若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)
応神(おうじん)天皇(八幡神<はちまんしん>の主神)とその父母・仲哀(ちゅうあい)天皇及び神功(じんぐう)皇后を主祭神とし、左の相殿(あいどの)に仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀(まつ)っている。
また、昭和24年(1949)に右の相殿に陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀(ごうし)されたことから、「陶器神社」としても知られている。
平安時代の天喜(てんぎ)元年(1053)に、後冷泉(ごれいぜい)天皇の勅願により源頼義(よりよし)が六条醒ヶ井(さめがい)(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと伝えられ、当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれた。
源氏一族や武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め、隆盛を極めた。
その後、応仁の乱により荒廃し、社地を転々として慶長十年(1605)に五条坂のほぼ中央に当たる当地に移された。
現在の社殿は承応(じょうおう)三年(1654)に再建されたものである。
毎年8月7日から10日までの四日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ、五条坂一帯で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわう。
また、昭和60年(1985)には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝を意を込めて、『清水焼発祥之地 五条坂』の記念碑が建立された。
京都市
応神(おうじん)天皇(八幡神<はちまんしん>の主神)とその父母・仲哀(ちゅうあい)天皇及び神功(じんぐう)皇后を主祭神とし、左の相殿(あいどの)に仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀(まつ)っている。
また、昭和24年(1949)に右の相殿に陶祖神の椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀(ごうし)されたことから、「陶器神社」としても知られている。
平安時代の天喜(てんぎ)元年(1053)に、後冷泉(ごれいぜい)天皇の勅願により源頼義(よりよし)が六条醒ヶ井(さめがい)(現在の西本願寺の北東辺り)に創建したのが当社の始まりと伝えられ、当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれた。
源氏一族や武士からの信仰が厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め、隆盛を極めた。
その後、応仁の乱により荒廃し、社地を転々として慶長十年(1605)に五条坂のほぼ中央に当たる当地に移された。
現在の社殿は承応(じょうおう)三年(1654)に再建されたものである。
毎年8月7日から10日までの四日間、若宮祭とともに陶器祭が行われ、五条坂一帯で盛大に開催される陶器市は多くの人でにぎわう。
また、昭和60年(1985)には若宮八幡宮前に、五条坂の先人及び陶器祭運営功労者への感謝を意を込めて、『清水焼発祥之地 五条坂』の記念碑が建立された。
京都市
京都市指定有形文化財
若宮八幡宮社本殿
現在の本殿は承応三年(1654)の造営と伝える。
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の庇(ひさし)を取り込んで前室とし、更にその前に向拝(こうはい)一間を付けた前室付きの流造である。
屋根は現在銅板葺になっているが、当初は檜皮葺(ひわだぶき)であった。
前室付きの流造の本殿は、滋賀県下に多く見られるが、京都では珍しい形式のもので、この本殿の価値は高い。
昭和59年6月1日 指定
京都市
若宮八幡宮社本殿
現在の本殿は承応三年(1654)の造営と伝える。
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の庇(ひさし)を取り込んで前室とし、更にその前に向拝(こうはい)一間を付けた前室付きの流造である。
屋根は現在銅板葺になっているが、当初は檜皮葺(ひわだぶき)であった。
前室付きの流造の本殿は、滋賀県下に多く見られるが、京都では珍しい形式のもので、この本殿の価値は高い。
昭和59年6月1日 指定
京都市
「孝明天皇御胞衣埋納所」
孝明天皇は、頑なに攘夷を主張しましたが、
その背景に日米修好通商条約(安政5年<1858>)が結ばれる1ヵ月前、
長崎港に入港したペリー艦隊のミシシッピー号の船員がコレラに感染していために
またたくまにコレラが感染拡大したことも影響しているのではないかと思います。
「孝明天皇御胞衣埋納所(こうめいてんのうおんえなまいのうしょ)」(フィール・ミュージアム京都)
「安政箇労痢(ころり)流行記」(国立公文書館)
〝学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」〟(横須賀自然・人文博物館 2020.06.30)
孝明天皇は、頑なに攘夷を主張しましたが、
