公園を歩いているうちにポカポカ陽気になりました。
ジョゼフィーヌ・コレクション
18世紀後半、バラの育種にとって大きな引き金となるのが
ナポレオン妃・ジョゼフィーヌのバラコレクションです。
彼女はパリ郊外のマルメゾン宮殿の庭に、
250種類にものぼる世界のバラを集めました。
ロサ・ガリカの園芸品種を中心に、中国種も20種以上あり
ナニワイバラやハマナスなども含まれていました。
また、画家ルドゥテに巨額の年俸を与え、
バラの図譜『Les Roses』を出版させました。
大徳寺を訪ねたくなったのにはキリシタンの関係と
徳川家康が朝鮮との国交を回復させ、12回に及ぶ朝鮮通信使のことがありました。
『京都の歴史を歩く』より転記したいと思います。
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秀吉死後、天下の覇権を握りつつあった徳川家康は慶長5年(1600)、
使者を朝鮮に派遣するとともに、被虜人200名を送還し、さらに慶長10年には、
朝鮮側の使者・松雲大師惟政(ソンウンデ サ ユジョン)と伏見城で会見し、
再侵略の意思がないことを表明した。
その結果慶長12年、朝鮮側から500名を超える使節団が来日し、国交回復となり、
以後、江戸時代を通じて12回にわたって朝鮮使節が派遣され、
日朝間の交流が進められていく。
そして12回のうち、慶長12年、元和3年(1617)、
寛永元年(1624)の第一~三回の使節が京都において宿館としたのが、大徳寺であった。
大徳寺が宿館となった理由については定かでないが、
応仁の乱後、いちはやく復興した寺院であったこと、
朝鮮出兵前の天正18年(1590)に、
秀吉が朝鮮使節を京都に迎え入れた際にも宿舎となっていることなどが、
仲尾宏氏によって指摘されている。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
第一回の使節団の副使・慶暹(キョンソン)による使行録『海槎録』によれば、
一行は大坂から淀を経て入京し、大徳寺へと至っている。
寺内には、天瑞寺・総見院・甘棠院・大光院・金龍院をはじめとする
数十余院の塔頭があったといい、
慶暹の宿泊した天瑞院の庭には蘇鉄の木が植えられていたという。
天瑞院は現存しないが、
秀吉が生母の大政所を弔うため創建したものであると伝えられている。
また総見院は、天正10年(1582)に秀吉が織田信長の
菩提寺として創建した塔頭として有名であり、
境内には信長・信忠・信雄(のぶかつ)らの墓がある。
このほか大光院も現存している。
使節らは、約一ヵ月の滞在期間に、東福寺や三十三間堂、
清水寺、知恩院など、東山の寺社を見物した。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
大徳寺を宿泊先とした第一~三回の使節は、
朝鮮側では「回答兼刷還使」とよばれていた。
これは使節が日本側の要請に応え派遣される形式をとりつつ、
被虜人の送還を重要な目的としていたことを示している。
被虜人のなかには、朝鮮侵略時に、諜報活動や労務のため拉致された人々のほか、
陶工などの職人や、後にふれる姜沆(カンハン)のような朱子学者もいた。
仲尾氏の研究によれば、国交回復の過程で、約7000名に及ぶ被虜人が
朝鮮に送還されたが、これは数万人に及ぶ被虜人の一部に過ぎなかったという。
先にも触れた第一回の使節団の副使・慶暹の『海槎録』には、
洛中に入り大徳寺へと向かう一行の様子を大勢の人々が見物するなか、
涙を流しながら見ている朝鮮の女性がいたことが記されている。
また、寛永元年(1624)の第三回の使節団の副使・姜弘重(カンホンジュン)の
使行録『東槎録』にも、同じく大徳寺へと向かう使節団を見物する人々の中に
全羅道昌平県出身の女性がおり、泣きながら、自分は被虜人である、
もし一行の中に昌平県の人があれば、
家族の消息を教えてほしいと訴えている様子が綴られている。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
一方、第二次朝鮮侵略の折に藤堂高虎軍の被虜人となり、
伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)、ついで京都へと連行された
朱子学者・姜沆(カンハン)は、家族ともども捕らわれ、
子や親族を喪(うしな)いながら捕虜として生活を送るという
凄惨な体験を詳細に記録している。
その記録をまとめた『看羊録』によれば、姜沆は伏見の藤堂高虎の屋敷で
軟禁生活を送りつつも、相国寺の僧侶で儒学に関心を寄せていた
舜首座(しゅんしゅそ)すなわち藤原惺窩(ふじわらせいか)や、
惺窩に師事していた播磨の武将・赤松広通らと交流していたという。
惺窩は姜沆に、朝鮮における科挙のきまりや
釈奠(せきてん)(孔子とその門人をまつる行事)、
