等にたびたび登場する。
神事の初めは、皇子の誕生祝いであったが、後に、庶民の神事となり、「市の餅(いちのもち)」として親しまれた。
今はこの神事は廃(すた)れたが、何とか復興したい、と飛驒宮司は考えている。
私も同じ思いである。
(『京都発見(一)―地霊鎮魂―』梅原猛著、井上隆雄写真、新潮社 1997年)
一遍上人念仏賦算遺跡(いっぺんしょうにんねんぶつふさんいせき)」(京都市)

一遍聖絵」(巻七 30/37 国立国会図書館デジタルコレクション)

この本を街歩きの前に読んでいたらと思いました。
でも、いつか再び訪ねたいとも思いましたし、
今回も通り過ぎた西本願寺を訪ねたくなりました。
京都の町は、歴史があって何度訪ねても新しい発見があります。

定期市で庶民の生活はどう変わった?scene 05 資料No.2『一遍上人絵伝』」(中学・高校)