重要文化財 西門(さいもん) 江戸初期
寛永8年(1632)の再建。
三間(げん)一戸(こ)、正面8.7メートル、側面3.9メートルの優雅な八脚門で、西面して急な石段上に建つ。
単層・切妻(きりつま)造り、檜皮葺(ひわだぶ)き屋根で、正面には向拝をつけ、七段の木階を設け、床と共に高欄をめぐらし、背面には軒唐破風(のきからはふ)を架ける大層珍しい形式になる。
軒は二重繁垂木(しげたるき)、斗栱(ますぐみ)は和様一手先出組(ひとてさきでぐ)み。
左右の脇間は鎌倉様式の写実性と量感ゆたかな持国天と増長天の立像を奉祀する。
開放されている中央の間(ま)は立派な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)となり、また随所に優れた蟇股(かえるまた)・虹梁(こうりょう)・木鼻などを多く備え、平成5年(1993)丹塗りと極彩色文様が復元され桃山様式の華麗さを再現している。
拝殿風の華美なこの門から京都市街・西山の眺望は素晴らしい。
勅使門にも使われたが、絶好の洛中展望とされ、かつ西山に沈む夕日の見事さに西方極楽浄土を観想する日想観拝所となったとも考えられる。
前方の仁王門と二門が相並ぶ立つ趣向は格別に意味深長である。
北法相宗 清水寺観光客が一杯でよく事故がおきないと感心するほど。
これまで何度か訪ねていますが、年々、人口密度が……
平安時代から参拝者が多く
二五六
さわがしきもの 走(はし)り火。
板(いた)屋の上にて烏(からす)の齋(とき)の生飯食(さばく)ふ。
十八日に、清水(きよみづ)にこもりあひたる。
暗(くら)うなりて、まだ火もともさぬほどに、ほかより人の來(き)あひたる。
まいて、遠(とほ)き所の人の國などより、家(いへ)の主(あるじ)の上(のぼ)りたる、いとさわがし。
近(ちか)きほどに火出(い)で來(き)ぬといふ。
されど、燃(も)えはつかざりけり。
十八日―観音の縁日。
(『枕草子』清少納言 池田亀鑑校訂 岩波文庫 1962年)
本堂の横木(長押<なげし>)に長く傷跡があるのは、悪戯ではありません!
参拝者が多かったことの証拠でもあるのかな?
「弁慶の指跡」とも言われるようですが「堂々めぐり」の語源だとか
堂々めぐり筋痕
仏足石の向かい、裳層(もこし)の窓下長押に深い筋状の痕がみられます。
これは昔お百度やお千度の堂々めぐりをした数取り札の擦り痕で、本堂軒廻りの長押にズーッと刻まれています。
(「清水さん探検」清水寺門前会)
「長押(なげし)」(大阪文化財ナビ)地主神社は、現在、工事で「閉門」中です!
本堂の舞台では、ゆっくりすることができなかったので向かいから眺めました。参拝者が多かったことの証拠でもあるのかな?
「弁慶の指跡」とも言われるようですが「堂々めぐり」の語源だとか
堂々めぐり筋痕
仏足石の向かい、裳層(もこし)の窓下長押に深い筋状の痕がみられます。
これは昔お百度やお千度の堂々めぐりをした数取り札の擦り痕で、本堂軒廻りの長押にズーッと刻まれています。
(「清水さん探検」清水寺門前会)
「長押(なげし)」(大阪文化財ナビ)地主神社は、現在、工事で「閉門」中です!
