2025年12月22日月曜日

寒さが戻ってきました

土曜日は、父が、今週の木曜日に受診するので事前の検査を受けに病院へ
20度近い気温で車内が暑く感じるほどでした。
昨日は、一日、雨が降り続き
今日は、「冬至」で寒さが戻ってきました。
青空が見えていた時もあったのですが、黒い雲から、時々、小雨が降ってきました。
出会った方に東の空を見るとこれからの天気が予想できますと
西の方向を見ながら言ってしまった(;´Д`)
途中で気がついたのだけど再会できませんでした……
こういう単純なミスをよくします(@@;)
そういうこともあるので、先日、脳のMRI検査を受けようと思いました。

冬至 銭湯で「ゆず湯」のサービス 大阪〟(関西NHK)
「忠臣蔵」について12月18日の記事で吉良左兵衛義周(よしちか)について
歴史の真相が見えてくる 旅する日本史』(河合敦著 青春出版社)から転記しました。
一方、浅野内匠頭は、藩士たちが命がけで主君の仇を討つにあたいする人物なのかと思っていました。

 浅野内匠頭と大石内蔵助――長矩、女色を好むとこ切なり 

  一

 …前略…

 それで、義士の手紙などはある程度のこされているが、その一方で「討ち入り以前」の浅野家に関する資料は少ない。
「御家断絶」で藩自体が潰(つぶ)れてしまい、藩庁記録が散逸してしまったからである。
藩が改易(かいえき)になると、藩政の重要書類だけは親戚などに引き取られるが、たいていの記録は火中に投じられるか、あるいは、反故(ほご)紙として屑屋に売られ、便所のおとし紙にされ、人糞をふいて消えた。
そういう事情があって、浅野内匠頭の人物像は今なお謎につつまれている。
(『殿様の通信簿(上)』磯田道史 埼玉福祉会 2016年)
 ――とはいえ、事件を起こす前の、浅野内匠頭は、どのような人物であったのか。
 やはり、これが知りたい。
 「殿様の通信簿」というものが、この世に存在していることはさきにのべた。
『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という古い書物がのこされており、元禄期の大名につて、その行状が網羅されている。
実はこの書物を、ひもといていくと、巻第二十に、
「浅野内匠頭長矩(ながのり)
 という記載がある。
これを解読すれば、なにがしかのことが、わかるであろう。
 というのも、この通信簿は内匠頭が事件をおこすまえに書かれた史料であり、当時の人間が、内匠頭という人物をみて、あれこれと論評したものである。
このような史料は絶無といってよく、同時代人が目(ま)のあたりした生々しい内匠頭の姿が記されているに違いない。
冒頭部分には、こう書かれている。
まず、内匠頭の官位・家紋・年齢と家族歴からはじまる。

 …中略…

   三

 この国で、赤穂事件は、忠義の美談になっているが、考えてみれば、これほど不幸な事件はない。
本来、死ななくてもよかった、まっとうな人々の命が、つまらぬ人間のこだわりによって、粉々に打ち砕かれた無残の事件である。
少なくとも、私にはそう思える。
このところが、冷静に見られぬようでは、歴史を語る資格はない、とさえ、思っている。
無意味な人間のこだわりが、人を不幸にした典型事例といってよい。

 …中略…

 五

 さて、浅野内匠頭に話をもどす。
おどろくべきことだが、内匠頭は無類の「女好き」であり、さらには、ひきこもり行動もみられたらしい。
『土芥寇讎記』の記述によれば、そう信じざるを得ない。
どういうことなのか。
本文には、こうある。

