訪ねたのが紫式部(左)と小野篁(右)の墓です。
道案内は「源氏物語ゆかりの地を訪れて」(芸術劇場ブログ)
などのサイトを参考にして下さい。
源氏物語ゆかりの地
雲林院(うんりんいん)
淳和(じゅんな)天皇の離宮であった紫野院(むらさきのいん)は、
常康(つねやす)親王(仁明(みんみょう)天皇皇子)の時に雲林院と称し、
親王から託された僧正遍昭(へんじょう)が9世紀終りに仏寺に改めた(天台宗)。
堂塔の造営や造仏が相つぎ桜の名所ともなった。
賀茂祭の還立(かえりだち)を見物するために
朝早くから雲林院のあたりに物見車が立ち並ぶ描写が『枕草子』見える。
雲林院での菩提講(ぼだいこう)は有名で『大鏡(おおかがみ)』の語りの場ともなった、
14世紀初めの大徳寺の創始により敷地の多くは施入、子院となり、
応仁・文明の乱で焼失し、現在の雲林院(臨済宗)は、
江戸期の宝永4年(1707)に寺名を踏襲(とうしゅう)して大徳寺の塔頭として建てられたものである。
『源氏物語』「賢木(さかき)」に光源氏が、
逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、
伯父に当たる桐壺更衣(きりつぼのこうい)の
兄律師(あにりつし)のいる雲林院に籠(こも)る話がある。
2000年に行われた雲林院跡東域の発掘調査で、
初めて平安時代の園地や建物跡、井戸跡などが発見された。
・雲林院跡からは直径1.5m前後もある大きな土杭をもつ掘立柱建物跡が見つかっている。
平成20年3月 京都市
雲林院(うんりんいん)
淳和(じゅんな)天皇の離宮であった紫野院(むらさきのいん)は、
常康(つねやす)親王(仁明(みんみょう)天皇皇子)の時に雲林院と称し、
親王から託された僧正遍昭(へんじょう)が9世紀終りに仏寺に改めた(天台宗)。
堂塔の造営や造仏が相つぎ桜の名所ともなった。
賀茂祭の還立(かえりだち)を見物するために
朝早くから雲林院のあたりに物見車が立ち並ぶ描写が『枕草子』見える。
雲林院での菩提講(ぼだいこう)は有名で『大鏡(おおかがみ)』の語りの場ともなった、
14世紀初めの大徳寺の創始により敷地の多くは施入、子院となり、
応仁・文明の乱で焼失し、現在の雲林院(臨済宗)は、
江戸期の宝永4年(1707)に寺名を踏襲(とうしゅう)して大徳寺の塔頭として建てられたものである。
『源氏物語』「賢木(さかき)」に光源氏が、
逢ってくれない藤壺の態度が辛くて出家しようと、
伯父に当たる桐壺更衣(きりつぼのこうい)の
兄律師(あにりつし)のいる雲林院に籠(こも)る話がある。
2000年に行われた雲林院跡東域の発掘調査で、
初めて平安時代の園地や建物跡、井戸跡などが発見された。
・雲林院跡からは直径1.5m前後もある大きな土杭をもつ掘立柱建物跡が見つかっている。
平成20年3月 京都市
雲林院推定範囲と紫式部の墓(赤↓)
勅使門の後ろに見えるのが三門(金毛閣)です。
金毛閣は利休賜死(しし)の原因の一つと言われている、利休木造が安置された場所。
金毛閣は利休賜死(しし)の原因の一つと言われている、利休木造が安置された場所。
「晩年の利休」(表千家不審菴)には江岑宗左の覚書が紹介されています。
平康頼(たいらのやすより)之塔
瑞峯院(ずいほういん)
瑞峯院の沿革
当院は、室町時代の九州豊前豊後の領主でキリシタン大名として有名な大友宗麟公が、
大徳寺開山大燈国師から法経第九十一世徹岫宗九禅師に帰依し、
禅師を開祖として創建された寺です。
大友義鎮公と申しておりましたが、22歳の折に得度を受け、宗麟と名を改め、
瑞峯院殿瑞峯宗麟居士を以って、寺号を瑞峯院となっております。
又徹岫禅師は、後奈良天皇の御帰崇を蒙り普応大満国師の称号を賜り、
上杉謙信公の青年時代、景虎公に禅の指導をし、宗心居士の名を与えております。
瑞峯院の沿革
当院は、室町時代の九州豊前豊後の領主でキリシタン大名として有名な大友宗麟公が、
大徳寺開山大燈国師から法経第九十一世徹岫宗九禅師に帰依し、
禅師を開祖として創建された寺です。
大友義鎮公と申しておりましたが、22歳の折に得度を受け、宗麟と名を改め、
瑞峯院殿瑞峯宗麟居士を以って、寺号を瑞峯院となっております。
又徹岫禅師は、後奈良天皇の御帰崇を蒙り普応大満国師の称号を賜り、
上杉謙信公の青年時代、景虎公に禅の指導をし、宗心居士の名を与えております。
キリシタン灯籠(織部灯籠)
閑眠庭
〝閑眠高臥して青山に対す〟の禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいます。
開基大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護したり、
