2025年10月5日日曜日

咲くやこの花館へ

昨日は、風が吹いていて雨も冷たかったので散歩を休みました。
今朝も天気が怪しかったのですが
父が少し歩きたいというので咲くやこの花館にやってきました。
日曜日なのである程度は、覚悟はしていたのですが
鶴見 区民まつり」が開催されていて咲くやこの花館にも大勢の来館者がこられていました。
ということで短時間で帰ることになりました(^_^;
朝ドラ「ばけばけ」は、第1週から怒濤の展開でしたね。
前にも書いたけど、オープニングの映像で出演者などの文字が小さいという件
私は、気にならないというか出演者等は、
映画のように最後の方で流せばいいのに思っているくらいです。
ある意味、ネタバレになるような気がするのですが……

第1週「ブシムスメ、ウラメシ。」 (4)で、母親のフミが「しめこ汁」というのですが

 しめこ-の-うさぎ占子の兎】 
「しめた」の意を、兎を「絞める」にかけていう地口(じぐち)
物事の思ったとおりになった時をいう。
また、「しめこ」は兎の吸い物とも兎を飼う箱ともいう。
膝栗毛五「――といきなり手をやつてさぐりみれば」
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
(花が上の方で咲いていたのですがペリステリア・エラタ

明治維新となって牛肉など肉食が始まったように思いがちですが
江戸時代にも獣肉が食べられていました。

 江戸時代の獣肉食
 肉食の変遷


 鹿や猪などの獣肉の食用は縄文時代から行なわれており、天武天皇4年(675)に出された肉食禁止令では、牛・馬・犬・猿・鶏の食用が禁じられましたが、その他の獣類の食用は禁じられていません。
牛と馬は農耕用に、犬は番犬として、猿は人間に近い動物なので、鶏は時を告げるのでというのが禁止の理由とされています。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)
 肉食の禁令はその後も出されており、当時の人々の肉食嗜好をうかがわせますが、仏教の普及とともに、殺生戒による肉食忌避の風潮が広まって、平安時代ごろからは上流階級では肉食は見られず、中世には仏教が社会に浸透して、庶民にも肉食忌避が広まりました。
 なお、肉食は動物、特に鳥獣の肉を食べることをさし、魚も魚肉を食べるので広義では肉食に入りますが、魚については一般に肉食とは言いません。
また鳥も多くの野鳥が食材とされており、肉食という場合にはおもに四足の獣肉食をさしています。

 江戸時代の獣肉食 (省略)

 食用獣類の人体への効能と料理法 

 表1(省略)は年代順に五つの文献を選び、記載された食用獣類を、出現回数の多いものから表にまとめたものです。

 ・鹿(省略)

 ・猪(省略)

 ・兎
『本朝食鑑』(1697)には、兎肉は他の獣肉にくらべて美味とあります。
また徳川将軍家では元旦の祝膳に兎肉の吸物が嘉例となっているとありますが、これは家康より九代前の先祖が没落して信州に住んでいた時、土地の豪族に元旦に兎料理を饗され、その年から徳川家が隆昌に向かった故事によるとされています。
『和歌食物本草』(1630)には「兎にはかはうそこそ禁物よ食ひ合はすれば頓死(とんし)するなり」「兎には辛子はじかみ鶏やくるみや蜜柑どれも禁物」とあり、食い合わせが多いようです。
 料理法には、汁・吸物・煮物・焼物などがあります。
 ・牛

 …前略…

『本朝食鑑』には牛について「気を補ひ、血を益し、筋骨を壮にし、腰脚を強くし、人を肥健にする」と食用の有益を述べて、獣肉の中でも最も美味としています。
このように牛は表向き禁忌があっても、実際には各階層で牛肉食が行なわれていました。

・狸(省略)

・豚(省略)

 ももんじ屋

 図1(省略)は歌川広重の「びくにはし雪中」です。
比丘尼橋は現在の銀座一丁目にあり、外堀と京橋川の接点に架かる橋でした。
橋の右側には江戸城の外堀で石垣があり、遠くに見える火見櫓(ひのみやぐら)のあたりに数寄屋橋御門がりました。
左側の「山くじら」の看板がある店が「ももんじ屋」と呼ばれた獣肉店です。
有名なももんじ屋は糀(こうじ<麴>)町平河町の甲州屋、この絵の店は尾張屋で、幕末の江戸にはももんじ屋が十数軒あったといいます。
 (「エルフガーデン大改造プロジェクト」YouTube)

 山鯨は獣肉一般または猪肉の異称で、猪肉は牡丹、鹿肉は紅葉と呼ばれていました。
『江戸繁昌記』(1832)の山鯨の章には、獣肉と葱の鍋物で繁昌するももんじ屋の光景が描写されており、店で売る獣肉を包むのに、破れた傘の紙をはいで用いていたが、足りなくなって筍の皮を用いているともあります。
 江戸時代には表向きは獣肉が忌避されていましたが、ももんじ屋が繁昌していたように、実際にはかなり行なわれていたようです。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)