 …中略…

 信じられないことが記されている。
つまり、内匠頭は「利発」であるが、異常な女好きと書かれている。
「女色を好むこと切なり」(原文)とあるから、
 ――内匠頭は女との情事がほんとうに好きである。
 ということであろう。
ただ、このとき内匠頭は二十四歳である。
この年齢で女のことばかり考える男はめずらしくない。
好色は男の性(さが)であるといってよい。
しかし、内匠頭の女好きは、そういう男の生理をこえた政治問題になっていた。
若い内匠頭は、女性の好みにうるさく、美女に目がなかった。
そのために、家来たちは美女を捜し求めてきては、内匠頭のもとに差し出し、それを手づるにして立身出世するのが当たり前になっていた。

 …中略…

 内匠頭は「女色にふけるの難」があり、「婬乱無道」(原文)だ、と、はっきりいっている。
そのうえ、このままでは「家を滅ぼす」という、恐ろしい予言まで残している。
そして、批判の矛先は、大石たち家老に向けられている。
「なぜ若い主君が色に溺れるのを黙ってみているのか、なぜ諫めなのか」
 ととがめ、家老の大石内蔵助と藤井又左衛門を、
 ――不忠の臣
 として、名指しで非難している。
忠臣蔵というように、江戸時代以来、大石内蔵助は「忠臣」の代名詞であったはずが、この記述を読むかぎり、大石は忠臣どころか、悪名高い不忠の臣にされている。

 …後略…

(『殿様の通信簿(上)』磯田道史 埼玉福祉会 2016年)

