2018年11月11日日曜日

四天王寺&大阪歴史博物館、大阪城

昨日、妹に義弟夫婦と娘さんが北海道から来阪しているとメールが入りました。
義弟の墓参りに行くと言うので四天王寺の石鳥居で待ち合わせをしました。
大阪市指定文化財    大阪市教育委員会
  西国巡礼三十三度行者満願供養塔
[指定の種別]有形民俗文化財
[指定年月日]平成18年1月20日
 江戸時代には、人々が自由に移動することは禁止されていました。
しかし、行者(ぎょうじゃ)と呼ばれる人たちは、大きなお寺が支配する
会所(かいしょ)という組織に入ることで、ある程度自由に旅行することができました。
人々は行者に頼んで全国のお寺などの霊場(れいじょう)をまわってもらい、
いろいろな願いをたくして、自分たちの代わりに祈ってもらいました。
 西国巡礼(さいごくじゅんれい)とは、
近畿の観音菩薩(かんのんぼさつ)ゆかりの霊場を巡礼することで、
巡礼する行者を三十三度行者(さんじゅうさんどぎょうじゃ)などと呼びました。
巡礼が無事終わった時に、行者に巡礼を頼んだ人が
記念の石塔を建てることもよくありました。
 この石塔はそのひとつで、極楽への扉といわれる
四天王寺の石鳥居の近くに建てられています。
住吉大社の近くにある西の坊(にしのぼう)というお寺が組織した
住吉組(すみよしぐみ)の真道という行者の巡礼を記念した、
文久二年(1862)のものです。
市内では西国巡礼の供養塔はめずらしく、大きさも特に大きく立派なものです。
  転法輪(てんぽうりん)
 転法輪とは古代インドの戦車の車輪を形どったもので
「お釈迦様の教え」の意味がある。
参詣者はこれを手のひらで軽く右(時計回り)に回転させ、
仏の尊い教えが車輪のように回転して遠くまで広がる様を表している。
○和歌
  難波津や ふるきむかしの あしがきも
    まぢかきものを轉法輪所(慈鎮)

○石鳥居扁額
  釈迦如来
  転法輪処
  当極楽土
  東門中心

四天王寺は釈迦如来が
説法された聖地であり、
境内の西の端である西門は
極楽浄土の東の門に当たる。
義弟の家族は、京都へ旅行するので天満橋で別れました。
今回の旅行のプランを考えた娘さんにお勧めの場所として
清水寺に行くというので、2015年5月14日の記事で紹介した
地蔵院善光寺堂の首ふり地蔵さんと
石塀小路の「茶房 よし本」(2016年1月3日)を勧めました(^_-)
天満橋駅で見送りを妹に任せて町歩きをしましたp(^-^)q
大阪城に向かっていると
東町奉行所址
 東町奉行所は警察・司法・行政を兼ね、西町奉行所と月番制で職務に当たった。
大坂三郷・摂河泉播4カ国の治安を守り、維新まで続いた。
 往時この辺りは武家屋敷があった。
(『大阪春秋 平成29年 秋号 No.168』)
前に来たときは工事中だった。
新しく大阪重粒子線センターが建っていました。
2014年5月から本施設建設に伴い発掘調査が行われました。
発掘では、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣の講和条件として埋められた、
豊臣大坂城二の丸生玉口(大手口)を逆コの字状に囲む堀の一部が見つかりました。
今は見ることのができない豊臣秀吉が築城した大坂城の堀が、
埋められてからちょうど400年後、その姿を現したことに不思議を感じます。
豊臣大坂城は、1615年(慶長20年)大坂夏の陣により落城・焼失しました。
その後、1620年(元和6年)から現在見ることのできる、
徳川大坂城の築城が始まりました。
その際、この辺りは土取りのためか地面が大きく削られておりその後、
約5mに及ぶ盛土がなされ平地が造られました。
盛土の底近くからは、小さいもので44kg、
大きなものでは1519kgの大小54個の石が見つかりました。
これらの石は、徳川大坂城築城の1期工事の際に
不要となった自然石や石垣には使えない端石で、廃棄された残念石と呼ばれ、
刻印や墨書符号の見られるものがあります。
  協力 公益財団法人 大阪府文化財センター

