2025年10月29日水曜日

風が吹かない間は…

今朝は、風があまり吹いていない秋晴れでした。
天気予報を見ると明日までは晴れるようです。
公園にはキンモクセイの香りが漂っていて秋だなと思いました。
朝食の用意をしていると「日米関係は黄金時代」というニュースが流れていました。
思わず越後屋と悪代官の会話を思い出した(越後屋には気の毒なのですが)。
越後屋が「山吹色の菓子」を献上するように、
これからどれだけ日本は、アメリカに黄金を貢ぎ、いいなりになるのでしょうか。
朝ドラばけばけ第5週「ワタシ、ヘブン。マツエ、モ、ヘブン。」 (21)
借金を背負った家族を養うために遊女なみが言った「ラシャメンになるけん。
外国人と一緒になることへの偏見と差別はひどいものでしたが
それ以上にひどかった幕末から明治にかけて
たくましく生き抜いた一人の女性を思い浮かべていました。
 シーボルトの娘で西洋医学を初めて修得した女医
      楠本イネ 1827(文政10)―1903(明治36)

 楠本イネは、公許女医第一号として知られる荻野吟子(おぎのぎんこ)より24年ほど早く生まれ、まだ医師開業試験がなかった時代に、西洋医学を修得した最初の女医といえよう。

 …中略…

(『理系の扉を開いた日本 ゆかりの地を訪ねて』西條敏美 新泉社 2009年)
 ◆卯和町の女医イネ発祥の地

 楠本イネは、出島オランダ商館の医官として来日していたドイツ人シーボルトと彼が見初めた遊女タキとの間に、1827年(文政10)長崎出島に生まれた。
シーボルトが日本を離れるとき、イネはまだ三歳であった。
イネの養育は、高弟の二宮敬作に任された。
イネは、父の弟子たちの感化のもとで育ち、次第に医学の道を志すようになった。
色白で青い目をした美しい女性へと成長したが、「混血娘」として差別や偏見と闘わなければならなかった。
 敬作は、1840年(天保11)、14歳となったイネを長崎から愛媛県宇和町(当時は卯之町<うのまち>)に迎え入れた。
彼の生まれは一山を越えた海ぎわの保内町(ほないちょう)磯崎というところであるが、シーボルトのもとで医学を修めたのち、帰郷してこの地で開業していた。

 …中略…

 敬作は、ここでイネにオランダ語を教え、オランダ医学、とくに外科を実地に教えた。
イネはぐんぐんと学び取り、5年も経つと教えることもなくなってきた。
イネは、産科医になることを望んでいる。
それなら当時、産科の大家として知られた岡山の石井宗謙(いしいそうけん)のもとで学ばせてやりたい。
宗謙もまたシーボルトのもとで学んだ同窓だ。
敬作はそう考えて、岡山の宗謙のもとに19歳のイネを預けたのである。
 ◆岡山のイネ修業の地

 …中略…

 イネがここに修業に来て6年目の1851年(嘉永4)、彼女は身ごもってしまった。
イネは25歳、相手は56歳の宗謙であった。
後にわかったことであるが、ほとんど「手込め」同然での一回きりの過ちであった。
芸者遊びや妾(めかけ)を囲うことは許されても、預かった恩師の娘である。
これには温厚な敬作といえども激怒したというのはほんとうだろう。
生まれた女児は、敬作の甥(おい)で、後に大阪医学校(現在の大阪大学医学部)の教授になった三瀬周三の妻となった。

 …中略…
 イネは宗謙のもとを出て長崎に戻り、阿部魯庵(ろあん)の門をくぐった。
女児も長崎で出産した。
1854年(安政元)28歳のとき、ふたたび愛媛の卯之町に来て、二宮敬作のもとで修業を続けた。
5年後また長崎に戻り、オランダ人医師ポンペ、ボードウィン、マンスフェルトらに付いて、最新の医療技術を修得した。
1870年(明治3)44歳のとき、上京して築地に産科医院を開いた。
 ◆築地の産科医院開業の地

 私が三番目に訪れたのが、この東京築地である。
東京メトロ日比谷線・築地駅で下車して、駅前をまっすぐ歩くと、聖路加国際病院の前方の通りの一角に、杉田玄白らが『解体新書』の翻訳に情熱を傾けたことを記した「蘭学の泉はここに」の記念碑が建っている。
そこを通ると、あかつき公園に行き着く。
大きな公園で、その片隅に父シーボルトの胸像と記念碑がある。
イネの胸像はないが、案内板には、この地は江戸蘭学発祥の地であること、娘イネが産科医院を開業した地であること、また明治初期から中期にかけて外国人居留地であったことなどのために、シーボルトの胸像を建てたと書かれていた。
 ◆ 長崎に眠るイネの墓

 そして、最後に私が訪れたのは、冒頭に述べた長崎である。
機会を見て折々に訪ねていたので、最初の宇和町を訪れてから10年近くもかかってしまった。
 イネは1903年(明治36)、東京で77歳の生涯を終えているが、墓は長崎市寺町の晧台寺(こうたいじ)にある。
 寺町には由緒ある大きなお寺が並び、どの寺の墓所もひとつの裏山に広がっている。
晧台寺のところに来ると、「楠本イネ墓」という標識が立っていた。
その標識に導かれて、脇道からまっすぐ裏山に登っていくと、そのまま行き着ける。
途中から急な石段を登らなければならないので、はあはあと息切れがしてくる。
なんでも、高いところにある墓ほど格式が高いらしい。
 石段はまだ続いているが、中腹辺りに顕彰碑があった。
母タキ、娘イネ、そして敬作の三人の名前が刻まれている。
そこからさらに10メートルほど登ったところに、墓所があった。
墓石の表面に「楠本家之墓」と刻まれ、側面にイネの法名、没年、俗名、没年齢などが刻まれていた。
隣には敬作の墓もあった。
イネは後見人ともいえる敬作に死後も見守られて、眠っているのである。
 顕彰碑の隣りに立つ案内板に、イネの胸像が東京女子医科大学に贈られたと書かれていた。
◆ 先駆者としての苦悩