経筵(けいえん)(君主の前で経書を講義すること)・
朝著(ちょうちゃく)(官人の順位)等について尋ねており、
姜沆との交流を通じて朱子学への傾倒を深め、
やがて近世儒学の祖とよばれるようになった。
また赤松広通は、姜沆の兄弟や他の被虜人に、
六経(儒学の根幹となる詩・書・易・春秋・礼・楽の経書)の
大文(注釈のある本の本文)を書くよう依頼し、
その代価で姜沆らが帰国できるよう便宜をはかってくれたという。
(『京都の歴史を歩く』小林丈広他 岩波新書 2016年)
「朝鮮通信使」(京都市情報館)
かいらしい〔可愛らしい〕
可愛らしいの短縮形。
おもろいと同様、縮まって愛らしさの出た大阪ことば。
さらに縮めて、かいらしいとも言う。
「あの子、ぽちゃっとしてかいらしいなあ」などと使う。
(『大阪の教科書 ビジュアル入門編 大阪検定公式テキスト』
橋爪 紳也監修 創元社 2018年)
シジュウカラにもいるパリピとシャイ
鳥を飼ったことのある人はよくご存じでしょうが、
同じ種の鳥でも個体によって性格に違いがあります。
野鳥の鳥でも性格の違い、厳密にいうと
「個体ごとの行動パターンに一貫した傾向がある」ことが知られています。
たとえばシジュウカラは冬になると群れをつくって森の中を動き回るのですが、
積極的にあちこちの群れを行ったり来たりするパリピのようなタイプと、
賑やかな群れにはあまり加わらない、
人混み(鳥混み?)嫌いなシャイタイプがいるようです。
そして、シャイ君は同じタイプのシャイ同士でいつも行動しているようなのです。
また、シャイな個体は人気で流行りの場所では繁殖せず、
ほかの個体があまりいない場所で繁殖する傾向があります。
群れが大きくなると、群れ内での競争も激しくなることから、
それを避けたいのだろうと考えられています。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』
川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)
どうして野生の鳥の性格がわかるの? との疑問はごもっともです。
じつは研究者が、シジュウカラたちの脚に
ピットタグ(受動無線周波標識)という小さいICタグの一種をつけたのです。
ICタグは、CDや本、衣類の盗難防止や食品の産地追跡などに使われるものです。
森のあちことに餌台を設け、そこにアンテナと記録装置を併設して、
タグをつけた鳥の動きを記録しました。
この調査で、シジュウカラの誰と誰が仲よしだとか、行動のクセだとか、
シジュウカラたちのプライバシーが浮き彫りなったのです。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』
川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)
[つぶやき]
最近はGPSや記録装置が小型高性能化してきたこともあって、
生物に小型ビデオやセンサーをつけて行動や生態を知る研究が盛んだよ。
バイオロギングっていうよ。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ』
川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)
マツダユカさんのイラストが楽しいですよ(^。^)
今朝の父の一枚です。
ジョウビタキ♂が「早く入れるようになればいいね」と呟いているのかな(^-^)
σ(^_^;も父と同じ場所を見たのですが、出会えませんでした。
父のように見つけようという粘りがないのです(^^ゞ
自立心が強く、なわばりを持っている
ジョウビタキは北海道では珍しいが、
日本ほぼすべてのエリアの人里で確認できる冬鳥。
特にオレンジ色のオスは、枝に止まっていても、
そのカラーリングで認識することができる。
単独行動をし、なわばり意識が強く、
他の鳥が入って来ると追い出そうと攻撃を仕掛けたり、
たまに車のミラーに写る自分の姿に喧嘩をしかけていたりする。
こんなに丸い体で、こんなに小さいのに。
弱い小鳥は群れるのが鉄則なのに、
たった一羽で立ち向かう姿が、何だかけなげに見えてくる。
ナンテン、ヤマウルシ、ムラサキシキブなどの実も食べるが、虫も大好物。
自然豊かな森の中というよりも、むしろ人里の方が多く見かけられるのは、
エサとなる虫や植物が人里の方が豊富だからかもしれない。
声はヒッヒ、という地鳴きの後に、
カタカタとシッポを振りながら鳴くのが特徴。
オスメスはまったく異なり、どちらも甲乙つけ難いほど、愛らしい姿だ。
(『子どもと一緒に覚えたい 野鳥の名前』
山崎宏監修 momobook 2018年)
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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m