刻印のある石
これらの石には、線彫りによる刻印が見られます。
にかかわる刻印と考えられます。
これらは、生駒山地の花崗岩のほか、
小豆島の花崗岩の可能性があるものがみられます。
寄贈
株式会社日建設計
鹿島建設株式会社
株式会社日立製作所
大阪歴史博物館に向かいました。
エレベーターで10階まで上がると
難波宮跡です(2014年4月9日)。
大坂本願寺御影堂(おおさかほんがんじごえいどう)
大坂本願寺は天文2年(1533)に成立し、
天正8年(1580)まで存続した浄土真宗の本山寺院。
現在の大阪城付近にあった。
御影堂は宗祖親鸞(しゅそ しんらん)の木像を安置する堂舎(どうしゃ)で、
各地の門徒(もんと)は御影堂の参詣のため本山に集まった。
教団で最も重要な建物。
大阪歴史博物館に来た一番の目的は
特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」を見たかったのです。
展示品は撮影禁止ですが、図録(2000円)を購入しました。
展示の中で昨日、訪ねた善隣館の佐伯祐正(ゆうしょう)について紹介されていました。
また、佐伯祐三の「ノートルダム(マント=ラ=ジョリ)」を見ることができました。
図録の内容などを後日紹介できたらと思っています。
おなかがすいたので館内のレストランで「タコライスランチ」を食べました(^。^)
タコライスは前から気になっていたのですが、食べる機会がありませんでした。
沖縄が発祥なんですね(o゜▽゜)o
南外堀
大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。
石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、
寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、
豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。
幕府の命令によって動員された大名は
肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。
内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、
さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。
大手門・謎の柱継(はしらつ)
 この門には、非常におもしろいところがあります。
名付けて「大手門謎の柱継ぎ地」。
日本の建物でここ一か所しかないとされる継ぎ方なのです。
絶対上下にも横にも動かない。
どうやって上下をつないだのか、「この謎を解ける人、いますか」と
昭和54年毎日新聞が社会面のトップで大きく報道し呼びかけましたら、
各地の腕自慢の大工さんたちがそれぞれ模型を作って送ってこられました。
これしか方法はないはずだと、皆自信満々。
たくさんの模型が集まりましたが、X線撮影すると、
完全に一致したのはたった一人でした。
神戸市の幸田貢さんです。
まったく隙間なく継げていることがわかります。
 当初の柱が下の方から腐ってきたので、
その部分だけを新しい木材にかえて、継いだわけです。
大阪城のあまり知られていない「かくれた名所」です。
(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』北川 央 フォーラム・A 2004年)
大手門の控え柱(赤→)の位置です。
観光ボランティアの方が
模型を見せてくださったことがあります(2014年8月28日)。
大手口枡形(おおてぐちますがた)の巨石
 枡形とは城の重要な出入口に設けられた四角い区画のことで、
敵の進入を食い止める役割を果たした。
築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、
大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。
大手門をくぐって正面に位置する大手見付石(おおてみつけいし)は、
表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、
左の大手二番石(おおてにばんいし)は約23畳敷(39.90平方メートル)で第5位、
右の大手三番石(おおてさんばんいし)は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、
いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。
現存する大阪城の遺構は豊臣時代のものではなく、
元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、
石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。
