青空が広がっていて歩くのにちょうどいい気候でした(^。^)
巻第十二 2925
緑児(みどりご)の為こそおもは求と言へ乳(ち)飲めや君がおも求むらむ
歌意
幼児のために乳を与える乳母を求めると言うが、
あなたは乳を飲まれるような幼児であるのだろうか。
そうでもあるまいのに、もうあなたに比べると
乳母に相当するような年配の私に愛を求められるとは驚いたことです。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
語釈
◆緑児の 幼児のことを指す。
幼児は「赤児(あかご)」とも言うのは色が赤いからであろうが、
「緑児」というのは色よりは緑の木々が萌え出るように
成長してゆくのを指すのであろうか。
竹取翁の歌にも「緑子のわく児が身にはたらちし母にうだけ」(3791)とある。
◆おもは 原文は「乳母者」とあり、乳を与える乳母を指したのである。
「おもちち」など母と父との意であり、母の意もある。
母は乳を与えるのでその点では母も乳母であるとも言える。
(…略…)
◆乳飲めや 乳を飲まれるのだろうか、そうでもないのにの意である。
(…略…)
実際は乳を飲む緑児ではないのであるから、反語的意味がある。
◆おも求むらむ 乳母のような年とった私に愛を求められるの意。
愛を求めたのであるが、女性がすでに年配であるのでこのように女が言ったのである。
あるいはすでに子もあったのかも知れない。
母のような年配の女性と女自身が言っているので、
男性より年上の女性に愛を求めたのであろう。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
鑑賞
この歌を見ると万葉の女性もなかなか単純ではないことを感ずる。
素朴で純粋であるだけではないものがある。
もっとも乳をのむ赤ん坊の乳母という発想を見ると
求婚した男性よりは年上の女性であり、
それだけにこういう余裕をもって男性にこたえ得ているのであろう。
これは『万葉集』の名のある女性でも石川郎女の如きがそうであり
(もっとも石川郎女には種種の歌があり、二人もしくは三人とも見られる)、
坂上郎女にしても同様である。
ともあれこの歌は発想の上から言っても特異な歌であり、
わかりにくい点が無いではない。
がそれはつぎの歌をあわせて読むとはっきりする。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
巻第十二 2926
悔(くや)しくも老いにけるかも我が背子が求むるおもに行かましものを
歌意
老いてしまったのは悔しいことである。
もうすこし若ければあなたの求める乳母として参りましょうに、それもできません。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
語釈
◆悔しくも 年とったのは悔しいとあるので相当の年配になっているようである。
この歌は前の歌と同一の作者と見られる。
◆求むるおもに 探している乳母の意。
しかし相手の男性は乳母を求めているのでなく、
愛人として求めているのであるから、
「老いにけるかも」と言っても老人というのでなく、
相手よりいくらか年上の程度と見るべきである。
そうすればこの言い方には誇張があり、
相手の求婚をことわる時の大げさな言い方と見るべきであろう。
◆行かましものを もうすこし若ければ行こうものを
こんなに年とっては乳母としても行けないの意。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
鑑賞
この歌は前の歌に比べると発想が単純であり、それだけにわかりやすい。
歌としては前の歌に及ばないが、
この歌をもとにして前の歌を読むとその発想がよくわかる。
この二首を同時に送って年下の男の求愛を辞退したと見るべきである。
(『万葉秀歌(五)』久松潜一 講談社学術文庫 1976年)
アメリカからきた犬の木
ハナミズキ ミズキ科
[木をおぼえる短歌]
アメリカの木陰がふるさとハナミズキ ソメイヨシノと交換留学
アメリカにソメイヨシノを送った返礼に送られた木がハナミズキです。
樹皮の煮汁で犬を洗うと皮膚病が良くなると、ドッグウッドと呼ばれます。
現地では森林内などで見られる木のようで、乾燥に弱い木だと思います。
桜が終わることに白やピンクの花を咲かせますが、
花弁にみえるのは苞(ほう)と呼ばれるもので、花は真ん中の小さい集団です。
花芽は玉ねぎのような形をしていて花をつつんでいるのです。
成長が遅いハナミズキは、剪定代が節約でき、
きれいな花も咲くと街路樹として人気の樹種です。
乾燥した土だと、花は小さくなる傾向があります。
街路樹のように狭い場所だと、根の張りが悪く倒れる木も割にあります。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