びくにはし雪中」(NDLイメージバンク 国立国会図書館)
 「抹茶から煎茶へ 生活に密着した茶」つづき 

 技術革新で煎茶が普及

 酒・煙草(たばこ)が男性に好まれた嗜好品(しこうひん)であるのに対し、茶は女性に好まれた。
成立年代には問題があるが、いわゆる「慶安の御触書(けいあんのおふれがき)」には「夫をおろそかにし、茶をよく飲み、寺社などに物見遊山(ものみゆさん)する女房を離縁すべし」とある。
幕府にとってみれば、農民が嗜好品を消費することは好ましいことではなかったのだろう。
(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)
 一方で、元禄10年(1697)の宮崎安貞(みやざきやすさだ)著『農業全書』では「少しでも土地があれば、規模によらず茶を育てなさい」「みだりに茶に金を使うのは、愚かなことである」と自給を勧めている。
こうしたことから、庭先や田の畔(あぜ)などに茶が植えられるようになった。
このほか、焼畑(やきはた)でつくられる山茶(やまちゃ)が大きな役割を果たしていた。
 18世紀初頭の大坂には「諸国煎茶問屋」が64軒あり、美濃(みの)国、伊予(いよ)国・日向(ひゅが)国・肥後(ひご)国など遠隔産地の茶も扱っていた。
 製法的には、日本の抹茶・煎茶は紅茶や中国茶の大半と違い不発酵茶である。
山城国宇治(うじ)では、元文(げんぶん)3年(1738)に現在の煎茶に近い「青茶(あおちゃ)」が考案され、茶の普及に拍車をかけた。
さらに天保(てんぽう)期(1830~44)には「玉露(ぎょくろ)」が売り出され、高級煎茶として広まっていく。
茶が幕末から明治にかけて有力な輸出品になりえたのも、これらの技術革新があったからである。
 多様な展開をした茶

 茶は、食後の一服や菓子・漬け物・梅干しなどを茶請けとした食間の談笑の場で楽しまれたほか、奈良茶飯や茶漬けなどのように、食事そのものに利用されるなど、生活のあらゆる場で楽しまれた。
 地方によっては煮出したり、泡立てたりする多様な入れ方があり、富山のばたばた茶は、煮出した茶に塩を加え茶筅(ちゃせん)で泡立てる発酵茶の一種である。
沖縄に残るぶくぶく茶は、茉莉花(ジャスミン)茶などの茶葉と玄米を炒(い)ったものを用いて、茶筅で泡立てる。
 また、茶の木の葉でなくても「茶」というケースがある。
麦茶・昆布茶・柿茶などが代表的だが、これは煎茶の飲み方が、それだけ人々に親しまれていた証拠といっていいだろう。
『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』で知られる鈴木牧之(すずきぼくし)が、信越の山深い秋山郷(あきやまごう)を歩いた際の記録に『秋山記行』がある。
喉の渇きを覚え湯を所望した牧之に、渋茶を入れてくれた人があり、美味だったこと、わざわざ茶袋から取り出し欠け鍋で炒って茶筅を使って茶を点(た)ててくれた話、木の皮を煎じたような茶色の液体が出てきて飲めなかった話など、山深い土地でも茶を飲む習慣が根づいていたが、これは山茶と判断される。
(『江戸の食文化 和食の発展とその背景』原田信男編 小学館 2014年)

七十一番職人歌合 「一服一銭」「煎じもの売り」』(東京国立博物館)

こんな行事があるそうです
白久保のお茶講 味を利き分け1年の豊作を占う」(群馬県 NHKアーカイブス 2019年)
今朝の父の一枚です(^^)/
パロボラッチョ(酔っぱらいの木)」を撮していました。

  ほろほろ酔うて木の葉ふる  種田山頭火

 放浪の俳人として人口に膾炙(かいしゃ)する俳句が多い。
「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」「うしろすがたのしぐれてゆくか」などがあり、掲出句もその一つ。
山頭火の旅姿が髣髴(ほうふつ)としてくる。
表現のことばはどれも円(まろ)やかな和語によって構成され、声に出して読めばほのぼのとした気分が盛り上がり、厳しい流転(るてん)の旅をも昇華する爽(さわ)やかさの感じられる俳句である。
 木の葉は冬の季語。
木の葉の雨とか木の葉しぐれの表現は木の葉の散る音を雨に擬したもの。
掲出句の場合はもっと感覚的で、<ほろほろ>も木の葉のふる音だ。
もちろん作者のほろ酔い気分と相まっている。
自由律句で、いわゆる写生の俳句ではない。
<ほろほろ>を声喩(せいゆ)として、酔うた彼と木の葉が響き合う。
大自然に融(と)けこむことを目指して歩く漂泊者に時として起こる物心融合の境地を詠んだ句といってよい。

 1882~1940 山口県生まれ。荻原井泉水に師事。
 句集『草木塔』『山頭火全句集』『山頭火全集』
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護/新潮文庫 平成17年)