2025年10月19日日曜日

龍谷ミュージアム~文子天満宮~市比賣神社

昨日、父が、日曜日は人が多いので
公園への散歩を休むと言ったので
久しぶりに近鉄に乗って京都に向かいました。
京都駅について
先日、遠くから眺めた京都タワー(^-^)
初め訪ねようとしていた相国寺の特別拝観
※10月18日(土)~21日(火)は開山忌法要のため拝観を休止いたします
となっていたので変更して……
京都駅から七条通に出るとなんかの本で読んだよなと思う店
なかなか思い出せなかったけど

 西洋館で牛丼を 

 懐石、精進料理にはじまり、最近人気の豆腐料理、なぜか多いイタリアン……などなど、京都には料理のおいしい店が多い。
しかしこの町に、わずか三百五十円で見事な大正建築の中で食事ができる店があるというと、皆さんは驚かれるだろうか。
 一品が三百五十円で、食事全体はもっとかかるんだろうって?
 いえいえ、とんでもない。
ここでは牛丼並が三百五十円、大盛りにしても、五百円。
ワンコインで、十分満腹になれる。

…後略…

(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)

この本は2008年に単行本が出て、文庫本は2015年なので
現在は、値上げしています念のために(^_-)
こちらも見たかった「仏教と夢」(龍谷ミュージアム)
館内は撮影禁止だったのですが
 「ベゼクリク石窟大回廊復元展示」は、撮影可
中国・新疆ウイグル自治区のトルファン郊外にあるベゼクリク石窟寺院にある壁画を復元しています。

モンゴル帝国の時代は、支配した地域の文化を尊重したのですが
中国 新疆ウイグル自治区の人権問題」(ヒューマンライツ大阪 2022年5月)
次の目的地に向かう前に(^_-)
小さなお皿ですがハーフサイズのカレーです。
前に来たときはチーズケーキをいただきました)

京都国立博物館では図録を諦めましたが、やはり買っておけばよかったと後悔しました。
今回は、『2025年度秋季特別展 「仏教と夢」』を購入しました。

携行していた文庫本は『明恵 夢を生きる
だいぶ前に読み終えたのですが、読み直すと覚えていません(^^ゞ
私がblogで転記するのは、少しでも記憶に残したいからです。
第3章 高僧がみた夢」に明恵の「夢記断簡」直筆を見ることができました。
カフェ「前田珈琲 龍谷ミュージアム店
ハーフサイズは値段もハーフサイズ(半額)ですよ!
私のように高齢者にはありがたいです(^_^)v
お腹が満腹になると歩くのが嫌になる!
今回も「西本願寺」を横目に見て…
重要文化財
 本願寺伝道院 ※指定名称 旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院) 

 この建物は、明治28年(1895)4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋として、明治45年に東京帝国大学教授伊藤忠太の設計、竹中工務店の施工により建築されたものです。
当初は「本館」のほかに「付属屋」、「倉庫」の2棟、「物置、人力車置場、便所」、「屋根付伝ひ廊下」が建っていましたが、現在は「本館」のみが残っています。
 伊藤忠太の提唱した「建築進化論」(石材や鉄に依存しつつも欧化でも和洋折衷でもなく、日本建築の木造伝統をを進化させること)を明確に表現した建物で、外観は古典様式に基づくものの、開口部まわりや軒まわり、塔屋の形態などにサラセン様式、日本の伝統的な様式が用いられています。
 現在は本願寺伝道院として浄土真宗本願寺派僧侶の布教・研修の道場として使用されています。
    本願寺
東本願寺」も通り過ぎて
  文子天満宮(あやこてんまんぐう) 

 祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮二十五社の一つに数えられている。
 社伝によれば、太宰府(福岡県)に左遷された道真は、延喜(えんぎ)3年(903)に五十九歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀(まつ)れ」との道真の託宣(たくせん<おつげ>)を受けたという。
しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小さな祠(ほこら)を建て、道真を祀ったといわれている。
これが当社の起こりで、天神信仰発祥の神社、また北野天満宮の前身とも伝えられている。
 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。
現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。
毎年4月16日に近い第三日曜日に、例祭が執り行われる。
    京都市
 菅公 腰掛石