宣教師フランシスコ・ザビエルについて、洗礼を受けたりして、
キリシタン大名として知られていることから、
中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組からなり、
縦に四個、横に三個の石の流れが十字架に組まれ、万民の霊を弔っております。
いずれも、これらの庭園は作庭界の権威重森三玲氏によって造られました。
方丈前にの厳しい独坐庭、茶席、この静かな方丈裏の閑眠庭へと、
大自然の境地に溶けこんで、日頃の忙しさを忘れ、
本来のおだやかな自分にかえりたいものです。
〝閑眠高臥して青山に対す〟の禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいます。
開基大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護したり、
宣教師フランシスコ・ザビエルについて、洗礼を受けたりして、
キリシタン大名として知られていることから、
中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組からなり、
縦に四個、横に三個の石の流れが十字架に組まれ、万民の霊を弔っております。
いずれも、これらの庭園は作庭界の権威重森三玲氏によって造られました。
方丈前にの厳しい独坐庭、茶席、この静かな方丈裏の閑眠庭へと、
大自然の境地に溶けこんで、日頃の忙しさを忘れ、
本来のおだやかな自分にかえりたいものです。
独坐庭
寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。
中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱された禅語から銘じられ、独坐庭と言います。
この枯山水は、峨々たる蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒波に、
打ちよせもまれながらも雄々と独坐している、大自然の活動を現わしております。
茶席の前の方は入り海となり、静かな風景を現わしております。
寺号、瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園です。
中国の禅僧百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱された禅語から銘じられ、独坐庭と言います。
この枯山水は、峨々たる蓬莱山の山岳から半島になり、大海に絶え間なく荒波に、
打ちよせもまれながらも雄々と独坐している、大自然の活動を現わしております。
茶席の前の方は入り海となり、静かな風景を現わしております。
観光客の方が熱心にメモされていました。
平成待庵
利休居士が唯一残した、二畳の席、待庵が国寶として現存。
居士四百年忌に因んで、有士が集まってそのまま復元して建立され、
当院に寄贈されたものです。
この隣に「東司(とうす)」と書かれた部屋があるのですが、何の部屋か分りますか(^_-)
受付の方に聞くと、分らない観光客が多いそうです。
「クイズみたいですね」というと笑っておられました。
利休居士が唯一残した、二畳の席、待庵が国寶として現存。
居士四百年忌に因んで、有士が集まってそのまま復元して建立され、
当院に寄贈されたものです。
この隣に「東司(とうす)」と書かれた部屋があるのですが、何の部屋か分りますか(^_-)
受付の方に聞くと、分らない観光客が多いそうです。
「クイズみたいですね」というと笑っておられました。
大徳寺のイブキ
大徳寺の現在の仏殿は寛文5年(1665)に再建されたものであるが、
このイブキも、そのころに植栽されたものと思われる。
イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、
日本では本州(宮城県以南)・四国・九州に分布する。
イブキビャクシン又は単にビャクシンと呼ばれることもある。
一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である。
昭和58年6月1日京都市指定天然記念物に指定された。
京都市
大徳寺の現在の仏殿は寛文5年(1665)に再建されたものであるが、
このイブキも、そのころに植栽されたものと思われる。
イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、
日本では本州(宮城県以南)・四国・九州に分布する。
イブキビャクシン又は単にビャクシンと呼ばれることもある。
