今日で11月も終わりですね…
明日から師走…
発病前、山を歩いていたときに参考にしていた本から伊勢について転記します。
4 記紀の神々 伊勢・出雲
天照大神の聖巡行
文政13年(1830)の3月から8月にかけて、
このわずか半年足らずのあいだに伊勢へ向かった参宮者は
五百万人にのぼったと伝えられている。
江戸時代末期、人口およそ三千万人と推定されている当時、
この五百万人という参宮者の数は、
社会的大事件ともいうべき異常な風潮を想像させる。
そして伊勢を目指したのは、四国をはじめ近畿一円、
山陽道から中部・東海・北陸・江戸におよぶ遠方からであり、
しかもその過半は徒歩による参宮となれば、
日本の街道の多くは伊勢神宮の参道と化したとも思えるほどだ。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
世に「おかげ参り」と呼ばれた熱狂的な群参は、
すでにその100年以上も前の宝永2年(1705)からはじまっていた。
遠方から伊勢へ向かう道中、沿道に住む人々による食と宿の施行(せぎょう)を受けて、
路銀なしで参宮できることを、伊勢の神の「おかげ」としたことからはじまった
「おかげ参り」は、一方では「抜け参り」とも呼ばれている。
徳川幕府の封建的秩序が、官学の朱子学にさだめられた幕藩体制下にあって、
息苦しい日々の秩序を脱したいと願っていた多くの民衆、
とりわけ普段、参宮の機会などに恵まれない奉公人が雇い主に無断で、
しかも道中手形なしで伊勢へ向かい、
あるいは主婦が子を背負い、乳飲み子を抱いたまま伊勢へ向かったという。
この、旧秩序を身近なところから
一気に破っていったさまざまの行動の多くが黙認されたのである。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
「おかげでさ、抜けたとさ」と囃し、踊り歩いた群衆はときに女装し男装までして、
三味線をひき太鼓を打ち鳴らす者も珍しくなかった。
旧秩序では考えられないこうした狂乱行動が、
道中の役人の黙認するところまでエスカレートしたのは、
噴出する民衆の不満の捌(は)け口として公が譲歩したとも、
その不満が上下におよんでいたからとも考えられる。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
室町時代にはじまる伊勢信仰・伊勢参宮を勧める伊勢御師(おんし)による
意図的な神異の宣伝が、江戸時代にいたって日本各地であったとしても、
この伊勢参宮という、民衆を大量に動かした巨大な吸引力はなんであったのだろうか。
それはあたかも陰が陽に引かれるような、
陽が陰に向かうような激しさと必然性をもっていた。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
伊勢という地名を聞いて、いま誰もが思い浮かべることは伊勢神宮であり、
天照大神(あまてらすおおみかみ)であり、皇室の祖神というイメージではないだろうか。
むろん、こうした根強いイメージは、1868年の明治維新を機に、
時の政府がとった神道国教化政策による影響も大きな要因となっている。
しかし伊勢神宮=天照大神=皇室の祖神という、多くの日本人が描く連想が、
明治以降のわずか130年余のあいだに培われたとは思えない。
むしろこの、日本人が抱く共同幻想ともいうべき観念は、
史上いわれるところの「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を制定した
天武天皇の時代前後から意識的に打ち出されたと思われる。
いわば日本の王朝が常に持とうとした、
神国・大和という世界観によるところが大きいのではないだろうか。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
『記・紀』に記録される王朝の変遷や神々との関わりについては、
ひとたび「そこに編纂者のどんな意図が」という問いを立てたとき、
導き出される弥生時代末期から『書紀』の時代をつらぬく古代史上には、
おそらく幾通りもの史劇が生まれるはずだ。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
そしてむろん、それは朝鮮半島・中国といった
東アジア世界との連動の中で盛衰がくり返される。
つまり日本について従来いわれてきた「独自の文化」「独自の歴史」あるいは
「大和民族」というような表現が堅持してきた「独自」とは、
実は歴史はじまって以来の多様性の中で揺れ動きながら成り立ってきたもので、
この「多様性」をどんな視点でとらえてゆけるのかが、
実は大変な問題になるのだろうと思う。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
伊勢をもし俯瞰的にたどるならば、
まず紀伊半島の東端に位置するというところからはじまる。
そして天照大神という神は、この紀伊半島の東端に7世紀頃に
鎮もり祀られたらしいというところからはじまらなくてはならない。
(『日本の聖地』久保田展弘 講談社学術文庫 2004年)
この続きは後日、転記します。