2018年11月22日木曜日

雪ではなく小雨でした…

朝、雨が降り続いていました。
今日は「小雪(しょうせつ)」で初雪が舞い始める頃だそうです。
雪こそ降らなかったけど寒かったです…
佐伯祐正について転記します。

(コラム)光徳寺境内の小さな仏華……③
大阪の誇り――兄・佐伯祐正、弟・佐伯祐三 栄照寺 木村慶司

 「大阪の誇り」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。
各人様々な誇りがあるだろうが、ここでは佐伯祐正・祐三兄弟を取り上げたい。
 現在、大阪市立美術館で「佐伯祐三展」が開催されている。
佐伯祐三は大阪が生んだ天才画家としてあまりに有名であり、
今なお熱狂的なファンが多い。
彼は主にパリの街角を描いた作品で有名であるが、
「佐伯祐三展」では学生時代の自画像から、
晩年のパリでの作品まで網羅されていて、佐伯祐三の世界が堪能できる。
しかし彼が実は大阪の寺の生まれであることは、
一部のファン以外の人にはあまり知られていない。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
 佐伯祐三は1898年(明治31)、現在の大阪市北区中津、
浄土真宗本願寺派の房崎山光徳寺の次男として生まれた。
大阪府立北野中学校(現北野高校)時代から油絵を描き始め、
中学卒業後に東京に出て、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。
卒業後の1923年(大正12)に渡仏し、主にパリを拠点として作品を制作する。
その後一旦は帰国するが、すぐにパリに戻り制作に没頭する。
しかし、残念ながら1928年(昭和3)に30歳の若さでその生涯を終えることになる。
祐三の生涯や作品については各方面で詳しく述べられているので、
これ以上は触れないが、彼の独特の構図と力強い画風は人々を惹きつける。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
 祐正は1896年(明治29)生まれ。
平安中学校(現龍谷大学付属平安高校)を経て現在の龍谷大学に学んだ。
在学中の1920年(大正9)に父の死去により光徳寺を継承。
翌年自坊にセツルメント施設「光徳寺善隣館」を解説した。
この施設こそが彼が理想としていた寺院の実践形態である。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
 彼は現実の仏教が非社会的で、寺院も閉鎖的で、
人々の直面する苦悩に対し慰めようとしかしないことを批判し、
それに立ち向かう勇気を持たせる、現実的、社会的な仏教を求めた。
また、寺院は住職の私有物ではなく、公有的存在であると考え、
寺院に門信徒のみならず地域住民の施設としての役割を持たせ、
地域に貢献しようとした。
彼は住民の生活レベルを向上させることを目的とし、
その具体的な方法を物質的救与によらず、
人格的交流つまり人と人とのふれあいを基調とすることで対応し、
その改善に着手させる自覚的・教育的運動を展開しようとした。
そしてこれはセツルメントの中心思想であると受け止めた。
セツルメント事業と寺院は多くの共通点があり、
寺院建立の趣旨に従って活動すれば、それが自ずとセツルメント活動となり、
理想的な寺院となると考えたのである。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
 では「光徳寺善隣館」ではどんな活動が行われていたのだろう。
当初は少女のための夜間裁縫塾、子どもたちのための日曜学校、図書室、
そして幼稚園やその母たちに母親教育も行った。
その後都会生活者のために、豊中の刀根山にカントリーハウス(刀根山山荘)を建設、
また蔵書五千冊の図書館、日本初のお寺カフェ、さらに母子寮を開いた。
これらの活動は次第に宗教部、教育部、会館部、助成部として整えられた。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
宗教部では、説教・講演・助葬・冠婚葬祭等。
教育部は、図書館・読書クラブ・幼稚部・母の会・裁縫部・蛍雪クラブ(学童保育)・栄養給食等。
会館部は、セツラー室(住み込みボランティア)・貸し会議部屋・カントリーハウス等。
助成部は、方面委員・託児・授産・法律相談等。
年間利用者数は約10万人に上り、また法務係を設置し、係が檀信徒の家庭を訪問し、
その生活状況の把握と諸問題の発見を行い、効果的な活動につなげるように努めた。
一般の寺院では、このうちの一部を担っているだけであるが、
祐正は彼の理想とした寺院の実現に向かって突き進んだのである。
しかし、1945年(昭和20)6月1日大阪大空襲で光徳寺善隣館は全焼。
彼もこの時に重症を負い、同年9月に49歳で往生された。
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
 それぞれの道を追求し、志半ばで逝ってしまった佐伯祐正・祐三兄弟。
しかし、祐三が描いた作品は今でも人々に刺激と感動を与え、
祐正の理想とした寺院のあり方は現在でも私たちに多くのことを教示してくれる。
私はこの佐伯祐正・祐三兄弟と同じ大阪で生まれ育ち、
浄土真宗本願寺派僧侶として活動していることを誇りに思う。 (2008年10月)
(『光徳寺善隣館と佐伯祐正』
  渡辺佑子・河﨑洋充編 光徳寺善隣館 2014年)
佐伯祐正は、1922(大正11)年に、大学を卒業してます。
佐伯の在学中は「佛教大学」という名称の専門学校でしたが、
卒業した年に大学令により「龍谷大学」となっています。
龍谷大学の歴史」(龍谷大学HP)