一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である。
昭和58年6月1日京都市指定天然記念物に指定された。
京都市
仏殿
三玄院(さんげんいん)非公開
天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、
春屋宗園(しゅんおくそうえん 大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行し、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
織部好みの三畳台目八窓の茶室篁庵(こうあん 江戸時代建築)があり、
本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による。
京都市
天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、
春屋宗園(しゅんおくそうえん 大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。
小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗旦らも修行し、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。
織部好みの三畳台目八窓の茶室篁庵(こうあん 江戸時代建築)があり、
本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による。
京都市
大徳寺の特別公開で見たいなと思っていた塔頭に
総見院のワビスケ
総見院は、天正11年(1583)に豊臣秀吉が
織田信長の菩提を弔うために建立した寺である。
総見院のワビスケは、秀吉が千利休から
譲り受けて植えたものが大きくなったと伝えられている。
ワビスケは、花が小さく早春から咲き、
茶花としてもよく用いられる園芸品種であるが、
この木はこの品種の現存する最も古い個体であり、貴重である。
昭和58年6月1日京都指定天然記念物に指定された。
京都市
説明してくださった方によると樹齢400年以上だそうです。
(手前より)
信好(信長十男)
信髙(信長七男)
秀勝(信長四男)
信忠(信長嫡男)
信長公 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士(男の子が立っている位置)
信雄(信長二男)
秀雄(信雄嫡男)
信長公380年忌が行われた昭和36年、
本堂に祀られる信長公木像が本坊から総見院に戻られた時に使用されたものです。
廃仏毀釈によって多くの寺宝が破壊され略奪されたのですが、
木造織田信長公坐像は本坊に移されることで
難を逃れることができたそうです。
茶筅(ちゃせん)塚
お茶を点てるときに用いる茶筅の供養塔。
花立ては茶筅の形、お線香立ては抹茶茶碗の形をしている。
総見院のワビスケ
総見院は、天正11年(1583)に豊臣秀吉が
織田信長の菩提を弔うために建立した寺である。
総見院のワビスケは、秀吉が千利休から
譲り受けて植えたものが大きくなったと伝えられている。
ワビスケは、花が小さく早春から咲き、
茶花としてもよく用いられる園芸品種であるが、
この木はこの品種の現存する最も古い個体であり、貴重である。
昭和58年6月1日京都指定天然記念物に指定された。
京都市
説明してくださった方によると樹齢400年以上だそうです。
「信長公 御息女 徳姫様」
信長公一族墓碑ご案内(手前より)
信好(信長十男)
信髙(信長七男)
秀勝(信長四男)
信忠(信長嫡男)
信長公 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士(男の子が立っている位置)
信雄(信長二男)
秀雄(信雄嫡男)
正室 帰蝶(濃姫)
側室 お鍋の方
輿(こし)信長公380年忌が行われた昭和36年、
本堂に祀られる信長公木像が本坊から総見院に戻られた時に使用されたものです。
輿(赤↑)
明治の廃仏毀釈により総見院も破壊を免れることはできなかったそうです。廃仏毀釈によって多くの寺宝が破壊され略奪されたのですが、
木造織田信長公坐像は本坊に移されることで
難を逃れることができたそうです。
茶筅(ちゃせん)塚
お茶を点てるときに用いる茶筅の供養塔。
花立ては茶筅の形、お線香立ては抹茶茶碗の形をしている。
σ(^_^;とライトを照らしてくれたスタッフの方が小さく写っている(^^ )
掘り抜き井戸