菅原道真公が太宰府へ御左遷の途次お立寄の際
腰掛けられた腰掛石
 眷属(けんぞく) 
 サル、ウサギ、カメ、キツネ…
 さまざまな神の「お使い」

 神社境内で見かける動物の像でも、狛犬は外敵などの侵入を防ぐ「魔除けの霊獣」。
これに対し、稲荷(いなり)のキツネなどは「神の使い」とされる。
このような神の使いを総称して「眷属」という。
 神の使いとされた動物たちは、昔の人々が身近で日常的に見かけたもの。
熊野大社のカラス、日枝(ひえ)神社のサル、天満宮のウシ、八幡宮のハト、春日(かすが)大社のシカ、松尾(まつお)大社のカメ、愛宕(あたご)神社のイノシシ、三峯(みつみね)神社のオオカミなどが、眷属としてよく知られている。
(『歴史がわかる、腑に落ちる 神社の見方』外山晴彦・『サライ』編集部編 小学館 2002年)
 眷属は、狛犬と同じように、石像などの形で、境内に設置されているものが多い。
狛犬の代わりにキツネなどの像を置いただけのようにも見えるが、狛犬とは基本的な性格が異なる。
 だから、「狛(こま)ウシ」とか「狛イノシシ」などという呼び方はしない。
「狛」という字には「犬」の意があるので、適切な表現はないのである。
 では、なぜ眷属というものが置かれるのだろうか?
日本の神は古来、その姿が見えない「幽体(ゆうたい)」に特徴がある。
神は決して姿を現さない。
神がお出ましになっても、人々にはその存在が確認できない。
そこで神が、人間に見える形で遣(つか)わした「使い」が眷属と解釈される。

 …後略…

(『歴史がわかる、腑に落ちる 神社の見方』外山晴彦・『サライ』編集部編 小学館 2002年)
 長講堂(ちょうこうどう)

 …前略…

 六条河原の西方は、豊臣秀吉のときに寺院が集められた寺町で、有名な長講堂(法華長講弥陀三昧<ほっけちょうこうみださんまい>)堂、浄土宗がある。
法華経を長日講讃して弥陀を念じ、死者を追善するため名づけられたという。
後白河法皇が御所六条殿に設けた持仏堂が起源で、後白河法皇は1192(建久3)年死去に際し、「五ヶ条起請(きしょう)」を書いて仏事を定め、膨大な荘園を寄進、寺と寺領は寵愛した丹後局高階栄子の産んだ宣揚門院(せんようもんいん)覲子に譲与された。
これが長講堂領で、のち後深草天皇を経て持明院(じみょういん)統に伝えられ、南北朝合一後も皇室の有力な財産となった。
 寺はしばしば火災にあって場所を移し、名称も「新長講堂」「上長講堂」とかわり、天正年間(1573~92)に下寺町の現在地に移った。
現在の建物は1864(元治元)年の兵火で類焼した後のものである。
また宗派も天台宗―律宗―浄土宗とかわった。
現在は本堂庫裡と御影堂のみである。
寺宝に本尊木造阿弥陀如来及両脇侍像(国重文・平安)、御影堂の木造後白河法皇御像(国重文・江戸、4月13日開扉)、後世の写本ながら、原本は後白河法皇自ら死者の名を書き入れたいう祇王(ぎおう)・祇女(ぎじょ)・仏御前の名のある過去帳がる。
(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
高齢の男性が一人で来るところではないのですが(^^ゞ

 市比賣神社(いちひめじんじゃ) 

 ご祭神に市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)・多紀理比賣(たぎりひめ)命・多紀都比賣(たぎつひめ)命・神大市比賣(かみおおいちひめ)命・下照比賣(したてるひめ)命の五女神を祀る。
 桓武天皇の平安京遷都に伴い、延暦14年(795)にご鎮座された。
京の市(官営市場)を守護する神社として、東西両市を社領地とし、東市の内にあったが、天正19年(1591)この地に移った。
なお、京都市中央卸売市場には開設時より当社の末社が祀られ、全国「市比賣神社・市姫神社」の総本宮として崇敬される。
 清和天皇から後鳥羽天皇に至る二十七代の間、ご皇室・公家の崇敬も厚く、皇子・皇女のご誕生ごとに当社の「天之真名井(あめのまない)」の神水を産湯に加え使われた。
また「お食べ初(ぞ)め」のもととなる「五十日(いか)・百日(ももか)之餅」の神事や「市之餅(いちのもち)」と称する産餅(うぶもち)が授与された。
 稲荷の母神であり商売繁栄の加護と子供の成育・女人守護をご利益とする当社は、女性の厄除の神を祀り、古来、女人厄除祈祷所として、全国の女性の信仰を集める。
境内にはカード塚も創られ、あらゆるカードを供養するという現代的な祭典も執り行われる。
 毎年五月と十一月の十三日は春秋例大祭が行われる。
        京都市
 鴨さんの投稿

女性の厄除け 市比売神社」(2011年9月6日)