この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠広(かとうただひろ)が築き、
のちに筑後久留米藩主有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。
大手口多聞櫓の歴史
 寛永(かんえい)5年(1628)徳川幕府による大坂城再築工事によって建造されましたが、
天明3年(1783)に落雷のため焼失。
その後しばらく石垣だけの状態が続き、
幕末に行われた大坂城総修復工事によって嘉永(かえい)元年(1848)に再建されました。
再建にあたって幕府は、大坂・兵庫・西宮・堺のおもだった町人に多額の御用金を課しています。
 幕末の動乱の中、大坂城を拠点とした14代将軍家茂(いえもち)
15代将軍慶喜(よしのぶ)もここを通って本丸へと向かいました。
特に家茂はしばしば城内諸施設の巡視を行い、
この多聞櫓や千貫櫓の中へも足を踏み入れています。
 明治維新の大火や第2次大戦の空襲にも奇跡的に焼失をまぬがれたこの多聞櫓は、
高さが17.7メートルもあり、各地に現存する同種の櫓の中で最大の規模を誇っています。
 なお、豊臣時代の大坂城にもこの付近に大手口がありましたが、
そこに多聞櫓があったかどうかはわかっていません。
銃眼が掘りこまれた笠石(左)の向かいの部屋(赤→)は、
この部屋は、いざ戦いというときに兵士たちが
籠城(ろうじょう)して寝泊まりするためにつくられたもの。
多聞櫓(たもんやぐら)は大手門を防衛する兵士が詰めた。
 渡櫓(わたりやぐら)のほうから16畳・20畳・12畳・16畳・12畳・12畳と合計6室ある。
姫路城の女房衆の長局(ながつぼね)と構造はよく似ているが、
こちらは軍事的な実用性が高い。
 床にくらべると敷居が高いが、畳がいれられていたかは定かでない。
多聞櫓(たもんやぐら)渡櫓(わたりやぐら)太鼓櫓(たいこやぐら)
 ともに櫓の一種である。
多聞櫓は石垣の上につくられた長屋をいい、
渡櫓は多聞櫓の一種でその下に門のあるものをいう。
そしてこの櫓の下の門を櫓門(やぐらもん)という。
渡櫓・櫓門は大阪城大手枡形に現存している。
太鼓櫓は、内部に太鼓を置いたもので、時刻や急報を告げる役目をした。
江戸時代大坂城の太鼓櫓は二層であった。
室町時代中期の五輪塔(一部)
この石は、大阪城随一の巨石桜門にある
蛸石の裏込め石の中より発見されたものであり、五輪塔の一部です。
大きさは横幅・奥行きがそれぞれ25cm、高さ21cmで、下図の基壇の部分にあたります。
桜門の石垣は、寛永元年(1624年)正月より徳川第二期工事として始められ
三年の暮れまでに完成をみました。
したがってこの五輪塔はこれより160年前に造られたものが
裏込材として使われたことになり、
巨石を競っていた各大名も栗石の採取に大変困っていたことがうかがえます。
五輪塔とは、平安中期頃密教で創始された塔形で、
石などで五つの部分につくったものです。
方・円・三角・半月・団の五つの形を造り、
それをそれぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあて、
下から積み上げた形のもので、
多くはその表面に五大に種子(しゅじ)すなわち梵字が刻まれています。
鎌倉期以後は各宗でも用い、堂宇の落成、
仏像の開眼などの供養塔や碑として造られました。
千貫櫓(せんがんやぐら)  重要文化財
 西の丸庭園の西南隅に建つ二層の隅櫓(すみやぐら)で、
大阪城の正門・大手門(おおてもん)を側面から防御する重要な位置を占める。
多聞櫓とは土塀で連結している。
 千貫の名称は、その昔この地にあった石山本願寺を織田信長が攻めたとき、
この付近にあった櫓が難攻不落で、
「あの櫓を落とした者には千貫文与えても惜しくはない」と話していたことから
その櫓を千貫櫓と呼ぶようになり、
その後も大手の守りのかなめとなる重要なこの付近の櫓に
その名が引き継がれたとされている。
 徳川幕府の大坂城再築初期の元和6年(1620)、
桂離宮などの設計で知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)によって創建された。
昭和36年(1961)の解体修理のとき
「元和六年九月十三日御柱立つ」の墨書のある板が土台部分から発見され、
創建年月日が明確になった。
城内では乾櫓(いぬいやぐら)とともに最も古い建造物である。
 内部は、一、二階とも武者走(むしゃばし)りと呼ばれる回廊がとりまき、
その内側に4室ずる天井板張りの部屋がある。
一階の面積は約199平方メートル、二階は約143.32平方メートル。
 一階、二階とも武者走りには大手門と外堀対岸に向かって隠し銃眼が、
また一階には石垣をよじ登ってくる敵に対する石落(いしお)とし装置がみられる。
 なお、二階武者走りに格子ぶたの荷揚げ装置がみられるが、
創建時から設置されたものか、明治以後、軍部によって付けられたものか定かでない。
土塀の銃眼から覗くと…