「土も陽当りも悪くないのにハナミズキが咲かない」という相談をよく受けます。
原因はよくわかりませんが、木は長生きできる生き物なので、
わざわざ散財して子孫を作らなくても良いわけです。
たぶん恵まれている場所なので、危機感がなく花が咲かないのかもしれません。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
ハナミズキはうどんこ病によくかかっています。
キイロテントウはうどんこ病を食べるので、
ハナミズキのうどんこ病駆除を手伝ってもらおうと飼ってみたのですが、結構小食。
あまり食べてくれないものです。
ハナミズキはきれいですが、どこへ行ってもアメリカのハナミズキばかりになると、
日本在来の生き物に影響があるのではないかと心配しています。
(『散歩が楽しくなる 樹の手帳』岩谷美苗 東京書籍 2017年)
川の中に立ち、じーっと川底を覗いている
川の中にポツンと立つ白い姿。
シラサギという列車もあるほど、シラサギの名は有名だが、
コサギと言われてもピンとこない人が多いかもしれない。
シラサギは、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、カラシラサギ、
アマサギなどを総称する呼び方。
そんなシラサギ類の中で、身近で気軽に見れるといえば、コサギだ。
コサギは日本の本州全域の水田、川、湖畔、干潟など
水のある場所に幅広く生息している。
主なエサは魚や水生昆虫、貝、カニなど。
田んぼなどではザリガニやカエルなども食べる。
水の中に足をつけて立ち、気配を消して、じーっと動かない。
獲物が近づくと、黄色い足を疑似餌のようにオトリにして、
長いクチバシで魚を捕らえる。
オスメス同色で、夏には頭の後ろに2本の冠羽が伸びて、
胸と背中などにも飾り羽が出るが、冬はあまり見られない。
鳴き声は「グワーッ」「グエーッ」という感じで、おせいじにもいい声とは言えない。
(『子どもと一緒に覚えたい 野鳥の名前』山崎宏監修 momobook 2018年)
・鋭く長いクチバシは、水中にいる魚を捕まえやすく、貝をこじ開けるにも便利。
カニに挟まれても痛くない。
・コサギは大きな翼で遠くまで飛ぶことができる。
大空を飛ぶ白く大きな物体はなかなかないので、すぐに見つけられる。
サギ山を作る
サギ類が集まって多種混ざってコロニーを作ることを「サギ山」という。
サギ山が近くにできると、魚臭い上に、
猫の喧嘩中のような「グエーグワーッ」という声が響き渡る。
(『子どもと一緒に覚えたい 野鳥の名前』山崎宏監修 momobook 2018年)
今朝の父の一枚です。
アキアカネを見つけていましたp(^-^)q
秋口になると、突如としてアキアカネが大量に現れてくる。
アキアカネは幼虫時代を小さな池などで過ごす。
幼虫はふつうのヤゴで、えものを捕らえるあご、いわゆる「仮面」をもち、
水中で動く餌を見つけると、さっとそちらを向いて、
電光石火のように仮面を突き出して捕らえる。
このときのコンピューター的機構はカマキリのそれにも匹敵するもので、
驚くほど精巧をきわめた仕組みであるらしい。
こうして育ったヤゴは、夏、水から出て親になる。
その時にはまだ体の色も黄色っぽく、「赤」トンボにはなりきっていない。
次々と現れた親は、集団をなして山地へ向かって移動する。
その集団がたまたま東京や大阪の町なかを通過したりすると、
新聞が「異常現象か?」と騒ぎたてる。
涼しい山間部でしばらく過ごすうちに、彼らは成熟し、体の紅味も強くなる。
こうしてある日、彼らはまた平地へ帰ってくる。
このときは集団をなしてくることはないが、
結果的にたくさんの「赤とんぼ」が見られることになり、人々に秋を感じさせるのだ。
彼らがなざこのような移動をするのか、まったくわからない。
北原白秋の歌では赤とんぼは竿の先に止まるのだが、電線にもとまる。
たくさんの個体が止まっている時、よく注意してみると、
その止まり方や向きがほぼ同じであることがわかる。
とくに太陽と一定の角度をとって止まることが多い。
これは彼らの体温調節のテクニックなのであって、
暑すぎれば太陽にしっぽを向け、
寒い日には体の側面を太陽に向けて、日なたぼっこをする。
変温動物である昆虫にとって、太陽は実に大切なものなのだ。
アカトンボも他の多くのトンボと同じく、
雄はなわばりをもって雌を獲得しようとする。
その苦労はなかなかたいへんなものである。
(日高敏隆)
(『四季の博物誌』荒垣秀雄編 朝日文庫1988年)
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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m