ブラタモリ「#69 京都・清水寺~人はなぜ清水を目指す?~」
清水寺の学芸員・坂井輝久さんの話では、清少納言や紫式部の時代には
まだこの舞台はできていなかったそうです。
舞台の話ではないですが、こんな記事がありました。
「秘仏十一面千手観音立像」(「読む」清水寺) 第3章 清水坂の歴史と景観
神護寺跡から子安塔へ
…前略…
大日堂を参拝し、坂をのぼると、ようやく清水寺仁王門が見えてくる。
その仁王門の手前、坂をのぼりつめた右手には、現在、清水寺警備室があるが、ここには1911年(明治44)まで、子安塔(こやすのとう <泰山寺(たいさんじ)>)があった。
子安塔は、現在、清水寺本堂の南方に移転している。
江戸時代、安産祈願の場として信仰を集めた。
また『雍州府志(ようしゅうふし)』巻四には、光明皇后が産前に病にかかって伊勢皇大神宮に祈ったところ、一寸七分の観音霊像が枕もとに現れる夢をみ、無事孝謙天皇が産まれたこと、その後重ねて神託が下ったため、天平2年(730)に三重塔を建立し、一寸七分の観音霊像を安置して泰山寺と称するようになったこと、子安塔の建立には清水寺の草創よりも古いことなどが記されている。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年) 現在、警備室の敷地内に立てられている石碑にも、「<光明皇后/念持観音>子安塔跡」と刻まれている。
さらに嘉永6年(1853)成立の『子安観音縁起絵画伝』には、光明皇后が夢告により子安塔に浴室を建てたこと、皇后自ら浴室を訪れた癩病者の法師の体を洗ったところ、法師は仏の姿になって現れたことなどが記されている。
こうした子安塔をめぐる縁起の存在は、すでに細川氏が指摘しているように、「非人救済の場という清水坂の性格」をよく示しているといえよう(細川武稔『京都の寺社と室町幕府』吉川弘文館 2010年)。
…後略…
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)凜々しいお顔だけど(^-^)音羽稲荷大明神の狐(神使)はマフラーをつけてもらって可愛かったです。長蛇の列で諦めました…
音羽の滝
三筋の霊水は大昔より音羽山中より涌き出る清泉であり、創建以来一度も枯れる事なく、今日に至ります。
観音様の功徳水である金色水とも呼ばれ、延命長寿、諸願成就のご利益があるといわれてきました。(霊水 冥加料 五百円)
またここは開山延鎮上人と開基行叡居士が出会った当山の起源の場であり、現在では不動明王をご本尊としてお祀りいたしております。
毎月28日の不動縁日には朝7時より山内僧侶が揃い、信者と勤行を致します。
是非とも早朝の荘厳な雰囲気の中、共にご参拝頂ければ幸いです。
合掌 国宝 本堂舞台 江戸初期
「清水の舞台」といわれ、本堂(国宝)の付属建築物で、平安時代の昔から構架されてきた。
現在の舞台組みは寛永10年(1633)徳川三代将軍家光の寄進による再建のままで、欄干親柱の金銅製宝珠に「寛永拾歳」と銘刻されている。
本堂外陣(がいじん)(礼堂<らいどう>)の廊下から南の谷へ間口約18メートル、奥行約10メートルに、長さ5.5メートル、幅30~60センチ、厚さ10センチの檜(ひのき)板を敷きつめ檜舞台として張り出し(舞台板は20~30年毎に張り替える)
床下は巨大な欅(けやき)の柱に貫(ぬき)を縦横に通し楔(くさび)でとめて頑強に支え、いわゆる舞台造りになっている。
建築学的には、懸(かけ)造りといい、礼堂の下から長短の欅柱で構築されており、観音様のお住まいとされる南インドの峻険な補陀落(ふだらく)(ポトラガ)山中の宝殿に実に似つかわしい。
最南端は錦雲渓の急崖に13メートルの髙さで建ち「清水の舞台から飛び下りるつもりで…」の諺(ことわざ)を生んできた。
本来は本堂に奉祀する御本尊千手観音様に向かって舞楽を奉納する、名実共に「舞台」で、現に重要な法要には舞楽、芸能などを奉納している。
東、西両側の翼廊は、その楽人たちの詰める楽舎である。
この舞台からの、錦雲渓をへだてた向山の子安の塔と阿弥陀ヶ峰の眺めや、京都市街、西山の遠望は、まことに見事である。
左下方には「清水寺」の寺名を由来する音羽の滝がこんこんと三筋の清水を流し、その上手には同じく舞台造りで奥の院(重要文化財)が建つ。
「清水寺の物語を紐解く 清水寺の歴史」(清水寺)北天の雄 阿弖流為 母禮 之碑
顕彰碑
8世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷(えみし)の阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次の亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同朋の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ、モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ、モレ両雄は802年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ、モレ顕彰碑を建立す。 地蔵院善光寺堂
