2015年5月14日木曜日

清水五条から…

今日は,定期通院日で診察を受けた後,電車に乗り清水五条駅で下車
柿町通を歩き
大黒湯を左折すると…
こんな「ろーじ」があります(^u^)
古い町屋が並んでいます(^v^)
ここは店舗が並んでいるんですよ(*^O^*)/
でも,営業日は土日とかで今日は閉まっています…
京都町屋 あじき路地

  「西福寺」

 鴨さんのblog「愛情の飴 幽霊子育飴」の記事を参照してください。
 鴨さんのblog「美味しいお仕事は 貴匠桜さん」という記事を読んで訪ねました(^v^)
六道珍皇寺
松原通を歩くと二軒の「力餅食堂」があります(^u^)
(もう一軒の「力餅食堂」もいつか…)
昔ながらの中華そば♪
ユネスコ無形文化遺産登録」なんですよね!でも,中華そばは(・・?
東大路通を渡ると清水坂
東司」なんて読むかわかりますよね(^_-)
経書堂(きょうかくどう)で…
大きな石が鎮座されていたので撫でたのですが…
検索すると「重軽石」だった…
清水寺塔頭真福寺大日堂の大日如来さまは
右の説明を読んでいると

 大日如来坐像(古色仕上げ)
2011.3~
3月11日東日本大震災発生。
巨大津波により7万本以上あった高田松原は,奇跡の1本松のみを残し全てが流され,うち約700本が戻り着いた。
2011.8~
京都伝統工芸大学仏像彫刻専攻科の学生による大日如来坐像共同制作開始。
8月2日戻り着いた松を選定し製材。
9日京都伝統工芸大学校に到着。
18日から木寄せを始める。

「陸前高田市復興まちづくりイベント」に参加。
8月27日最初のノミ入れを被災地である陸前高田市で開催。
会場の高田小学校で1.500人を超える方々がノミ入れをされた。

清水寺に着きましたが,ここまでの参道のすごさ…平日だと思われない…
想像はしていましたが…
清水寺の本堂に向かわずに
地蔵院善光寺堂
16世紀中頃に描かれた清水寺古図「清水寺参詣まんだら」には,
この場所に六地蔵の石仏が安置され,小堂が建つ。
この小堂が地蔵院の前身と考えられる。
また奥の院の南庭に建つ美しい御堂は,長野善光寺の本尊を勧請した善光寺如来堂と思われる。
以来,観音信仰の盛行によって地蔵院に如意輪観音(鎌倉時代作)が祀られ,
洛陽観音第10番札所として洛中洛外の尊拝を博し,
堂正面に「洛陽第十番 如意輪観世音 地蔵院」の額を揚げている
(洛陽観音第11番は奥の院,第12番は本堂,第13番は朝倉堂,第14番は子安の塔である)。
明治中期の境内整理によって善光寺如来堂を合併し「善光寺堂」と称してきた。
如意輪観音坐像を中心に,向かって右側に善光寺阿弥陀仏三尊像,左側に地蔵菩薩立像を安置。
現在の堂は昭和59年(1984)の改築である。
なお堂右手前の「首ふり地蔵」は,願い事のある方向に首をまわして拝めば願いが叶えられるといわれ,
江戸時代以来,衆庶の深甚な信仰を伝統としている。
  音羽山 清水寺

かわいいお顔ですよね(*^_^*)
確か,後ろに控えておられるのが先代だと思います。
“片思いの方は祈願を…。「首ふり地蔵」(くびふりじぞう)”なんて
清水寺の境内案内にありましたよ(^u^)
意外と知られていないと思います。と言うのは
こんなに参拝者であふれているのに,順番待ちをあまりしなくてもいい(^u^)
鴨さんの「産寧坂からしだれ桜と金平糖」
坂本龍馬の定宿として有名な明保野亭
こんなところに…イノダコーヒー
女性店員さんにお聞きすると2000年頃に開店したとか
お屋敷だったとか…庭もすごいです…

天井も高くてゆったりしています
ケーキセットをいただきました(^v^)
周りを見ると「オトナのお子様ランチ 」の方が多かったですよ(*^_^*)
二年坂
竹久夢二寓居跡
明治,大正,昭和の三代にわたり,波乱の人生を送った不世出の詩人,画家,竹久夢二は,
大正三年秋頃笠井彦乃と出会い,運命的な恋におちた。
彦乃は,東京日本橋の紙問屋の一人娘であり,彼女を愛する父は,
後継者であった娘の恋に反対であった。
大正四年に結ばれた二人は互いに「山」,「河」と呼びあいつつ人目を忍ぶ逢瀬を重ね,
ついに大正五年京都に逃れた夢二を彦乃が追うようにして訪れ,
短かくも至福の日々をこの地で送ったのである。
夢二には,彦乃が訪れるまでの数ヶ月間をこの家ですごしている。