京都駅からお気に入りの市バス17号系統に乗り込み河原町通を北上。
ほんの数分で「河原町正面」バス停について下車。

バス停からちょっとだけ北上するとありますあります!
女性必見の神様!!女性の守り神。女性の厄除け。

天皇家の産湯にも使われた「天之真名井」
(といっても竹筒からお水は出てきています)
のお水をいただいて願をかけるとひとつだけ願いがかなうとか。

カード式のお守りもありますよ。

河原町通を歩けば目立つ看板もあって道には迷わず行けます。
境内は狭いのですが、一休みにはちょうどいいですよ。

バス停 「河原町正面」下車 7:00~16:30
 市比賣神社にお参りに来たのは
隣りにある金光寺と共に「一遍聖絵」に描かれています(当時の地から移っていますが)。
一遍聖繪[7]」(30/37 国立国会図書館デジタルコレクション)

 金光寺(こんこうじ) 

 …前略…

 東の市中山(しちゅうざん)金光寺(時宗)は承平年間(931~938)空也(くうや)が市姫の神勅で創建したもの。
当初は天台宗であったが、一遍(いっぺん)が1284(弘安7)年3度めの入京したとき当寺で念仏踊を行い、このとき一遍に帰依(きえ)した住持の俊暁(しゅんぎょう<唐橋法印(からはしほういん>)が作阿(さくあ)と改名し時宗にしたという。
 当初は平安京の東市(ひがしいち)のそばにあったので市屋(いちや)道場と称した。
また市姫神社を鎮守として庶民の信仰を集めたらしく、市姫金光寺ともいう。
1591(天正19)年秀吉の命で現在地に移った。
天明と元治の大火で焼けたため、現在の建物はそれ以降のものである。
寺宝に遊行上人絵巻4巻(国重文・鎌倉)がある。

 …後略…

(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
 エノキの根元に石碑(赤い→)
源融河原院址(みなもとのとおるかわらいんあと

 ◎河原院(かわらのいん)  

 河原院は、嵯峨天皇の第8皇子源融(みなもとのとおる)の別荘である。
融は風流人で、別荘はほかに棲霞観(せいかかん<現嵯峨清涼寺>)・宇治院(のち平等院)がる。
渉成園(しょうせいえん)が河原院跡で、中島の九重塔は融の墓という説は誤りで、河原院は渉成園の少し北の本覚寺のあたりにあったと考えられる。
融は河原院に陸奥(むつ)国塩竈(しおがま)の景を移し、難波江(なにわえ)の潮水を運んで塩を焼く煙をながめた。
これが塩竈(しおがま)町の由来である。
融没後、邸は子の湛(たたう)によって宇多上皇に献上され東六条院に、上皇没後は融の子仁康(にんこう)が寺とし、丈六の釈迦像を安置したが、この地は水難が多いので像を上京に移して祇陀林寺(ぎだりんじ)を開創、河原院は廃絶した。
 河原院付近は平安時代から六条東洞院に白河天皇の里内裏(さとだいり)となった六条内裏、東洞院西に宇多天皇の御所中六条院(寛平<かんぴょう>御所)、室町東に大中臣輔親(すけちか)の六条院などがあった。
(『京都府の歴史散歩<上>(旧版)』山本四郎 山川出版社 1995年)
隣りにお稲荷さん
外国からの大勢の観光客が来られていました。
ただ物見遊山だけではないと思ったのが
龍谷ミュージアムで熱心に見ておられましたし
小さな社「文子天満宮」では、二組の欧米からの観光客がこられていて
鳥居をくぐるときに拝礼されていました。
ラフカディオ・ハーンのように日本の文化に親しまれている方が多いと思います。

今回も急に決まったので事前に下調べをあまりせずに歩きました。
でも、京都は、歩いて回っているといろんな気付きを与えてくれる街です。

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    涼しくなりました~
    19日に偶然ですが、京都駅へ行っていました~
    19日も涼しくなると聞いていましたが、お散歩すると蒸しっとしていませんでしたか?

    文子天満宮や市比売神社には拝観したことがあったので。。うれしく読ませていただきました。(*^-^*)
    姫だるま可愛いかったです。

    源融、「光る君へ」を思い出しました~
    今回の大河ドラマはみていませんが。。
    京都のお散歩、Kazeさんのおっしゃるように、
    いろんなところで気付きをもらえますね。(*^-^*)

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    1. カイさんいつもコメントありがとうございます(^^)/
      カイさんも19日に京都駅に行かれてたんですね。
      少し蒸し暑かったけど今までのことを思うとρ(^^)q

      >姫だるま可愛いかったです。
      みなさんの願い事で溢れそうでした!

      帰宅して調べるといろいろ歴史があってためになります。
      今回、長講堂については知らずに通り過ぎるところでした。

      大河ドラマは、放送時間が長いので
      昔々は父母が見ていたのに付き合っていましたが
      今では父も見なくなったので見ていません(^^ゞ

      源融は、光源氏のモデルだとも言われていますね。

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