16世紀中頃に描かれた清水寺古図「清水寺参詣まんだら」には、この場所に六地蔵の石仏が安置され、小堂が建つ。
この小堂が地蔵院の前身と考えられる。
また奥の院の南庭に建つ美しい御堂は、長野善光寺の本尊を勧請した善光寺如来堂と思われる。
以来、観音信仰の盛行によって地蔵院に如意輪観音(鎌倉時代作)が祀られ、洛陽観音第10番札所として洛中洛外の尊拝を博し、堂正面に「洛陽第十番 如意輪観音 地蔵院」の額を掲げている(洛陽観音第11番は奥の院、第12番は本堂、第13番は朝倉堂、第14番は子安の塔である)。
明治中期の境内整理によって善光寺如来堂を合併し「善光寺堂」と称してきた。
如意輪観音坐像を中央に、向かって右側に善光寺阿弥陀仏三尊像、左側に地蔵菩薩立像を安置。
現在の堂は昭和59年(1984)の改築である。 なお堂右手前の「首ふり地蔵」は、願い事のある方向に首をまわして拝めば願い事が叶えられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰に伝統している。
音羽山 清水寺産寧坂や二年坂でと思ったのですが、あまりの混雑に休憩なしで降りてきました。
いつもながら方向音痴のσ(^^;)なので途中、どこを歩いているのか???でしたが
細道の突き当たりにあったお店で
ベジタブルカレー(季節の野菜添え、7種類のスパイスと生姜入り)をいただきました。
読んでいる本は
『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(工藤美代子 毎日文庫)
この本は、教育テレビで放送されていた
人間大学のテキスト『ラフカディオ・ハーン 漂泊の魂』を手直しして、新たに判明した史実も加えているそうです。
半分以上はアメリカ時代について書かれているそうです。 お昼を食べたお店は、「SAGAN KYOTO」(左)
隣は、カレーラーメンを食べた六波羅飯店。
コロナ禍前に何度か入ったお店です。
当時と違ってQRコードで注文するシステムになっていましたが
70歳過ぎているので???だというと店員さんが親切に対応してくださった(^_^)v
このオシャレなお店を紹介してくださったのは鴨さん
東山を静かに 建仁寺からSAGANへ(2013年11月19日 火曜日)
京の街の東側
祇園街の少し南が六波羅です。
大勢の人でにぎわう花見小路をいそいそと抜け
向かった先は六波羅のカフェ「SAGAN」さん。
離れでゆったりとした打ち合わせができるのでお気に入りの場所です。
途中、建仁寺を抜けていったのですが
ここもまた桜の葉が散り始め
な~んともいい雰囲気になっていました。
こんな風に街中で静かに秋を感じると
自然と心も落ちつきます。「みなとや幽霊子育飴本舗 500年以上続く日本一歴史ある飴屋」
ご主人に、以前は、別の場所にお店がありませんでしたか?
と聞くと、20年ほど前にこの場所に移ってきたそうです。
かすかな記憶では、40年ほど前は六道珍皇寺の方に上がったところにあったと思います。
〝きょうの妖怪 Vol.1 飴屋の子育て幽霊 ……〟(京都大学新聞 2023.03.16)
水木しげるさんの好物だったそうです。
ご本人が直接お店にきたこともあったとか(^。^) 阿古屋塚
阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す
石造宝塔は鎌倉時代の作でmその下の台座は古墳時代の石棺の石蓋を用いている。
歌舞伎 壇浦兜軍記 「阿古屋」
平家の残党 悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五條坂に住む白拍子阿古屋を捕え、代官秩父庄司重忠は阿古屋に景清の所在を問い質す。
阿古屋は知らぬと申し開きをするが、詮議のために弾かせた琴、三味線、胡弓などの調べに一点の乱れのないことに感動した重忠は阿古屋が景清の所在を知らぬことが真実であると知り釈放する。
「阿古屋の琴責め」とも称される。
平家物語の裏面に隠された「阿古屋」の悲恋を語り伝えるためにこれを記す。
平成二十三年十一月吉日
五代目 坂東 玉三郎
第六十五世山主 純性
「壇浦兜軍記(ダンノウラカブトグンキ)~阿古屋」(歌舞伎演目案内)
左の塚は「清盛塚」(境内のご案内) 六波羅蜜寺を訪ねるのは久しぶりです。
地獄・極楽の道 弓矢町から六波羅蜜寺へ
…前略…
通りには「六道之辻」と記す石塔があります。
この辻を南にいくと、六原小学校、その隣が六波羅蜜寺。
市の聖と呼ばれた空也上人の建てた寺です。
十世紀、京都やその周囲で疫病が流行りました。
町には死体があちこちにころがっていたということです。
そこで、空也は、当時の民衆を救うために十一面観音をつくりここに安置しました。
963年に鴨川の河原で供養が行なわれ、西光寺が建てられたのです。