井筒は、加藤清正が文禄慶長の役の際に船の重りとして
日本へ持ち帰った朝鮮石と伝わる。
今なおこんとんと湧き出る水は、毎朝のお供えに使用されている。
正門・土塀
いずれも天正11年、秀吉公が創建した当時そのままの姿で現存する。
土塀は「親子塀」といわれるもので、堀は厚みがあり、
内部に空洞をもつ、二重構造になっている。
高桐院(こうとういん)は来年3月31日まで拝観休止です(T.T)
高桐院
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な
細川忠興(三斎)が、父幽斎(ゆうさい)の弟・玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を
開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲 しちてつ)の一人に数えられる名手で、
書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。
書院に続く茶室「松向軒(しょうこうけん)」は三斎好みの二畳台目(だいめ)で、
三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。
書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特色である。
寺宝として、中国の南宗時代の画家李唐(りとう)の山水画二幅が有名で、
現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛される。
境内には三斎と夫人ガラシャのほか、
歌舞伎の創始者とされる出雲阿国(いずものおくに)らの墓がある。
三斎の墓標の石灯篭は、利休が秀吉の望を断って三斎に贈ったものと伝えられている。
京都市
炭火であぶっているのが
あぶり餅
東門前に向かい合って昔ながらのあぶり餅の
「一和」「かざりや」という二軒の茶店がある。
指先でちぎった餅片を竹串の先に刺し炭火であぶって味噌で食べる。
竹串はそそげたままの粗竹だが、昔神前に供えた斎竹を用いた。
また、当初は当社の名物餅として「味噌田楽」と同様の仕立てであったが、
祭礼公役の「田楽」と同じ名目となるので「田楽」の名称が制禁されて
「あぶり餅」と称されるようになったといわれている。
(『今宮神社由緒略記』今宮神社社務所 平成24年改訂)
右「かざりや」、左「一和」
脇道から入ったので「かざりや」のあぶり餅をいただきました。
美味しかったですよ♪
次に来る時は、一和さんのあぶり餅を食べたいな(^_-)
お店の人に今宮神社のあとに行きたい場所についてたずねると丁寧に教えてくれました。
宗像社 鯰の台石
元禄7年(1694)桂昌院(お玉の方)の造営時の社殿である。
元禄建築の特徴と異なる部分を残しており創建当時の古い様式を伝えている。
宗像三女神は古来より「道」の神として知られ
志を持つ人を教え導いた神であり「美」を司る神としても伝えられている。
また別名「弁天さん」とも呼ばれ社殿の台石の北側面に
弁天さんの使者として鯰の彫り物がある。
夕食を食べていると、妹が「揺れている」というのでテレビをつけると
「和歌山県で震度4」
お玉の井
元禄7年(1694)桂昌院(お玉の方)の寄進によるもの
手水盤は京都西町奉行小出淡路守守里が寄進している
建築当初は水盤の位置は東向きであったが
後世に北向きに変えられている
長く水が途絶えていたが近年これを元に修した
今宮神社 本殿(右)、摂社殿(疫神社)
今宮の奇石
此の「阿呆賢(あほかし)さん」は古くから「神占石」とも云われ、
病弱な者はこの石に心を込めて、
病気平癒を祈り、軽く手の平で石を撫で身体の悪きところを摩れば、
健康の回復を早める。
又「重軽石」とも云はれ、先づ軽く手の平で三度石を打ち、
持ちあげるに、たいそう重く成り、
再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げる。
軽く成れば願い成就すると言い伝へられて居ります。
神主誌す
桂昌院(お玉の方)
桂昌院(けいしょういん)は、寛永5年(1628)、西陣で八百屋の次女に生まれ、
名を玉(たま)といった。
その後公家二条家に出入りの本庄宗利(むねとし)の娘となり、
関白家の鷹司孝子(たかつかさ たかこ)に仕えたが、
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、
春日の局に認められて家光の側室となり、
後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、
