目をつむって気持ちよさそうにしていました(^。^)
九鬼嘉隆についてもう少し知りたくて図書室で調べましたφ(..)
くきよしたか 九鬼嘉隆
1542―1600 安土桃山時代の武将。
志摩田代城城主九鬼定隆の次子。
織田信長に従い、一向一揆の平定には嘉隆の功によるものが多かった。
長島の願証寺は木曾川の河口の東西両岸および河中の島々を擁し、
一揆を率い、織田氏とは古くから対立していた。
信長は元亀(げんき)・天正の間(1570―91)この寺を後略しようとして敗れること二度、
一族武将以下たおれる者がすこぶる多かった。
1474(天正2)年子信忠とともに数万の大軍をもって囲み攻めた。
従来はもっぱら陸上からのみ攻めて失敗したが、
ここに嘉隆は海上から通交の海路を遮断して攻撃させた。
(『日本歴史大辞典 第4巻』日本歴史大辞典編集委員会 河出書房新社 昭和54年)
また摂津石山本願寺攻撃には、
海上から熊野の諸浦や雑賀・大坂などの一揆の海路による援助を断絶し、
1578(天正6)年毛利氏の大水軍が本願寺救助に押寄せた時、
信長の命をうけ嘉隆はこの軍船を率いて雑賀・淡輪(和泉の西南端)などにおいて
一揆の水軍を破って大坂湾頭に達し、
大挙して攻上ってきた数百隻の毛利の水軍と木津河口において合戦し、
一時苦戦したが、ついにこれを敗った。
こうして大坂本願寺はついに孤立し、1580(天正8)年開城のやむなきに至った。
これより嘉隆はますます信長に用いられた。
信長についで秀吉に属し、秀吉の四国・九州攻略に際し、
つねに水軍を率いて功をたてた。
朝鮮の役には、水軍の先鋒となり、しばしば功をたて五万五千石に封じられた。
のち家康にもつかえたが、人と争うことがあり、
徳川氏の判決を不満とし、家督を子守隆に譲って隠居した。
関ヶ原役には、守隆は家康の軍にあったが、
みずからは大坂方に応じて兵を鳥羽城に挙げた。
そして西軍敗亡するに及んで自刃した。
(長沼 賢海)
(『日本歴史大辞典 第4巻』日本歴史大辞典編集委員会 河出書房新社 昭和54年)
九鬼嘉隆(くき・よしたか)
天文11(1542)~慶長5.10.12(1600.11.17)
戦国・安土桃山時代の武将。
志摩田城(たしろ)城主九鬼定隆の子で、
甥澄隆のあとをうけて九鬼氏の家督を継いだ。
はじめ、右馬允を称し、伊勢国司北畠氏の配下にあったが、
織田信長の力が伊勢におよんできたころから信長に従い、志摩水軍を率いて、
信長の伊勢長島一向一揆攻めに戦功をあげている。
(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
以後、織田水軍の中心となって活躍するが、大坂の石山本願寺包囲戦では、
本願寺を支援する毛利水軍と戦って常に敗れ、ついに天正6(1578)年、
信長から鉄張り軍鑑の建造を命ぜられて伊勢大湊で6艘完成させ、
摂津木津川河口の戦で毛利水軍を撃破することに成功した。
この戦いによって、本願寺に兵糧が運びこまれなくなり、
信長勝利の大きな要因となった。
その後、鳥羽に城を築いて移り、伊勢・志摩のうちで3万5000石を与えられた。
信長死後は豊臣秀吉に従い、
天正13、4年ごろには従五位下・大隅守に叙任され、
同15年に九州攻め、同18年の小田原攻めでは、
ともに水軍の将として戦功をあげている。
文禄の役では、朝鮮に渡る豊臣軍の兵員輸送とその警固に功があった。
しかし李舜臣(いすんしん)の水軍と戦い、敗れている。
慶長2(1597)年、家督を子守隆に譲って隠居したが、
同5年の関ヶ原の戦では西軍石田三成方につき、
東軍に属して会津攻めに従軍し留守となった子守隆の居城鳥羽城を攻め、
これを奪いとっている。
西軍の敗北が決定的にな状況で、嘉隆は志摩の答志島内の和具に潜伏した。
守隆が己れの戦功に代えて父嘉隆の助命を家康に請い許されたが、
その報が届く直前に自刃。
(小和田哲男)
(『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社編 1994年)
九鬼嘉隆を主人公にした小説もでているので読みたいと思っています。
そして思い浮かべたのは和田竜さんの『村上海賊の娘』です。
文庫本四巻解説(山内譲)より一部転記しますφ(..)