後、空也の死後、中信により六波羅蜜寺と改名されました。
(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年) 鉦(かね)を叩きながら、流民救済のため念仏を唱え、民衆に浄土を説いて回った空也によって人々の阿弥陀信仰がひろまったのです。
また、空也は川に橋を架けたり、井戸を掘るなどの社会事業も行ないました。
当時京都に流行った病魔を鎮めるために、梅干しと昆布をいれた茶を病者に授けたと言われています。
それはいまでも皇服茶として伝わっています。
いわば「福祉の原点」ともいえる活動をしていたのです。
彼の念仏踊りも有名で、当時は大きな影響を与えています。
…後略…
(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年)
皇服茶(おうぶくちゃ)は正月三ヶ日に授与されます。
「令和八年(丙午)新春大福まいりご案内」(六波羅蜜寺) 空也上人を拝みたいと思ったら宝物館が「令和館」として建て替えられていました。
奥に見えるのが旧宝物館です。
「六波羅蜜寺の寺宝」 六道珍皇寺
2章 都市の原像
京の葬送地
…前略…
このうち鳥辺野は、祇園社のあるあたりから南へ、泉涌寺(せんにゅうじ)あたりまでの広い範囲にわたりますが、中心は珍皇寺(ちんのうじ)や六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の東方山麓であったと思われます。
ことに珍皇寺は六道寺(ろくどうじ)ともいわれるように、鳥辺野の入口にあたる六道の辻(つじ)にあった、死者を祀る無常所(むじょうしょ)でした。
平安時代後期の記録には、貴族、武士から細工師(さいくし)、遊女(ゆうじょ)にいたるまでたくさんの人びとが、当寺の境内(けいだい)に私的な御堂を建てていたとあります。
ちなみに平氏は六波羅に屋敷をかまえ、ここに一族郎党(ろうとう)が集住したことで知られますが、もとはといえば、清盛(きよもり)の祖父正盛(まさもり)が、内蔵安富(くらのやすとみ)の名で珍皇寺から畑地を借り請(う)けて住んだのにはじまっています。
この珍皇寺は空海の師、慶俊(きょうしゅん)の創建と伝えていますが、小野篁(おののたかむら)が檀越(だんおつ<施主>)となって建物を整備したといい、ここから冥途に往来したという篁にまつわる説話が伝えられています。
毎年8月9・10日の両日には、境内で高野槙(こうやまき)を買い求め、六道の迎え鐘をつく参詣者でにぎわいます。
この迎え鐘で冥途から戻った精霊(しょうりょう)を、ふたたびあの世に送り返すのが、それから一週間後に行なわれる、あの五山の送り火なのです。
この送り火については十章でとりあげます。
…後略…
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)地獄の冥官小野篁(おののたかむら)の伝説が残る
現世と冥界の境界にある寺
古来、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)とともに風葬の地として知られていた鳥辺野(とりべの)。
かつての五条通であった門前の松原通は鳥辺野へ亡骸(なきがら)を運ぶ際の通路であった。
現世から冥界へ行く際の入り口とされたこの寺の界隈にはさまざまな伝説が残る。
平安時代、五条坂から今熊野あたりの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の麓一帯は鳥辺野と呼ばれる京の東に位置する葬送の地であった。
都人たちは、人が亡くなると亡骸を棺に納め、鴨川を渡り鳥辺野へ至る道筋にあたる六道珍皇寺にて野辺の送りの法要を営み、この地で最後のお別れの後、隠亡(おんぼう)により風葬の地である鳥辺野の麓へと運んで行かれた。
そんな風習のためか珍皇寺の辺りを中世以降「六道の辻」と称し、他界(冥界)への入り口とされてきた。
この六道とは、仏教の説く六道輪廻の死後の世界のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六つの世界をさす。
衆生は死後生前の善悪の業(ごう)(行い)により、六道のいずれかに赴(おもむ)くとされ、珍皇寺はこの六種の迷いの世界への入り口にあたり、こここそが人の世の無常とはかなさを感じる「あの世とこの世」の分岐点と信じられてきた。 この寺と冥界にまつわる伝説がもう一つある。
それは、平安時代初期の官僚で、閻魔大王に仕えたとされる小野篁は、この珍皇寺の庭の井戸を使い、夜毎冥界へ通ったという。
また、出口として嵯峨野の大覚寺門前の六道町に明治頃まであった福生寺の井戸を使ったとの説もあるが近年当時の隣接民有地(旧境内地)より、冥土からの帰路の出口に使ったのではと伝わる「黄泉(よみ)がえりの井」も発見され、神秘の世界との繋がりをより深めることとなった。
当山沙門 興道敬白 篁(たかむら)冥土通いの井戸