晩年には従一位に叙せられ、世に畏敬されつつ、
至福のうちに、宝永2年(1705)79才で没した。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、
とりわけ西陣の産土(うぶすな)の神の坐す今宮社が、
当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)から、
時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。
そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、
「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、
また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、
大いに復興に努めたので、祭は往時を凌(しの)ぐほどの盛況を取り戻した。
更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、
毎年今宮祭を祭行したと伝えられている(文京区音羽町に現存)。
こうした桂昌院の業績は、没後300余年を経た今日でも、
神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子(うぶこ)が多い。
また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍ら、
所謂「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、
その生涯を偲慕する人々も少なくない。
平成20年4月 宮司 佐々木 従久
(「桂昌院レリーフ」より)
牛若丸産湯井・胞衣塚
牛若丸はこの地で平治元年(1159年)生誕いたしました。
産湯井・胞衣塚と彫られた石碑には応永2年(1395年、室町末期)と年号が銘記され、
京都で一番古い石碑と思います。
今は畑ですが、明治の頃まで牛若丸産湯大弁財天女社の小宮で、
開運のご利益と崇められていました。
この地は、山城国(城州)愛宕郡大宮郷洛北紫竹上野村で
郡名は鷹峰に愛宕さんの鎮座と山が近いものですから、
瀧や谷水のせせらぎの音の二説がありますが、いづれも定かではありません。
大宮郷は十ヵ村に別れ、江戸時代正保年間(370年前)380戸1600人で
郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景の寒村でした。
今その区域の人口は約3.5万人でこの間の発展は目を見張るばかりです。
さらにこの地は洛北七野と呼ばれ来たから萩野(萩の自生)、
紫竹上野(紫竹の竹の自生)、紫野(若菜の自生)の順、
三つの野は禁野(しめの)として天皇や朝廷の狩猟、若菜摘みの場であったことから、
千年の昔より近年まで多くの山荘が営まれました。
左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの上野街道(丹波道、氷室道)で
周山街道開通まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、
若狭と結ばれた往来の多い洛北の主要道でした。
若狭から鯖が京の都から物資や文化の交流の多い歴史街道です。
旧暦6月15日には御所へ納める氷室の氷が
馬の背により運ばれたことは良く知られています。
上野の里は、大災や疫病鎮めの京の三奇祭の一つ、
やすらいまつり(今宮神社)を平安時代から今日まで伝承されています
(4月第2日曜日)。
付近の光念寺には常盤御前が安産を祈願したとされる常盤腹帯地蔵も祀られています。
平成26年11月
○○ 新三郎
(名前を公開していいのか分らないので○○としました)
昔は井戸があったそうです。
この二つの石碑の場所を「かざりや」さんの方から聞いていたのですが
案内の表示がなくて困っていました。
「北山通りが見えたら行き過ぎていますよ」の言葉を思い出して引き返したら
見つけることができました(^_^)b
源義経産湯井遺趾の近くにバス停(紫野上野町)があり、
「46系統 四条河原町・平安神宮 行き」に乗りました。
四条河原町でバスを降りて学生時代によく飲みにいった路地に入りました(^^ )
「牛タンのハンバーグと温野菜」
井筒は、加藤清正が文禄慶長の役の際に船の重りとして
日本へ持ち帰った朝鮮石と伝わる。
今なおこんとんと湧き出る水は、毎朝のお供えに使用されている。
正門・土塀
いずれも天正11年、秀吉公が創建した当時そのままの姿で現存する。
