2018年11月5日月曜日

津波防災の日

今週は天気がぐずつくそうですが、今朝は晴れていました(^_^)b
今日は津波防災の日。
特集 津波防災の日」(内閣府)
稲むらの火が取り上げられていますが、東北でも津波の被害を何度か経験している。
昔の人の自然を敬い畏れる知恵に学ぶことが大切だと思います。
全国災害伝承情報」(総務省消防庁)
想定外などということばは自然を侮っていることの表明です。
津波の伝わる速さはスポーツカー以上
海底の隆起、沈降とともに 海面も上昇、下降して

 浅い大きな地震が海で起こると、
断層のずれによって海底が隆起、沈降することがあります。
このとき、海面も海底と同じように上昇、下降することによって津波が発生します。
 地震による海底の変形に伴って、海面が変動し、
あたかも池に石を投げ入れたときのように、波となって四方に広がっていくのです。
 また、火山活動でも、海底が変動したり、火山噴火物が多量に海に流入したりして、
津波が発生することがあります。
 1972年の長崎県島原の雲仙岳噴火では、東端の前山(現在の眉山)が大崩壊し、
大きな津波が有明海に発生して、
死者15000人以上という日本最大といわれる火山災害となっています。
この災害を「島原大変肥後迷惑」として伝承しています。
(『図解 地震のことがわかる本』饒村 曜 新星出版社 2000年)
 津波の伝わる速さは、水深が深くなるほど速くなり、
1000mでは時速100km、4000mでは時速200kmと、
外洋ではスポーツカー以上の速さになります。 
津波の高さは外洋では、大きな津波でも1m程度ですが、
海岸に近づき、水深が浅くなると、伝わる速さが遅くなり、
その分、波高は高くなります。
 また、リアス式海岸のように、湾の奥が狭くなっていると、
押し寄せた海水は集積して、何10mという高さで陸上を駆け上がることもあります。 
 震源地がきわめて近いときは、津波はすぐきます。
北海道南西沖地震のとき、奥尻島では、地震後5~10分で津波が押し寄せています。
海岸近くで強い地震を感じたときは、情報の入手などに努めるより、
まず、すぐに高いところに避難する必要があります。
(『図解 地震のことがわかる本』饒村 曜 新星出版社 2000年)

この本が出版されたのは2000年8月25日です。
阪神淡路大震災が1995年1月17日です。
饒村曜(にょうむら よう)さんは、当時、神戸海洋気象台予報課長。
後日、これよりも古い本から津波について転記したいと思います。
先日、訪ねた大徳寺について転記します。

南禅寺と大徳寺
 亀山天皇は禅宗に帰依し、正応(しょうおう)4年(1291)、
東山山麓の離宮を寺に改める。
南禅寺である。
天皇は、宗派の系統に関係なく、
力量・才知の僧を求めて住持に任ずる制を定めた(十方 じつぽう 住持制)。
以来、南禅寺は大覚寺統が統轄する寺として、14世紀初頭には七堂伽藍が完備する。
建武元年(1334)、後醍醐天皇は同寺と大徳寺を五山の第一位に定めた。
建武新政崩壊後は、室町将軍家が支配する官寺となり、
前述のように義満は五山のさらに上に昇格させたので、
かたちの上では禅宗界最高の地位を占めた。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 紫野の大徳寺は、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、
元応(げんおう)元年(1319)、小堂を建てたのが起源だという。
その後、花園(はなぞの)・後醍醐両天皇の手厚い保護により寺域を拡大。
正中(しょうちゅう)2年(1325)に公式に創建された。
元弘3年(1333)、後醍醐は、大徳寺は妙超門下のみが居住する一流相承の寺で、
他門の入寺を許さないと定めた。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 大徳寺は室町時代中期の永享(えいきょう)3年(1431)、五山から離れ、
在野の立場に立つ禅寺(林下 りんか)の道を選ぶ。
幕府によって五山第一の寺格を十刹の九位と大幅に下げられたおと、
官寺たることで十方往時制を強いられるのを嫌ったから、といわれている。
そして権力に密着して世俗化し、漢詩文や学問の世界に向かった五山の禅を厳しく批判。
宗峰の厳しく激しい禅を継承し、坐禅に徹して、禅宗界に独自の立場をうち立てた。
その代表が応仁の乱後住持になった一休宗純(そうじゅん)で、
反骨の大徳寺禅を堺の豪商にひろめ、
彼らの援助で灰燼(かいじん)に帰した方丈や仏殿兼法堂の再建をなしとげた。
宗峰の弟子関山慧玄(かんざんえげん)を開山とする右京区花園の妙心寺も、
五山の世俗的な繁栄をよそに、禅本来の姿を求める林下の禅の道をたどる。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 大徳寺境内を散策すると、いつもその広大さに圧倒される。
しかし、室町末期までは、現境内の東部
(本坊と真珠庵・竜源院などを中心にした区域)の範囲にとどまっていた。
それが、16世紀末から17世紀前期にかけて、
今宮門前(いまみやもんぜん)通を越えて西へどんどん塔頭を増やしてゆく。
大徳寺の地は、上賀茂社が支配する賀茂六郷の一つ大宮郷だが、
江戸時代には寺が郷内の村々の支配権を掌握するにいたった。
それが明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や、
大名を檀越(だんおつ)としていた塔頭の廃寺・統合が進んだことで、
寺内は西から幕末の半分以下に縮小する。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 現在の大徳寺は、各方向から境内に入ることができ開放的だが、
このような状態は明治以降のことで、それ以前は土塀や堀に囲まれ、
日常の出入りは東の惣門一カ所だけだった。
天竜寺・南禅寺・東福寺など他の巨大禅院も、
中世には同様に閉ざされた伽藍・塔頭・寮舎などからなる寺内と、
その門前・周辺に塔頭や在家集落・田畠、
背後に山林などを付属させる同心円状のまとまりをもっていた。
門前・周辺は寺が警察権や課税権をもつ独立した世界である。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
 その点は顕密(けんみつ)系の東寺や賀茂・祇園・北野などの大社でも同様である。
東寺の場合、伽藍の北方、針小路(はりのこうじ)以南・唐橋小路以北・櫛笥(くしげ)以西、
坊城以東の範囲を寺内とし、針小路に面して道路南側には在家が立ちならんでいた。
さらに東方の八条院町や洛中の散在所領を所有し、
八条・堀川・九条・大宮の各街路の巷所(こうしょ)から、地代を徴収していた。