当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て右手奥辺り)にある井戸は、平安の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。
いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うためにこの鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初といわれている。
また『矢田地蔵縁起』にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の満慶上人(まんけいしょうにん)が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒(ぼさつかい)を授けに閻魔庁へ赴いたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺(ふくしょうじ)の井戸であるとする説もある。
しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺(せいりょうじ)西隣の薬師寺に引き継がれている。
これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の葬所であったことにより、ここにもやはり六道の辻は存在してとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていたとする説もうなずけるところである。
尚、当寺冥土通いの井戸の傍の小祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。
當山住持 謹白
大石(おおいし)地蔵菩薩立像(大石地蔵尊)縁起
平安の昔、この寺の界隈(かいわい)は京の東の葬地、鳥辺(とりべ)山へと続く道の出入り口付近にあたり、現世と冥界の境「六道の辻」と呼ばれていました。
また、徒然草に「あだし野の露(つゆ)、鳥辺山の煙(けむり)…」とあるように、当時は飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)の流行により、鳥辺山にはいつも骸(むくろ)を荼毘(だび)に附す煙が絶えず、また裾野(すその)一帯には火葬にすらできない人びとの遺骸(いがい)や髑髏(どくろ)が散在するといった、まさに寂寥(せきりょう)だけが支配する荒蕪地(こうぶち)であったのです。
こうした人の世の無常とはかなさの光景を憂い、亡者の魂魄(こんぱく<霊魂>)の弔いと冥界での往生を願われた弘法大師(空海)が、今より千年以上前に、この「六道の辻」の地に身の丈七尺七寸(約2メートル30センチ)の大きな石仏を一夜にして刻まれたのが、この『大石地蔵尊』と伝わります。
この地蔵尊の持ち物は左手に「宝珠(ほうじゅ)」、右手には「錫杖(しゃくじょう)」を持たれていますが「宝珠」とは「如意(にょい)宝珠」にて意のままに願望を成就させてくださり、「錫杖」は、この世で迷い苦しみ世界にある衆生から地獄に堕ちた亡者まですべての救済のためにどこにでもこの杖(つえ)をついて出向いてくださり、そして時にはこの杖上部の金の輪を鳴らし、悪をも退け救っていただけることを表しています。
こうした地獄の果ての罪人(つみびと)までにも慈悲の目をそそいでくださる地蔵尊だからこそ、いく世紀も前より今もって京の人びとに篤い信仰があるといえるのです。
当山沙門 興道敬白「松原橋(まつばらばし)」は京都市内から三途の川(鴨川)を渡ってくるときに通る橋。
この橋が元の五条の橋で武蔵坊弁慶と牛若丸がここで出会っています。
「弁慶との出会い~五条橋」(歌舞伎用語案内)
豊臣秀吉によって京都は大改造されています。遠くを見ると山に雪が白く積っていました。
鴨さんの記事
愛情の飴 幽霊子育飴(2011年11月5日 土曜日)
このところの天気で、喉もすこしおかしく、毎朝飴をひとつ口に入れて出勤しています。
さてその飴ですが「幽霊子育て飴」です。のど飴ではなく、この飴を口に入れるのは持ちがながくて通勤にピッタリ!麦芽糖も体にいいしね。
この飴は「みなとや幽霊子育飴本舗」でお求めできますが、その場所も六道の辻に面して立ち、前には子育て地蔵さんがいらっしゃいます西福寺さん。
近くには六道珍皇寺さんや六波羅密寺さんなどなにやらただならぬ(?)エリアです。
飴の由来はまさに亡くなった母親が墓の中で生んだ子供のため幽霊となって毎晩お乳の代わりに飴を買い求めた、というもの。本来、涙ぐましい由来の飴でした。
この飴、固いのですが口の中に入れても痛くなく、食べ終わった後も変な甘さがない、母親の愛情のような飴ちゃんです。
ちなみに、昔は水飴だったそうです。
余談ですが、エッセイストの麻生圭子さんがあの世にたった一つお菓子を持って行くことができるとしたらこの飴を持っていきたい、とおっしゃっていました。




























