2018年11月15日木曜日

石清水八幡宮

父と一緒にお詣りに行きました。
作業員の方がジョウロのようなものでレールに播いているのは油かな?
石清水八幡宮の男山遷座
 石清水八幡宮が創建される以前より、ここ男山(おとこやま)には山寺があり、
石清水寺という名前だったと伝えられています。
 八幡大神様の御託宣(たくせん)を受けた行教(ぎょうきょう)が官符を得て、
石清水寺を護国寺(ごこくじ)と改めるのは貞観4年(862)のことです。
それによって護国寺という名前の神宮寺(じんぐうじ)となりました。
御本尊は薬師如来です。
それゆえ薬師堂と呼ばれることもあったそうです。
そして「男山」というのは大神様が御遷座なさる以前の社地山峰の旧称だったのです。
(『石清水八幡宮の宮司が語る 謎多き神 八幡様のすべて
               田中恆清 新人物往来社 2010年)
いずれにしても、朝廷の援助のもと、淀川山崎津(やまざきつ)の対岸、
石清水男山の峰に六宇の宝殿が建立されました。
そして、石清水八幡宮の社域は時代を追うにしたがって大規模となっていきます。
八幡造の社殿を中心として、鳥居をはじめとする神社様式の建築物を基本としながら、
寺院の堂塔なども数多く建立されました。
そして、神仏一体の壮観な様相を呈することとなったのです。
(『石清水八幡宮の宮司が語る 謎多き神 八幡様のすべて
                田中恆清 新人物往来社 2010年)
その祭祀(さいし)様式は、宇佐(うさ)に起こったものが踏襲(とうしゅう)されました。
しかし神社の祭祀と寺院の仏事は、宇佐よりも石清水において、
より深く混淆(こんこう)したのです。
「宇佐に始まった八幡大菩薩信仰は石清水において完成をみることになる」と
表現する学者もいらっしゃいますが、私もその通りだと思います。
(『石清水八幡宮の宮司が語る 謎多き神 八幡様のすべて
                   田中恆清 新人物往来社 2010年)
校倉
築地内北西隅に位置する校倉(宝蔵)は、建築年代が明確ではありませんが、
文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、
平成21年3月に石清水社・石清水井とともに京都府より文化財の指定をうけました。
石清水八幡宮「境内のご案内」より)
今日は七五三詣で混んでいるかなと思ったけど
平日なのと朝早かったので静かな境内でした。
よしあしの
 人にはあらで
     我にあり
形直(なお)うて 
   影もまがらず 
       脇坂義堂

【意味】
人から自分へ対する態度の善し悪しは、
相手に原因があるのではなく自分にあるもの。
人に嫌な態度をとられたら、
人に対する自分の言動を良く振り返ってみるべきである。
【出典】『孝行になる伝授』

脇坂義堂(ぎどう)
出生不明~文化15年(1818)。
江戸中期から後期の経世家。通称庄兵衛。京都出身。    
若年より経世済民(けいせいさいみん)の志高く、
手島堵庵(てじまとあん)の門に入り心学を究めた。
当時の大津街道を修繕し、また蹴上(けあげ)の山中に常夜灯数基を設置して
夜間通行の安全を図るなど、常に世のため人のために尽くすことを心掛けた。
著書は『教の小づち』『忍徳経』など20部50巻に及ぶ。
宮中・公家・武家の祝い
 宮中や公家・武家のしきたりでは、子供の成長の祝いとして
髪置(かみおき)・深曾木(ふかそぎ)・袴着(はかまぎ)・帯直(おびなお)しなどが行われていた。
髪置は子供の髪の毛を伸ばしはじめるときの儀式で、
それまでは髪の毛を剃って頭を丸めていた。
平安時代には三歳の春に行われていたが、
室町時代に公家は二歳、武家は三歳で11月15日の行事になった。
長寿や子宝に恵まれた人に儀式上の親になってもらい、
(からむし)や藪柑子(やぶこうじ)などの飾りのついた
真綿の帽子や米粉を子供の頭にかぶせ、
その髪を櫛や笄(こうがい)でとかすのがこの儀式である。
深曾木はいったん伸ばした髪の毛を一度切って整える儀式で、
かつては三~七歳に行われていた。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 1999年)
武家が政権をとる時代になって男児五歳、女児四歳の11月か12月の吉日に行われ、
江戸時代に11月15日に定まった。
この場合も名望家や子孫の繁盛している夫婦が儀式上の親に頼まれている。
袴着は子供に袴をつけだすときの儀式で、以前は3~14歳で、
日どりは適当な吉日が選ばれていたが、
室町時代には3~7歳で11月15日あるいは正月に行うようになった。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 1999年)
江戸時代には、子供を碁盤の上に立たせ、
儀礼上の親が裃(かみしも)を出してつけるという作法があった。
帯直しは帯解き・紐(ひも)落としとも呼ばれ、
紐つきの子供服から帯で締める大人服に替える儀式で、
室町時代からはじまったとされている。
もとは男女九歳で行うものであったが、
江戸時代に男児五歳、女児七歳または九歳になり、日どりも11月15日になった。
このように公家・武家の伝統のなかで子供の成長の祝いは一定の形式を与えられ、
とくに11月15日の行事とされるようになっていった。
(『三省堂 年中行事事典(旧版)』田中宣一、宮田登 編 1999年)
父と一緒に電車に乗りましたが、樟葉の駅でσ(^_^;は特急に乗り換えました。
天満橋の書店で本を探し
植木雅俊さんの『差別の超克 原始仏教と法華経の人間観』を購入しました。
書店で非売品(無料)の
図書 2018年 臨時増刊号『はじめての新書』」をみつけました(^_^)v
ガイドブックとして読み応えありますよ(*^O^*)/
お昼になったのでカレーうどんとご飯(小)を食べました。