2018年11月12日月曜日

朝は、暑かったくらいでした

今朝も歩いていると汗が出そうなほど暖かかったのですが
午後から曇り空になってぽつぽつと雨が降り出しました。
  曽禰好忠(そねのよしただ)
 この人は、曽根(そね)とも書かれます。
曽丹(そたん)ともほかの人からいわれました。
伝記がはっきりしないで、ほんのすこしのことしかわかっていません。
前に書いた源順(みなもとのしたごう)と歌の友だちであったのです。
伝記がはっきりしないのは、身分や官位がひくかったからでもありましょう。
丹後掾(たんごのじょう 京都府西部の地方官)という官位にあったのです。
そこから曽丹という、あだ名みたいなものが生まれたのです。
 この人は歌はじょうずでした。
しかし、よくあるように、生きているあいだは、あまり人びとからもてはやされず、
死んでから、時代があとになるほど、
しだいに人びとからじょうずだと認められだした人です。
歌人の数はたいへんなものですが、こういう人はほんとうにすくないものです。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
 この人の生きた時代は円融(えんゆう)・花山(かぜん)両天皇の時代(969―986年)で、
藤原道長のでる時代のすこし前で、世の中は治(おさ)まっていたといっても、
藤原氏の勢力争いのはげしいときでした。
それもあって、家柄のない好忠などは、あまりたいせつにされなかったのでした。 
それが好忠の性格を変えもしたし、
またおもしろい歌をつくらしたのかもしれないのです。
好忠については、ずっとのちまで、
いろいろな書物に書かれて語り伝えられた話があります。
そのひとつを書いてみましょう。
 寛和(かんわ)元年(985年)2月13日のことでした。
円融院(えんゆういん)が<子(ね)の日の宴(えん)>をもよおされました。
子の日には<小松(こまつ)引き>という、
野にでて小松を取る行事が昔からおこなわれていました。
そのあとで歌人たちの宴会がおこなわれました。
この日の宴には『後撰集(ごせんしゅう)』の撰者(せんじゃ)であった
大中臣能宣(おおなかおみのよしのぶ)なども招かれていました。
当時の名高い歌人たちが席につきますと、その席の末(すえ)のほうに、
いやしい姿をしたひとりの男が座についているのを役人が見つけました。
 よくよく見ますと、それは好忠でした。
役人は好忠のところにやってきて、<お前は院のお召しがあったのか>とたずねます。
好忠は怒った顔つきで、<そうです>と答えたのですが、いろいろしらべてみると、
だれもお召しのあったことを知っている者がないのです。
<お召しもないのになぜやってきた>という役人の質問に、
好忠は
<歌詠みどもをお召しになったと聞きましたので、
 私は歌詠みだから参上しました。
 このお集まりになった歌詠みたちに、
 どうして私がおとっているなんてことがありましょうか>
と答えましたので、とうとうその席にいた大臣たちの命令で
引きずりだされてしまったという話なのです。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
 これは話の筋ですが、これにいろいろとくっつけておもしろおかしく書かれてもいます。
どこまでほんとうのことか、ほんとうにお召しのないのに出かけたのかどうか、
いろいろ考えてみるとわからないところがありますが、
好忠の自信と、当時の人が好忠について持った考え方をしめしていると思います。
家柄もない身分のひくい好忠は、当時の殿上人(てんじょうびと)などから、
なまじ歌がじょうずであるだけに、いやしめられもしたのでしょう。
それとともに、変わり者であった好忠はいっそう変わり者にもなったのでしょう。
また変わり者ではあったが、気持ちの純粋なこの人は、
その心に感じるままに、歌をつくって自分をなぐさめたのでしょう。
その歌が美しい歌となって、のちになって、
人びとからみとめられだしたのではないかと思われるのです。
 好忠もしかし、この時代の人ですから、やはり順(したごう)のように、
『古今集』に見るような歌もたくさんつくっています。
しかし、いっぽうに、のちに人びとからほめられるようになったものを、つくっているのです。
その歌はひと口でいいますと、そのころの歌人たちが、
歌には使わなかったことばを大胆につかっていることです。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
  鳴(な)けやなけよもぎがそまのきりぎりす暮れゆく秋はげにぞ悲しき

(鳴きなさい鳴きなさい、よもぎのしげるなかにいるこおろぎよ。
 ほんとうにもう終わりに近い秋のこのごろは悲しいことであるよ。
 だから心ゆくまで鳴きなさい。)

 きりぎりすは、今日(こんにち)のこおろぎのことです。
寒さを身に感じる秋の終わりごろ、悲しいこまかいすきとおった声で鳴くこおろぎ、
それとおなじような自分の気持ち、なにか泣きたくなるような自分の心、
それを一ぴきのこおろぎによせる同情のようなものでうたっています。
 これは『古今集』の歌のように、どこかすましこんだものではなく、
心に感じたままをうたっているのです。
しかしこの時代の歌のつくり方からみますと、<鳴けやなけ>というあらわし方も、
はげしく強いし、また<よもぎがそま>ということは、いい方として変なのです。
それは、そまというのは<杣(そま)>という字をあてて、
木の植えてあるところをいうのです。
好忠はよもぎのしげっているところをいっているのです。
よもぎは、お餅などにまぜる草です。
それを杣などというのはおかしいのです。
ですから好忠は当時の人からそのことで、
<あれは気違いものだ>などといわれたのでした。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
 そんないい方をしたのも、きっと好忠にはなにかの考えがあったのでしょう。
しかし、それがいっぽうには好忠の歌を、
生きいきと感じさせるもとにもなったのです。
 そういう好忠ですから、当時の貴族の人たちとちがった
彼の生活のにじんだ歌をよんでいます。