○ ○ ○ ○
もうひとつの〝場〟としては、海戦の舞台となった木津川の河口が欠かせないが、
ここについては残念ながら当時の面影がほとんど残っていない。
作者自身が詳しく説明してくれているように(第二章)、当時の木津川河口には、
のちに寺島、勘助(かんすけ)島、
難波島などとよばれるようになる小さな島々が点在していて、
戦いはそれらの島々の沖合いで行われたと思われるが、
その海域は江戸時代以降の干拓によって陸地化し、
いまや大阪市南部の市街地となってしまっているからである。
そこで、合戦の現場は断念して、
そこを少し離れた場所から遠望してみるというのはどうだろうか。
その点でおすすめは淡路島である。
大阪湾の入口をふさぐように位置する
この大きな島の北端の岩屋(兵庫県淡路市)に毛利方の水軍は集結した。
明石海峡に面した松帆の浦の背後の山中に岩屋城があり、
そこを拠点にしたのだろう
(ちなみに淡路市には、ここから東南方2.5キロのところに
もうひとつ別の岩屋城もあったから間違えないように)。
その岩屋城跡から大阪方向を眺めてみたいところであるが、
城跡は現在遺構を残していないので、かわりに岩屋の海岸にたたずんでみる。
目の前には明石海峡が横たわり、東方には大阪湾が広がっている。
(『村上海賊の娘(四)』和田竜 新潮文庫 2016年)
明石海峡をまたぐ巨大な明石海峡大橋は戦国時代へのタイムスリップを妨げているが、
それでもこの海の広がりを見ていると、
毛利氏がここを船団の集結地とした理由がよくわかる。
本書では、児玉就英率いる毛利氏の直属水軍は島の西岸に船掛りし、
元吉率いる村上氏の船団は島の先端を回って東岸に船を着ける。
東岸に船を回すと、大阪湾の向こうにいる眞鍋氏など織田方水軍に
全容をさらすことになるが、元吉は、
一千艘(そう)の大軍の陣容を見せつけるのも戦術だと嘯(うそぶ)く。
岩屋の海岸から織田方水軍が集結していた木津川河口のあたりを遠望してみる。
現在では、昼間の明るい日ざしのもとではその位置を確認することはできないが、
夜のとばりが下りてくると、海の向こうからかすかに灯火が見えてくる。
この灯火の揺らめきを、かつて景が眺めた
織田水軍のかがり火と思いなすことはそれほど非歴史的ではあるまい。
元吉らの船団を能島で見送ったあと、毛利水軍が石山本願寺に
兵糧を入れる意志を持っていないことを知った景は、単身岩屋に駆けつける。
そして兄たちの反対を押し切って眞鍋七五三兵衛との「掛合」(交渉)に出かけるが、
これにも失敗し、岩屋城の一角から一人敵陣を眺める。
(…略…)
そして、景は一人船を漕ぎ出して、
雑賀党(さいかとう)の鈴木孫市(まごいち)がいる貝塚へ向かう。
淡路島の先端から大阪湾を望みながら、景の乗った小船や毛利方の大船団が
大阪方面に船出していくさまを想像するのはまことに楽しい。
ということで、今この長編を読み終えて興奮冷めやらぬ思いをしている読者には、
早速文庫本をかばんに詰めて、村上海賊を体験する旅に出ることをおすすめする。
(『村上海賊の娘(四)』和田竜 新潮文庫 2016年)