土塀は「親子塀」といわれるもので、堀は厚みがあり、
内部に空洞をもつ、二重構造になっている。
高桐院(こうとういん)は来年3月31日まで拝観休止です(T.T)
高桐院
大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、江戸時代初期の武将で茶人としても有名な
細川忠興(三斎)が、父幽斎(ゆうさい)の弟・玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を
開祖として建立した細川家の菩提寺である。
三斎は、千利休の七人の高弟(利休七哲 しちてつ)の一人に数えられる名手で、
書院は利休の邸宅を移築したものといわれる。
書院に続く茶室「松向軒(しょうこうけん)」は三斎好みの二畳台目(だいめ)で、
三畳の水屋が付き、壁や天井にも趣向が凝らされている。
書院の庭は江戸初期の作庭で、また、本堂の前庭は楓の樹を巧みに配しているのが特色である。
寺宝として、中国の南宗時代の画家李唐(りとう)の山水画二幅が有名で、
現存する墨絵山水画の圧巻と賞賛される。
境内には三斎と夫人ガラシャのほか、
歌舞伎の創始者とされる出雲阿国(いずものおくに)らの墓がある。
三斎の墓標の石灯篭は、利休が秀吉の望を断って三斎に贈ったものと伝えられている。
京都市
炭火であぶっているのが
あぶり餅
東門前に向かい合って昔ながらのあぶり餅の
「一和」「かざりや」という二軒の茶店がある。
指先でちぎった餅片を竹串の先に刺し炭火であぶって味噌で食べる。
竹串はそそげたままの粗竹だが、昔神前に供えた斎竹を用いた。
また、当初は当社の名物餅として「味噌田楽」と同様の仕立てであったが、
祭礼公役の「田楽」と同じ名目となるので「田楽」の名称が制禁されて
「あぶり餅」と称されるようになったといわれている。
(『今宮神社由緒略記』今宮神社社務所 平成24年改訂)
右「かざりや」、左「一和」
脇道から入ったので「かざりや」のあぶり餅をいただきました。
美味しかったですよ♪
次に来る時は、一和さんのあぶり餅を食べたいな(^_-)
お店の人に今宮神社のあとに行きたい場所についてたずねると丁寧に教えてくれました。
宗像社 鯰の台石
元禄7年(1694)桂昌院(お玉の方)の造営時の社殿である。
元禄建築の特徴と異なる部分を残しており創建当時の古い様式を伝えている。
宗像三女神は古来より「道」の神として知られ
志を持つ人を教え導いた神であり「美」を司る神としても伝えられている。
また別名「弁天さん」とも呼ばれ社殿の台石の北側面に
弁天さんの使者として鯰の彫り物がある。
夕食を食べていると、妹が「揺れている」というのでテレビをつけると
「和歌山県で震度4」
お玉の井
元禄7年(1694)桂昌院(お玉の方)の寄進によるもの
手水盤は京都西町奉行小出淡路守守里が寄進している
建築当初は水盤の位置は東向きであったが
後世に北向きに変えられている
長く水が途絶えていたが近年これを元に修した
今宮神社 本殿(右)、摂社殿(疫神社)
今宮の奇石
此の「阿呆賢(あほかし)さん」は古くから「神占石」とも云われ、
病弱な者はこの石に心を込めて、
病気平癒を祈り、軽く手の平で石を撫で身体の悪きところを摩れば、
健康の回復を早める。
又「重軽石」とも云はれ、先づ軽く手の平で三度石を打ち、
持ちあげるに、たいそう重く成り、
再度願い事を込めて三度手の平で撫でて持ち上げる。
軽く成れば願い成就すると言い伝へられて居ります。
神主誌す
桂昌院(お玉の方)
桂昌院(けいしょういん)は、寛永5年(1628)、西陣で八百屋の次女に生まれ、
名を玉(たま)といった。
その後公家二条家に出入りの本庄宗利(むねとし)の娘となり、
関白家の鷹司孝子(たかつかさ たかこ)に仕えたが、
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、
春日の局に認められて家光の側室となり、
後に五代将軍となる綱吉を生んでその生母となり、
晩年には従一位に叙せられ、世に畏敬されつつ、
至福のうちに、宝永2年(1705)79才で没した。
桂昌院は、終生神仏を敬うこと深く、報恩感謝の心厚かったが、
とりわけ西陣の産土(うぶすな)の神の坐す今宮社が、
当時荒れているのを嘆き、元禄7年(1694)から、
時の奉行に命じて、社殿を造営・神領を寄進。
そのため神域は面目を一新したという。
また祭礼も、途絶えていた「やすらい祭」を復活させ、
「今宮祭」には、御牛車・鉾などを寄進、
また御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、