 イネはシーボルトの娘として数奇な運命をたどった女性である。
父とは3歳で別れているから、ほとんど面影は残っていないだろうが、「父は偉いお医者様」と言い聞かされて、育てられた。
しかし自分が「異人」として、普通の人生を歩めないことを悟るにつれて、自立して父と同じ医学の道を歩みたいと考えるようになった。
イネは独身を通したが、宗謙との間に娘を残したことは先に述べた。
 1859年(安政6)、33歳のとき、許されて来日した父シーボルトと感動の対面を果たしている。
しかし30年の歳月の流れはどうしようもない。
シーボルトも故郷で再婚し妻子がいるし、母タキも再婚している。
イネも自分の人生を歩んでいる。
 東京築地で産科医院を開業したイネは、先端の西洋医学を修得した一級の医師であった。
開業して3年後には宮内省御用掛を命ぜられ、イネの名声はいよいよ上がったが、一般の人から見るとどうしても「産婆(助産師)」と思われがちであった。
 先駆者としての苦悩を抱えながらも、自分の生き方をつらぬき、幸せな一生であったともいえるだろう。
こんなことを思いながら、私はイネの墓前にたたずみ、手を合わせた。
(『理系の扉を開いた日本 ゆかりの地を訪ねて』西條敏美 新泉社 2009年)

楠本イネ女史の紹介」(ながさき女性医師の会 2018年)
東京女医学校(後の東京女子医科大学)を創設した吉岡弥生(よしおかやよい)の自伝より

第二章 女医の沿革
 シーボルトの娘
 

 …前略…

 研究に熱心ないね子は、出島の蘭医ポンヘウについて産科を11年も学んだのち、明治3年2月、東京へ乗り出して築地で開業していましたが、名医の誉れいや高く、明治6年7月、権典侍葉室光子のご妊娠とともに宮内省御用掛を拝命いたしました。
その当時女医の数は暁の星のごときもので、明治7年頃の医師の統計を見ましても、漢医2万7527人、洋医5123人、総計3万2650人のうち、女医は僅か二人しか挙がっておりません。
が、楠本いね子は、その二人のうちの一人であったばかりでなく、国家試験の道を通って荻野吟子以下の新しい女医が輩出してくるまでの過渡期を代表した唯一の女医であったと申してもよろしいでしょう。
 いね子は、明治10年3月、一度長崎へ帰りましたが、その後福沢諭吉先生の推薦をうけて、再び宮中に出仕、産科の権威として知られていました。
長らく麻生狸穴(まみあな)に住んで、明治36年8月、77歳で他界、ここにその数奇な生涯を終えました。
(『人間の記録63 吉岡弥生』日本図書センター 1998年)
 この楠本いね子と対照的に思い出されてくるのは、福岡の女傑高場乱子であります。
いね子がシーボルト一門を背景にして蘭学の畑で育ったに対して、乱子は、野村望東尼や高杉晋作と交友関係のある漢方の眼科医でありました。
つねに男装し、大小を手挟(たばさ)んで患家を回っていたといいますから、よほど風変わりな女医であったにちがいありません。
女医というより一種の政治教育家で、自宅に興志塾を起こして郷里の青少年の薫陶に当たっていましたが、人参畑のなかに塾があったところから、人参畑の先生で通っていました。
今国粋派の長老として重きをなしておられる頭山満翁も、この人参畑の高場塾に学んだことがあり、乱暴な少年で鳴らしていましたが、乱子には全く頭が上がらなかったということでした。
乱子は、気象のすぐれた婦人で、明治9年に、佐賀の乱が起ったとき、通謀の疑いをうけて拘引されながら、法廷で役人をやりこめて無事に帰ってきたというような豪胆な振舞いがありました。
明治24年3月、60歳でなくなりましたが、もう十年早く生まれていましたら、維新の舞台で胸のすくような場面を見せてくれたことでしょうし、あるいはもう十年遅く生まれていましたら、女傑奥村五百子のお株を奪っていたかも知れないと思われる惜しい人でした。

 …後略…

(『人間の記録63 吉岡弥生』日本図書センター 1998年)
今朝の父の一枚です(^^)/
キジバトを撮していました。

 「八幡神の使いがハトである理由」つづき 

 なお、八幡信仰は仏教と密接にかかわる独特な性格を持っています。
奈良・東大寺の大仏の建造を八幡神が援助するなど、古くから神仏習合が見られることが特徴で、このことによって、言わば神は仏教を守護する立場であることを知らしめることとなりました。
天応(てんおう)元(781)年、朝廷は宇佐八幡宮に鎮護国家・仏教守護の神を意味する「八幡大菩薩」の神号を贈りました。
これは、全国の寺がその守り神として八幡神を勧請するきっかけとなり、八幡宮・八幡神社が全国に広まった大きな要因となりました。
(『鳥たちが彩る日本史 武将・文人と交わる8種類の鳥』大橋弘一 山と渓谷社 2025年)

明日は、父の通院です。
天気予報を見ると金曜日は雨の確率が高いです。
土日は公園で催し物があり、月曜日は祝日ということでしばらく公園の散歩はお休みになると思います。