(文字が不鮮明で間違えて転記していると思います)

2人は、互いを「山(彦乃)」、「河(夢二)」と呼び合う秘密の暗号で手紙を交わしました
素敵な庭です
翠紅館(すいこうかん)跡
ここは幕末の頃,翠紅館と呼ばれていた屋敷があり,たびたび志士達の会合の場となっていた。
もとは正法寺というお寺の塔頭のひとつがあり,眺望が良く,会合などに利用されていたのを
鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り,その景観の素晴らしさから
「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で名付けたといわれる。
その後,鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
文久三年(1863)正月二十七日には,土佐藩の武市半平太(たけちはんべいた),
長州藩の井上聞多(もんた),久坂玄瑞(くさかげんずい)ら多数が集まり,
ついで同年六月十七日にも長州藩の桂小五郎,
久留米藩の真木保臣(まきやすおみ(和泉守))らが集まった。
この数年前から,攘夷運動は次第に高まり,反幕府の政治勢力となりつつあったが,
これら各藩の志士代表者会議で,攘夷の具体的な方法が検討され,世にこれを翠紅館会議という。
同年八月十三日には,孝明天皇の大和行幸の詔書(しょうしょ)が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし八月十八日に政変が起こり,その結果攘夷派は失脚,
代わって公武合体派が主導権を握り,幕末の政局は混迷の度を増していった。
 京都市

霊山護国神社
赤の←を目指すことに…(Kazeが画像に書き入れています(^_-)…)
ゆっくりゆっくり…
坂本龍馬 中岡慎太郎の最期
徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は,洛中においては
河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが,
遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。
坂本龍馬は,当時,最も幕府側から狙われていた志士で,
新撰組・見廻組らの追及が急となり,
藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
慶応三年(1867年)十一月十五日,午後六時ごろ中岡慎太郎が訪問。
この二,三時間後,会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い,
坂本龍馬は額を横に斬られ,二の太刀は右の肩から左背骨にかけ,
三の太刀で更に前額部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い,二日後の十七日の夕方に息を引き取った。
十八日,近江屋において葬儀が行われ,ここ霊山に埋葬された。
昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の影が立ち現われて
「微臣坂本にございます。このたびの海戦,皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本,皇国海軍を守護しておりますゆえご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
坂本龍馬。志士中の一級志士と云っても過言ではない。

墓所
右  中岡慎太郎
左  坂本龍馬
左奥 下僕 藤吉
  京都霊山護国神社

以前訪ねたときは,桂小五郎と幾松の墓も訪ねたのですが…
京都霊山護国神社 新しい時代の扉を開いた龍馬
下りていくと高齢のご夫婦が座っていて,
「龍馬の墓に行くのにどれだけかかりますか?」と聞かれたので
「私の足で5分ほどでした。
階段が急で,心臓が半分壊死しているのですが
今までは,あと少しだから頑張ろうと思っていたけど
今は,あと少しだから焦らないという気持ちで上がったらいけましたよ」とお答えしました。
ねねの道

このかわいい店に気を取られて
通り過ぎてしまった…おかしいと思って引き返しました(^^ゞ

紅茶の専門店「茶亭 よし本」
今度,寄ってみたいな(*^-^*)

京都を訪ねる時に鴨さんのブログを参考にしています!
(ブログはなくなりました…)
学生時代,京阪三条駅のパーラーでアルバイトをしていました。
お客さんの中で着物の着方を見ると着慣れている人と
たまに着る人とでは明らかに違いがあると思いました。
今回も大勢のゆかた姿や舞妓姿を見ましたが
この方とは着こなしや身のこなしを見ると明らかに違いがあります(^_-)
お土産を「土井志ば漬本舗」で買いました。
この「抹茶大根」を買おうとしたら小銭入れから…
店員さんが拾うて下さったうえ
小銭を手で拭いてくださった(*^_^*)
あっという間に自然にされた!
マニュアルにない対応で素敵だなと思いました。
イノダコーヒーの店員さんも素敵な笑顔でした。