  ねやの上にすずめの声ぞすだくなるいでたち方(かた)に子やなりぬらむ

(寝室の屋根ですずめの声がひどくするが、
 もう子が飛び立てるころになったのだろう。)

 今日(こんにち)の私たちの毎日にもあることでしょう。
屋根に巣をつくったすずめの卵(たまご)がかえり、子すずめがちいちいと鳴く。
毎日毎日、そだっていくらしい。
ある朝、その声が元気に強くなった。
朝の明るさが窓にさす。
ふと目ざめた耳に、なんと力づよいすずめたちの声か。
そんな生活のなかのものを好忠は歌にしたのです。
貫之たちの歌とちがったひとつの世界です。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
そんな歌をいくつかあげてみます。

  ははこ摘(つ)むやよひの月になりぬれば開(ひら)けぬらしなわが宿の桃

(ははこ草をつむ三月になったので、もう開いたらしい、うちの庭の桃の花は。)

 ははこは、母子草(ははこぐさ)のことで春の七草のひとつ、<ごぎょう>という草です。
それを野に出てつんだのです。
好忠はいなか住まいの歌をいくつかつくっていますが、
ここらにも平安朝の貴族の人たちとちがった生活をもっていたのです。

  なつかしく手には折(お)らねど山しづの垣根(かきね)のうばら花咲きにけり

(なつかしい花と思います。手にはとってみませんが、
 山ではたらく人のまずしい垣根に咲くばらが、花をつけだしました。)

 この<うばら>は今日の野ばらでありましょう。
つるをのばして垣にまつわりつき、枝に白い花を咲かせるその野ばらの、
誇りもなくつつましく、まずしい人の家に咲くのを、
好忠はわが身のことなど考えて、<なつかしく>といったのでしょう。

  御園生(みそのう)のなづなの茎(くき)も立ちにけり
    けさの朝菜(あさな)になにをつままし

(庭にはえたなずなも、もうとうが立ってきたので食べられないが、
 けさの食事のお菜(さい)にはなにをつんだらよいかな。)

<なずな>は今日一般にぺんぺん草といわれるもので、これも春の七草のひとつで、
まだふとい茎が立たないうちはよいかおりの食べ物です。
それをつんで朝食のお菜(さい)として好忠は、春を楽しんだのでしょう。
その生活がこんな歌をつくらしたので、
こんな点も当時の都で暮らす大宮人(おおみやびと)とはちょっとちがいます。
ここに好忠の生きいきとしたものがあります。
この時代の人は<題詠(だいえい)>といって、
題をだして歌をつくることが多かったのですが、好忠の歌には、
ほんとうに自分でかんじたままにつくられたものを多く見いだします。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
  わが守るなかての稲(いね)ものぎは落ちてむらむら穂先出(ほさきい)でにけらしも

 この歌も、じっさいの生活のなかから出たのではないかと思われます。
<なかての稲>は早生(わせ)と奥手(おくて)の中間のみのる稲である、
大宮人たちがどれほどこんなことに関心をもっていたか、知ることはできませんが、
勅撰集の歌の世界ではありません。

  三島江(みしまえ)に角(つの)ぐみ渡る芦(あし)の根ひと夜(よ)ばかりに春めきにけり

<角ぐみ>というのは、芽の出ることです。

  うちかすたづきも見えぬ春の野に声を知れとやうぐひすの鳴く

<たづきも見えぬ>とは、道もどう行ってよいかわからぬ。

  野中(のなか)には行きかふ人も見えぬまでなべて夏草しげりあひけり

<なべて>はすべて。

  なが日(び)すらながめて夏をすぐすかな吹きくる風に身をまかせつつ

<ながめ>は今のことばでぼんやりとか、なにか心にとりとめもなく考えて、
というほどに解(かい)してよいでしょう。
夏の暑い日を、ときどきくるすずしい風に身をまかせて、
夏の暑さをこらえてすごしているという、そのままの気持ちをよんだものです。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
  人はこず風に木の葉はさそはれぬよなよな虫は声変はりゆく  

 秋のふかくなるにつれて、木の葉は吹く風に散らされて、
夜ごと鳴く虫の声もよわってゆくということをいって、
そこにさびしく暮らしている気持ちをつぶやいているのです。
 好忠の歌を、前の紀貫之の歌とくらべてください。
それは、自分の心に感じたままをうたおうとしています。
貫之たち殿上人(てんじょうびと)たちの歌とちがったものがあります。
歌合(うたあわせ)や社交やそういうものをはなれて、
自分だけのためにうたうような姿があります。
そんなことが、好忠の歌を、もっとのちの時代の人がみとめたのではないでしょうか。
それはまたあとで書きます。
(『和歌・歌人物語』窪田敏夫 ポプラ社 1966年)
今朝の父の一枚です。
同じ道を通っているのにジョウビタキ♂を見つけることができませんでした(^^ゞ
父は、野鳥に会いたいと真剣に探しているのに
σ(^_^;、すぐに真剣味が足りないのでしょうね…

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m