抜き書きですので、気になる方は、本文を参照してください。
殿様の通信簿』(新潮文庫)
 「1934年、ベルリン」つづき 

 17人が集まっていた頃、ドイツは騒動と激変の時期にあり、独裁体制に陥ろうとしていた。
前年に支配権を握ったナチスは権力掌握の最終段階にあり、ヒトラーは首相に就任していたがまだ総統にはなっていなかった。
そうなるのはその後の1938年8月、ワイマール共和国最後の大統領で病気だったパウル・フォン・ヒンデンブルクが死去し、ヒトラーによる完全な権力掌握への道が開かれてからである。
 ヒトラーが首相に就任できたのは、ヒトラーを抑えて自分たちの政治目的のために利用できると確信していた保守派が合意した取引によってだった。
保守派はヒトラーのずるさを過小評価し、そもそも自分たちにヒトラーが必要だと考えたまさにその理由である支持基盤を過大評価していた。
最盛期に行なわれた選挙でも、ナチスはほしくてたまらなかった過半数を得ることができず、12年間に及ぶ統治の始まりに行なわれた最後の自由で公正な選挙では33パーセントしか獲得できなかった。
保守派は、ヒトラーの本当の目標は「民主主義を破壊するために民主主義の手法を利用すること」だったことを予想できなかったか、見ないふりをした。
(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)
 保守派が気づいた頃にはもう遅かった。
体制外から来た扇動者として台頭したヒトラーは崇拝の的となり、見せ物や集会を好んだ。
集会では人びとは松明(たいまつ)を持って行進し、その様子をある人によれば「いく筋もの炎の流れ」のようだった。
ヒトラーは自分を「民衆(フオルク)」の声、特に地方部の民衆の不満や恐れを代弁する者であり、直感で動く、神に選ばれた救済者と考えていた。
それまで公選職についたことはなかった。
 ヒトラーが大統領に就任してすぐにナチスは鉤十字を使い始めた。
サンスクリットの記号を使ってアーリア人として「起源」とつながるというわけである。
ナチスはユダヤ人も追い詰め始め、中世にまで遡るほど古くからある、第1次世界大戦の終わりにドイツが味わった敗北と屈辱がユダヤ人のせいにされたときに再燃した反感を掻き立てた。
銀行業や金融業に強いと思われていたユダヤ人は、戦争努力への財政支援が不十分だったと責められた。
しかし今では、ドイツは戦場で負けたのであり、資金不足だけが敗戦の原因ではなかったことが歴史家のあいだで広く認められている。
 それでも、ナチスのプロパガンダによってドイツ人がユダヤ市民に敵意を持つようになった。
ナチスの暴漢が街頭でユダヤ人や、ユダヤ人と関係があることがわかったアーリア人を嘲ったり殴ったりした。
政権は、ユダヤ人が政府内の職のほか、医療や法律など地位の高い職業につくのを制限し始めた。
これらは、ユダヤ人の多くが持つ高価な自動車や湖に面した別荘を手に入れることのできない一般のドイツ人を嫉妬させる分野だった。
当時は世界大恐慌の最中で、ナチスが権力を握った1933年にはドイツ人の三分の一以上が失業していた。
ユダヤ人の名声と富は、アーリア人よりも下だとナチスが定めた集団の身分にふさわしくないと見なされた。
 外国にどう見られているかを少なくとも当時は気にしていたナチスは、米国が人種に基づくヒエラルキーを厳格な法律にしながらも世界の舞台であれほど評判が高いままでいられるのはどういうわけだろうかと考えた。
そして、米国では人種に基づく禁止について「世論がそれを当然だと受け止めていた」ことに気づいた、と歴史家のクローディア・クーンズは書いた。
 ヘルベルト・キアという若いナチスの知識人が米国の人種法を表にまとめるように指示され、アメリカがどんなことをしてでも国民どうしを隔てておこうとしていることに困惑した。
キアは、南部州のほとんどでは法律によって「白人の子供と有色人の子供が異なる学校に行かされ」、ほとんどの州では「さらに出生証明書、運転免許証、死亡証明書に人種を明記することが求められる」と述べた。
キアは「アメリカの州の多くでは、待合室、列車の車両、寝台車、路面電車、バス、蒸気船、そして刑務所や拘置所でさえも、有色人と白人とを隔離するよう法律によって定めることまでしている」ことを明らかにした。
キアによれば、アーカンソー州では納税者名簿も人種によって分けられていた。
キアはのちに、「人間の顔をしたすべてが平等であるという根本的理論を踏まえればなおさら、アメリカ合衆国の人種法の徹底ぶりは驚くべきことである」と述べた。
 キアは、「アメリカの法律が行き過ぎていると思った」ナチスの研究者のうちの一人にすぎなかった、とウィットマンは書いた。
 6月の会合でこの調査結果を前にした17人は、独自のカースト制度確立のための二つの主な方法について話し合いを始めた。
一つはユダヤ人とアーリア人という区分の法律上の定義を作ること、もう一つはユダヤ人とアーリア人の結婚を禁止することだった。
ドイツは以前にもアメリカの雑婚禁止法を参考にしたことがあり、20世紀の初めに自国でも異人種間結婚禁止を試し、南西アフリカの植民地で移住者が先住民と関わるのを禁じた。
ドイツのその措置は、ほかのほとんどの植民地保有国よりも踏み込んだものだったが、それでも見本としたアメリカの法律からは程遠かった。
今、ナチスの極端論者たちは「ドイツの民衆の身体にこれ以上ユダヤ人の血が侵入する」のを防ぐ方法を見つけようとしていた。
 議論が始まると、アーカンソー大学で法学を学んだクリーガーが、アメリカでは異人種間結婚を非常に厳しく取り締まっており、多くの管轄権では禁止法に違反すると最長で10年の禁固刑となると報告した。
米国は白人と有色人とのあいだに「人工の線を引いて」国民を二つに分けている、とクリーガーは指摘した。
クリーガーを含めた出席者たちは、想定される血統がほんの少しでもあることを根拠に人間を分類するアメリカの慣行に強い関心を示した。
「司法判断では」とクリーガーは述べた。
「二グロとしての身体的特徴がわずかでもあれば有色人に分類される傾向が強まっている」
 出席者たちは、アメリカの法律をどの程度使うかについては合意にいたらなかった。
議長を務めたフランツ・ギュルトナーを含めた穏健派は、アメリカで用いられているものほど過酷な手段は使うべきではないと主張した。
ギュルトナーは、「人種の混合」についての「教育と啓発」があれば、アーリア人に異人種との結婚を思いとどまらせることができるのではないかと述べた。
会議中、ギュルトナーはナチスの調査を通じて明らかになったアメリカの法律が実際に施行されているとは信じがたいという理由で米国の見本の重要性を低く評価しようとした。
「ギュルトナーは、アメリカ人が雑婚者を実際に訴追するということをどうしても認めようとしなかった」とウィットマンは書いた。
 強硬派の一人でナチスの過激論者だったローラント・フライスラーは、議事の進行が遅いのに苛立っていた。
1920年代にナチ党に入っていたフライスラーは、ユダヤ人とアーリア人とが結婚した場合には「人種的反逆罪」で罰する法律を定めるべきだと主張していた。
フライスラーをはじめとする過激論者たちは何度もアメリカの法律に話を戻し、内容を説明したりその正当性を主張したりして、乗り気でない出席者を説得しようとした。
 「アメリカはこれをどう進めていったか?」とフライスラーは問いかけ、米国とその人間分類法について調査結果を嚙み砕いて説明した。
アメリカ人は白人をその他全員から分けるために種々雑多な基準を用いる、とフライスラーは述べた。
ある州は「アフリカ、朝鮮、マレーシアの出身者」をすべて非白人に分類している。
フライスラーはまた別の例として「ネヴァダ州はエチオピア人または黒色人種、マレーシア人または茶色人種、モンゴル人または黄色人種という言い方をしている」と述べた。
このように矛盾が重なっていることはドイツに有利にはたらくかもしれないとフライスラーは主張した。
アメリカでの定義がもつれている状態は、人間を分類するにあたって一定のゆとりと都合のいいまとまりのなさを与えてくれた。
アメリカは論理や科学から離れた人類の定義を考え出していた。
フライスラーはこれを「人種の政治的構成」と呼んだ。