その背景に日米修好通商条約(安政5年<1858>)が結ばれる1ヵ月前、
長崎港に入港したペリー艦隊のミシシッピー号の船員がコレラに感染していために
またたくまにコレラが感染拡大したことも影響しているのではないかと思います。
「孝明天皇御胞衣埋納所(こうめいてんのうおんえなまいのうしょ)」(フィール・ミュージアム京都)
「安政箇労痢(ころり)流行記」(国立公文書館)
〝学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」〟(横須賀自然・人文博物館 2020.06.30)
蓬莱石(ホウライセキ)の由緒(ユワレ)
若宮八幡神祠に一奇石あり其の名を蓬莱という。
足利尊氏将軍かねてより若宮の神を深く信仰せしが病悩にかゝりし折特に立願せられ、
病癒え、これを祝して珍宝七種を献じ敬謝せり、この石は其の一つ也。
其の形勢巨鼈(ベツ)の如し。
戴山蓬莱の石、良(マコト)に以(ユエ)あるなり。
云々(蓬莱山は勃海の東に峙(ソバダ)ち神仙不死の薬ありと古事にあり)……必ず神霊は之を(お加護)英士に与えるものなり……。と記してある。
即ち、この蓬莱石には不可思議な御神徳後加護のある貴重な宝石である。
追記、この蓬莱石は御本殿の片隅に埋れていたものが最近御神託により発見され、約650年振りに世に出されたもので御神威新かな石である。
(古文書抜粋による)
若宮八幡宮
当宮は、天喜五年(1058)源頼義(988~1075)が、後冷泉天皇の勅を報じて文武の神、治山治水の神、長寿の神として創建し、六条八幡とも左女井八幡ともいわれていた。
平安時代は、五条大路までが市街地で、六条の地は、堀川館をはじめ当町に頼義、義家(1039~1106)の館、その東には、後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」には、「八幡若宮義家宅」の書き入れがあり、「古事談」にも、「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とある。
源頼義、義家の尊崇があつく、広い境内と立派な社殿をもって栄えていたが、天正十二年(1584)、豊臣秀吉(1537~1598)による京都改造事業により、御旅所のあった東山に遷され、さらに慶長十年(1605)、現在地の五条坂下に遷された。
旧地は、西本願寺の寺域とされていたが、江戸時代に入ると、跡地に町内の住人によって新たに若宮八幡宮が祀られ、現在も「若宮町」や「若宮通」という地名に往時の名残をとどめている。
京都市
「めがね橋(円通橋)」を渡って(「境内案内」大谷本廟)若宮八幡神祠に一奇石あり其の名を蓬莱という。
足利尊氏将軍かねてより若宮の神を深く信仰せしが病悩にかゝりし折特に立願せられ、
病癒え、これを祝して珍宝七種を献じ敬謝せり、この石は其の一つ也。
其の形勢巨鼈(ベツ)の如し。
戴山蓬莱の石、良(マコト)に以(ユエ)あるなり。
云々(蓬莱山は勃海の東に峙(ソバダ)ち神仙不死の薬ありと古事にあり)……必ず神霊は之を(お加護)英士に与えるものなり……。と記してある。
即ち、この蓬莱石には不可思議な御神徳後加護のある貴重な宝石である。
追記、この蓬莱石は御本殿の片隅に埋れていたものが最近御神託により発見され、約650年振りに世に出されたもので御神威新かな石である。
(古文書抜粋による)
若宮八幡宮
当宮は、天喜五年(1058)源頼義(988~1075)が、後冷泉天皇の勅を報じて文武の神、治山治水の神、長寿の神として創建し、六条八幡とも左女井八幡ともいわれていた。
平安時代は、五条大路までが市街地で、六条の地は、堀川館をはじめ当町に頼義、義家(1039~1106)の館、その東には、後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」には、「八幡若宮義家宅」の書き入れがあり、「古事談」にも、「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とある。
源頼義、義家の尊崇があつく、広い境内と立派な社殿をもって栄えていたが、天正十二年(1584)、豊臣秀吉(1537~1598)による京都改造事業により、御旅所のあった東山に遷され、さらに慶長十年(1605)、現在地の五条坂下に遷された。
旧地は、西本願寺の寺域とされていたが、江戸時代に入ると、跡地に町内の住人によって新たに若宮八幡宮が祀られ、現在も「若宮町」や「若宮通」という地名に往時の名残をとどめている。
京都市
総門(そうもん)
総門とは、正門の意味で、山門、三門などと称する場合もあります。
本願寺第14代寂如宗主の時代、宝永七年(1710)宗祖親鸞聖人四百五十回忌法要を修するにあたり、同年3月に建立されました。
その後、第18代文如宗主の時代、寛政八年(1796)に現在の四脚門に改築されました。
総門に掛かる「大谷本廟」の額は、萬延元年(1860)第20代広如宗主のご染筆であります。
大谷本廟 「日支事變 肉彈三勇士乃墓」
命を捨てて国に尽くすことが、愛国の精神だという美談がつくられ、
ひいては特攻への道を進んだのだと思います。
「特別攻撃隊出撃」(NHKアーカイブス 1945年)
「 妙見堂 鳥辺山妙見大菩薩」
日蓮宗のお寺なんですが公式のHPを見つけることができなかったので
「本寿寺 (本法寺)」(『花洛名所図会』国際日本文化研究センター)清水寺への参道と比較にならないほど静かで
訪日の観光客には出会わないだろうと思っていたら
舞台で着物姿の撮影をされている夫婦がおられました。