大いに復興に努めたので、祭は往時を凌(しの)ぐほどの盛況を取り戻した。
更に元禄12年(1699)には、江戸護国寺の地に今宮の神を分祀して今宮神社とし、
毎年今宮祭を祭行したと伝えられている(文京区音羽町に現存)。
こうした桂昌院の業績は、没後300余年を経た今日でも、
神社中興の祖として、その遺徳を讃える産子(うぶこ)が多い。
また、一面、一介の市井人から、身を起こし乍ら、
所謂「玉の輿」を昇りつめた類まれな女性として、
その生涯を偲慕する人々も少なくない。
平成20年4月 宮司 佐々木 従久
(「桂昌院レリーフ」より)
牛若丸誕生井 胞衣(えな)塚
由緒牛若丸産湯井・胞衣塚
牛若丸はこの地で平治元年(1159年)生誕いたしました。
産湯井・胞衣塚と彫られた石碑には応永2年(1395年、室町末期)と年号が銘記され、
京都で一番古い石碑と思います。
今は畑ですが、明治の頃まで牛若丸産湯大弁財天女社の小宮で、
開運のご利益と崇められていました。
この地は、山城国(城州)愛宕郡大宮郷洛北紫竹上野村で
郡名は鷹峰に愛宕さんの鎮座と山が近いものですから、
瀧や谷水のせせらぎの音の二説がありますが、いづれも定かではありません。
大宮郷は十ヵ村に別れ、江戸時代正保年間(370年前)380戸1600人で
郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景の寒村でした。
今その区域の人口は約3.5万人でこの間の発展は目を見張るばかりです。
さらにこの地は洛北七野と呼ばれ来たから萩野(萩の自生)、
紫竹上野(紫竹の竹の自生)、紫野(若菜の自生)の順、
三つの野は禁野(しめの)として天皇や朝廷の狩猟、若菜摘みの場であったことから、
千年の昔より近年まで多くの山荘が営まれました。
左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの上野街道(丹波道、氷室道)で
周山街道開通まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、
若狭と結ばれた往来の多い洛北の主要道でした。
若狭から鯖が京の都から物資や文化の交流の多い歴史街道です。
旧暦6月15日には御所へ納める氷室の氷が
馬の背により運ばれたことは良く知られています。
上野の里は、大災や疫病鎮めの京の三奇祭の一つ、
やすらいまつり(今宮神社)を平安時代から今日まで伝承されています
(4月第2日曜日)。
付近の光念寺には常盤御前が安産を祈願したとされる常盤腹帯地蔵も祀られています。
平成26年11月
○○ 新三郎
(名前を公開していいのか分らないので○○としました)
源義経産湯井遺趾
昔は井戸があったそうです。
この二つの石碑の場所を「かざりや」さんの方から聞いていたのですが
案内の表示がなくて困っていました。
「北山通りが見えたら行き過ぎていますよ」の言葉を思い出して引き返したら
見つけることができました(^_^)b
源義経産湯井遺趾の近くにバス停(紫野上野町)があり、
「46系統 四条河原町・平安神宮 行き」に乗りました。
四条河原町でバスを降りて学生時代によく飲みにいった路地に入りました(^^ )
「牛タンのハンバーグと温野菜」
このお店は前から入ってみたいなと思っていました。
スタッフの方の対応が気持ちよく美味しくいただきました。
お客さんは、カップルや女性客でおっちゃんはσ(^_^;ひとりでした。
今回の町歩きで参考にしていたのは
『京のキリシタン史跡を巡る』(杉野榮著 嶋崎賢児写真 2007年)
ちらっと見える柳の木にこんな札が
この柳は、
平成29年の秋の台風で倒れてしまった柳の木を、
皆さんからいただいた
八兵衛明神のお賽銭で、
新に植え替えられました。
お昼をいただいた店は、「御二九と八さい はちべー」
なんと読むか(^_-)
赤い鳥居が見えるのが八兵衛明神で、さらにその隣が「静」です(^_-)
(2014年1月12日の記事)
スタッフの方の対応が気持ちよく美味しくいただきました。
お客さんは、カップルや女性客でおっちゃんはσ(^_^;ひとりでした。
今回の町歩きで参考にしていたのは
『京のキリシタン史跡を巡る』(杉野榮著 嶋崎賢児写真 2007年)
ちらっと見える柳の木にこんな札が
この柳は、
平成29年の秋の台風で倒れてしまった柳の木を、
皆さんからいただいた
八兵衛明神のお賽銭で、
新に植え替えられました。
お昼をいただいた店は、「御二九と八さい はちべー」
なんと読むか(^_-)
赤い鳥居が見えるのが八兵衛明神で、さらにその隣が「静」です(^_-)
(2014年1月12日の記事)