 …つづく…

(『カースト アメリカに渦巻く不満の根源』イザベル・ウィルカーソン著 、秋元由紀訳 岩波書店 2022年)

ナチスとアメリカのことを紹介していますが
Dear にっぽん「“農”で垣根を越える~広島・福山の国際カップル~
日本も同じように移民などへの偏見、差別があります。
小さな壁を、一つずつ、一つずつ乗り越える取り組みが大きく広がりますように!
 今朝の父の一枚です(^^)/
センダンの木、すっかり葉が落ちて実が寂し気にぶら下がっています。

12月22日は、旧暦だと「11月3日 乙丑(きのとうし)」になるそうです。

 丑の日さま 

 旧暦での十一月の丑(うし)の日のうち初丑の日を、丑の日さま、丑の日節供と昔からよんで来た。
同じ月の初子(ね)の日の行事が、台所にかたよった大黒天祭りとなっているのにたいし、これは農事の終わりにあたっての感謝祭のようである。
 牛耕で牛に厄介かけている西日本では、この日に牛神をまつるところがある。
九州地方では今も濃厚な習俗となっている。
 辻(つじ)にある牛神さまの祠(ほこら)に供えものをするとともに、麦飯に豆をまぜた飯をたいて家中で祝う。
赤飯や甘酒をつくるところもある。
(うす)の中に一升枡(ます)をおき、升の中に小豆(あずき)飯をいれたり、箕(み)の上に膳(ぜん)を供えて長い柳の箸(はし)を削って添えるふうもある。
 臼の上に箕をおき、そこに刈りいれのときにわざと刈り残しておいた稲株を、当日刈りに行って供える祭りをする村もある。
 丑の稲とこれをよぶが、その稲株は二つかみほどなのに、刈り取ったあと重い重いと言いながら持ち帰る慣行があるが、これは田の神さまの身体だと言ったりしている。
(『民俗歳時記』和歌森太郎 岩崎美術社 1970年)

ウシサマ ふくおか民俗カタログ2」(福岡市博物館)