佐伯祐三の世界」(大阪新美術館建設準備室)
イヌガラシ(アブラナ科)
越年草または1年草。畑や田のまわり、空き地、道ばたなどに生育する。
●秋に発芽したものはロゼットで越冬するが、
春以後に発芽したものは短いロゼット期間を経て成長する。
根生葉は先が鈍くとがり、荒い鋸歯(きょし)があり途中から柄にかけて羽状に深裂する。
茎は下部から数本の枝を分け、直立または斜上する。
●花期4~6月。ときには秋。茎の先に総状花序を出し、黄色い十字花をつける。
果実は円柱状でやや曲がり長さ10~20mm。
(『校庭の雑草(三版)』岩瀬徹他 全国農村教育協会 平成10年)
冬十
唐錦(からにしき)山の木(こ)の葉を縒(よ)り裁(た)ちて
     幣(ぬさ)をば風ぞ四方(よも)に手向(たむ)くる

【通釈】  冬歌十首
唐錦のような色鮮やかな山の木の葉を(糸に)縒り(布を)裁断して、
できた幣を、風があちらこちらの神々に供えている。

語釈
唐錦 舶来の錦。紅葉を喩える。
縒り裁ちて 「よりたつ」を「縒り裁つ」とみる。「唐錦」の縁語。
  和歌にはまず用いられない。
四方 あちらこちら。いたるところ。
手向く 「手向く」は、神仏に供え物を献じること。
(『好忠百首全釈 歌合・定数歌全釈叢書二十
       筑紫平安文学会 風間書房 2018年)

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    >佐伯祐正・祐三兄弟を取り上げたい。
    取り上げてくださって、佐伯祐正さんのことを知ることができました。
    佐伯祐三の展覧会へは、何度か行ったことがあります。
    大阪生まれとのこともあり、好きな画家です。

    光徳寺善隣館が戦災で全焼とは、残念です。
    理想的な寺院だったのですね。
    佐伯祐正さんが、早世されたこともとても残念に思います。


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    1. カイさんこんばんは(*^O^*)/
      Kazeも佐伯祐三が大好きで、展覧会があれば見に行くのを楽しみにしています(^-^)
      でも、先日の中津方面を歩くまで佐伯祐正についてほとんど知りませんでした。
      また、大阪歴史博物館でも佐伯祐正についての展示があり調べたくなりました。
      (特別展は12月3日(月)までです)
      もし、空襲で亡くなられなかったらと残念で仕方がないです。
      でも、家族のみなさんが遺志を受け継いでおられます。

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申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m