(やぐら)
 矢倉(やぐら)あるいは矢蔵(やぐら)とも書く。
物見や射撃による防御等のために石垣の上につくられた楼(ろう)をいい、
日常的には武器や米・塩などの倉庫に使われた。
櫓のうち最もよく知られているのは、
石垣の突き出た隅につくられた隅櫓(すみやぐら)である。
江戸時代大坂城の本丸には三層の隅櫓が11棟、
二の丸には三層櫓1棟(伏見櫓)、二層櫓が12棟つくられていた。
西の丸庭園
(…略…)
 現在の西の丸は、一面芝生の、だだっ広い空間です。
しかし、秀吉の時代から、西の丸は本丸(ほんまる)につぐ重要な場所で、
当初は兄秀吉を補佐して豊臣政権を支えた
豊臣秀長(ひでなが 1540~1591)が屋敷を構えていました。
また秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)お祢( 1548~1624)が
住んだ時期もありましたが、
関ヶ原合戦の前には徳川家康がここに乗り込んできて、
本丸とは別に、もう一つの天守(てんしゃ)を建てました。
二つ天守があるというのは城主が二人いることではないかと、
豊臣家の奉行衆(ぶぎょうしゅう)が大変憤慨して弾劾状(だんがいじょう)を出し、
関ヶ原合戦がおこる原因の一つになっていきます。
それほど西の丸はたいへん重要な場所でした。
 そうした位置づけは江戸時代になっても引き継がれ、
城主である徳川将軍にかわって、日常的に大坂城を管理する立場にある、
実質的に大坂城のナンバーワンだった大阪城代(おおさかじょうだい)
西の丸に上(かみ)屋敷を構えていました。
 また、券売所から西に向かって進むと、
つきあたりに先ほど紹介した「千貫櫓(せんがんやぐら)」を間近に見ることができます。
櫓というのものは、外部からの敵を攻撃するために建てられていますので、
堀に面した側面にだけ窓が設けられています。
城内の側は全面が壁になっていて、窓は一つもありません。
(『大阪城ふしぎ発見ウォーク(旧版)』北川 央 フォーラム・A 2004年)
西の丸庭園では、ここを見たかった。
内部を見学できてラッキーでした(^_^)v
重要文化財
   焔硝蔵(えんしょうぐら)
 徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、
現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。
焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、
青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、
また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も
部材の腐食による立て直しがたびたびなされるなど、
幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。
そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、
床・壁・天井・梁(はり)をすべて花崗岩(かこうがん)とし、
石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。
面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、
こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。
徳川時代の大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、
焔硝のほかにも大量の兵糧(ひょうろう)や武器武具が備蓄されていた。

重要文化財「多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵」の特別公開
[期間]土日祝日限定公開 3/3(土)~11/25(日)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    いいお天気だと、街歩きがどんどん進みますね。
    標題で、四天王寺から大阪城まで歩かれたかと思いました~
    そんなはずないですよね。(^-^;

    >西国巡礼三十三度行者満願供養塔
    全然気づいていませんでした。
    今度行った折に寄ってみます。
    有難うございます。

    返信削除
    返信
    1. カイさんこんばんは(*^O^*)/
      >標題で、四天王寺から大阪城まで歩かれたかと思いました~
      四天王寺前夕陽ヶ丘→谷町九丁目→六丁目→四丁目→天満橋と
      この季節は、歩こうと思えば歩ける距離ですね。
      でも、途中で訪ねたくなるポイント幾つもあるので
      通り過ぎるのはもったいないです(^_-)

      >全然気づいていませんでした。
      σ(^_^;も見えていたのに調べていませんでした(^^ゞ
      今回、石鳥居で待ち合わせだったので、説明板に気づくことができました。
      何度も訪ねていながら気がつかないことが多いです!

      削除