・巷所は平安京の街路を、住民らが宅地や耕地に変えたものをいう。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)
瑞峯院(ずいほういん)で「東司(とうす)」を便所だと分ったのは、
『京都<千年の都>の歴史』を読んでいたおかげです(^_-)
何故、便所を東司というのか

東司(とうす)
<東浄(とうちん)>ともいう。禅宗七堂伽藍の一。
禅院における厠(かわや)・便所の呼称。
もとは東序(とうじょ 仏殿・法堂 はつとう 
正面に向かって東西の両側に並ぶ役職のうち、
東側に位置する六知事の位)の側に在るものをいい、
西序(せいじょ)の僧の厠を<西浄(せいちん)><西司>と称したが、
後には<東司>が厠の通名となり、西浄をも東司と呼称するようになった。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
また便所のことを雪隠(せっちん)ともいいますよね(^_-)

雪隠(せっちん)
 (かわや)・便所のこと。
一説に禅林の西序(せいじょ 仏殿や法堂 はつとう で左側に並ぶ役職者の位)の人の
使う厠の<西浄(せいちん)>の語が転訛(てんか)したものともいう。
また隠所(厠)を雪(すす)いで浄潔にする意とも、雪ぎ浄めて不浄を隠す意ともいう。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
スズメはほおの斑点が大きいほどモテる

(…略…)

 じつは、この黒い斑点は個体によって少しずつ大きさが違います。
そしてオスでは、からだに酸素を取りこむ能力が高いほど
斑点が大きいことがわかってきました。
つまり、体力があって健康なオスほど大きな黒斑をもつということです。
 一般に鳥は、メスがオスを選んでつがいになります。
もしかしたらメスはつがい相手を決めるときに、
より立派な斑点のオスを探しているのかもしれません。
とはいえ、その大きさの違いはわずかなもので、
人間の目にはなかなかわかりません。
それどころか、外見ではオス、メスすら区別がつきません。
彼らがとうやってお互いの性別を見分けているのか、
不思議でしょうがありません。
(『トリノトリビア 鳥類学者がこっそり教える 野鳥のひみつ
         川上和人 マツダユカ他 西東社 2018年)
今朝の父の一枚です(^-^)
鴨が増えたなと話していました。
渡り鳥がやってくる季節になると心配になるのが鳥インフルエンザですね。
昨夜のサイエンスZEROは、「鳥インフルエンザ 新たな脅威
(再放送:Eテレ11月10日(土)午前11時00分~ )
深刻な事態にならないように対策が必要です。
外国からの観光客を招くには防疫体制が重要です。
目先の利益ばかりを追っていると後手後手になります。

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m