プロのカメラマン(?)が撮影されていて小道具に刀も用意されていた。
撮影の邪魔になるかと思い舞台を写さなかったので
以下のサイトに舞台の様子が紹介されているのでよかったらアクセスしてください。
「【外ゼミ】鳥辺山妙見堂」(京都工芸繊維大学 武井研究室 2023年7月12日)
堂内からは市内の景色を一望できる隠れた展望スポットここに撮しているのはほんの一部ですが、
2章 都市の原像
京の葬送地
…前略…
藤原道長のライバルだった右大臣小野宮(おののみや<藤原>)実資(さねすけ)は、かぐや姫のようにかわいがっていた女児(6歳)が疫痢(えきり)でなくなり、その遺骸を東山八坂東方の平山(ひらやま)に葬っています。
永祚(えいそ)元(989)年7月13日のことです。
しかし悲しみに耐えられなくなった実資は、翌日、人をつかわし遺骸を見にやらせていますが、すでにその形もなかったといいます。
木棺には入れていたのでしょうが、土中に埋めることもなかったのか、何ものかに食われたのでしょう。
一種の風葬でした。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年) 一条天皇の皇后で、清少納言の仕えた定子(ていし)(藤原道隆<みちたか>の娘)が25歳で亡くなったのは、三番目の子(媄子内親王<びしないしんのう>)の難産のためでしたが、辞世の歌三首の一つ、
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
の歌に従い、火葬にせず、土葬されています。
その遺骸は兄弟たちによって鳥辺野に送られ霊屋(たまや)に安置されました。
おりしも雪が降りしきり、兄弟たちが名残りを惜しみつつ立ち去ったあとの静寂(しじま)のなかで、その霊屋はしだいに雪にかくれていった――。
いま、定子の陵(みささぎ)は、他の中宮とあわせて鳥辺野陵として整備されています。
…後略…
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
清水寺の境内に入ると今までの静寂の世界から喧噪の世界に突入です(@@;)しかし悲しみに耐えられなくなった実資は、翌日、人をつかわし遺骸を見にやらせていますが、すでにその形もなかったといいます。
木棺には入れていたのでしょうが、土中に埋めることもなかったのか、何ものかに食われたのでしょう。
一種の風葬でした。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年) 一条天皇の皇后で、清少納言の仕えた定子(ていし)(藤原道隆<みちたか>の娘)が25歳で亡くなったのは、三番目の子(媄子内親王<びしないしんのう>)の難産のためでしたが、辞世の歌三首の一つ、
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
の歌に従い、火葬にせず、土葬されています。
その遺骸は兄弟たちによって鳥辺野に送られ霊屋(たまや)に安置されました。
おりしも雪が降りしきり、兄弟たちが名残りを惜しみつつ立ち去ったあとの静寂(しじま)のなかで、その霊屋はしだいに雪にかくれていった――。
いま、定子の陵(みささぎ)は、他の中宮とあわせて鳥辺野陵として整備されています。
…後略…
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
人混みの苦手な私が、なぜ、清水寺にきたのか
巳年生まれの私としては
Eテレ0655や2355で大槻ケンヂさんが歌う干支ソング「DAPPI」のように
「胎内めぐり」で脱皮をしようと思ったのです(「巡る」清水寺)。
胎内に入ると真っ暗でなにも見えませんでした。
左手で數珠をつかみ、そろりそろりと進みました。
清水寺随求堂(ずいぐどう) 胎内(たいない)めぐり
―暗闇(くらやみ)の中であなた自身の光を感じてください―
本尊の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)は、私たちのどんな願い求めにも、すぐ随(したが)って叶えるように働いてくださる大悲(だいひ)のお母さん仏で、シンボル文字は梵字(ぼんじ)(古代インド・サンスクリット文字)「●」(ハラ)です。
大悲母(だいひぼ)のお腹の中へ一度戻ってみませんか。
目・耳・鼻・舌・身体(からだ)と意(こころ)は、どのように働くでしょうか。
暗闇の中で一点の光明(こうみょう)を発見したとき、心身の新生を覚えるに違いありません。
お釈迦様は、明けの明星を見て悟りを開かれました。
胎内めぐりによって心身のルネサンスを体験しましょう。
オン、バ ラ サン バ ラ サンバラ、イ ンジリ ヤ、
ビ シュ ダ ニ ウーン ウーン ロ ロ シャ レイ、ソワー カー
(梵字は表記できませんでした)随求堂のことは鴨さんが教えてくれました。
支納金は、変わらず100円でした。
「清水寺の楽しみ方?」(2011年10月19日)
昨夜のBSで清水寺が出ていました。
番組的には良い内容でしたね。
その中でも紹介されなかった楽しみ?方のひとつが胎内巡りです。
おっきな仁王門を進むとあるのが随求堂で
その左側に何やら入り口があります。
100円の志納を納めて靴を脱いでお数珠を頼りに階段を下っていきます。
その先にあるのは・・・
暗闇に入るのは日常ない体験ですね(^_^;)
どうぞお確かめくださいませ~。
でも清水寺に行くのなら普段の朝の7時までですね。
お正月などはもう大変です!
…つづく…
















