2018年11月28日水曜日

鳥羽水族館~鳥羽城跡(28日)

朝食を食べ終わって薬を飲もうとしたら
なんと昨夜、朝の薬を飲んでいた(゜o゜;)
朝食後(5錠+1カプセル)、夕食後(2錠)を袋に小分けしている。
時々間違えそうになることはあった。
でも飲もうとしたときに気がついていたのに…
ホテルのチェックアウトをすませて
賢島駅から向かったのは
鳥羽です(^-^)
三重県警には警備艇が装備されているんだ(°0°)
目的地に着く前に説明板がありました。

大手水門跡
鳥羽城の玄関(大手門)は、
いかにも日本一の水軍大将【九鬼嘉隆(くきよしたか)】の
居城らしく海に向って設けられていました。
延寶8年(1680)の「志摩城の結構(仮称)」には「追手濱手門」と記され、
大きさは2間半×4間で番所も兼ねていたことがわかります。
これより西(岩崎側)へ18間の所に通用門にあたる波戸口門があり、
その間には追手迎倉がありました。
 鳥羽市
鳥羽水族館にやってきました。
古代の海」コーナーでオウムガイ

伊勢志摩の海・日本の海」コーナーでは
ウツボがイセエビに圧倒されているような(^▽^)
ジャングルワールド」コーナーではカピバラがのんびりと食事中でした。
人魚の海」のコーナーで
ジュゴンは舌をしまい忘れているのかな(^^ )
名前:セレナ
性別:メス
入館日:1987年4月15日(入館時推定1才)
全長:260cm
体重:379kg
食べ物:海草(アマモなど)・ロメインレタス
    ~1日30kgほど食べます~
性格は…飼育係が大好きで甘えん坊
チャームポイントは…ちいさな目
昼食はレストラン「花さんご」で海鮮パスタをいただきました(^_^)b
食事の後、三人と別行動
説明板を見て気になっていた鳥羽城跡を訪ねました。
鳥羽城廓古図」(国立国会図書館デジタルコレクション)
城山公園 四等三角点
 ここに設置されている標石(ひょうせき)は「三角点」といい、
地球上の位置(緯度、経度、高さ)が高い精度で求められています。
三角点はすべての測量の基準となっているとても大切なもので、
地図づくりを始め、まちづくりにはなくてはならないものです。
また、地震予知にも重要な役割を果たしています。
汚したり、動かしたりしないように注意して下さい。
北緯  34度28分 45.389秒
東経 136度50分 47.328秒
標高  23.74m
   鳥羽市
   建設省国土地理院
段々畑ではありません(^_-)
本丸石垣について
本丸周辺には、建物は残っていませんが、
野面積みの石垣が残存し、当時の姿を留めています。
角石が団子のように積んでありますが、関ヶ原の戦い以前の石垣で、
九鬼嘉隆が城主の時代に築かれた石垣の可能性があります。
また、折れ曲がりの奥の部分は、手前の石垣より新しく、
角に少し長い石を交互に積んでいることから
「算木積」と呼ばれる手法が用いられています。
石垣の石材は、カンラン岩と千枚岩を使用しており、これらの石材は、
周辺の海岸部で採取されたものと考えられます。
石垣には排水のための水抜き坑もあります。
本丸跡からみた鳥羽湾
本丸からは鳥羽湾が一望できます。
奥にみえる島が答志島で、嘉隆の首塚と胴塚があります。
鳥羽城の天守跡
延宝8年に作成された鳥羽城の財産目録には、
城内の建物について非常に詳しく書かれています。
天守については、
「一 天守三重 内壱重、五間に六間」
とあり、3層であったことがわかります。
また、鳥羽城の天守は、屋根の構造から
「望楼型(ぼうろうがた)」と呼ばれる古い形式の天守であったと推定されており、
九鬼氏が城主の時代に天守は建設されていたと考えられます。
鳥羽城 本丸跡(三重県史跡)
 この場所は鳥羽城の本丸跡で、天守や本丸御殿が建っていました。
延宝9(1681)年の記録によると、天守は3層で、
大きさは5間×6間、高さは10間5尺、
天守の下には土蔵があったと記されています。
本丸御殿は、275坪であったとされています。
 明治時代に建物は取り壊しとなり、
現在は往時を偲ぶ建物は残っていませんが、
周囲には野面積みの石垣の一部が今も残っています。
この場所は平成21年まで旧鳥羽小学校の運動場として活用されていました。
 城の築城時期については、九鬼嘉隆が文禄3(1594)年に
竣工したとされていますが、詳しいことは不明でした。
そのため、平成23(2011)年に初めて発掘調査が行われ、
運動場跡の下から築城主である九鬼氏の時代とみられる16世紀末頃の
石垣や雨落ち溝、土蔵や本丸御殿の一部と考えられる遺構が確認されました。
現在は平坦となっていますが、天守台のあった場所が最も高く、
本丸内でも高低差があったことも判明しました。
 明治初期の開発によって城の海側の斜面は削平を受けており、
急斜面となっていますが本来の城は
現在の鳥羽水族館のところまで拡がっていました。
ここからは、嘉隆が自害した答志島をはじめ鳥羽湾が展望でき、
九鬼水軍の城にふさわしい「海城」の面影を偲ぶことができます。
   鳥羽市教育委員会
大井戸跡(雄井戸)
こちらは旧鳥羽小学校の土俵跡かな(^▽^)
本丸南の石垣
この場所にも石垣が残存しています。
四角い空洞になっているのは水抜き穴です。
旧鳥羽小学校校舎
 この校舎は昭和4年、清水栄二の設計で建築された
三重県下最古のコンクリート建築物で、
平成20年12月22日の閉校まで80年間に
1万2千人の卒業生を送り出してきました。
 工費は当時の25万7349円で、西本組が行い、
御木本幸吉や広野藤右衛門などの寄附も受け完成しました。
 昭和初期のモダン建築として数少ない建築物として
価値が認められ平成21年1月15日、
国の登録有形文化財に指定されました。
  鳥羽市教育委員会
鳥羽城跡と鳥羽市立鳥羽小学校
 鳥羽は、中世には「泊(とまり)」もしくは「泊場(とまりば)」と呼ばれ、
志摩地域の海上交通の重要な地点でした。
 鳥羽小学校は、1873(明治6年)に創立され、
その後1929年(昭和4年)に現在の校舎が建設されました。
当時では県下でも珍しい鉄筋コンクリート造りの小学校として話題となりました。
校舎の後ろの運動場周辺には鳥羽城の建物が建っていた場所であり、
この辺一帯は鳥羽城跡として史跡に指定されています。
鳥羽城は、戦国末期に九鬼水軍の将と言われた九鬼嘉隆(くきよしたか)により
海に向って建てられ「鳥羽の浮城(うきしろ)」と呼ばれ、
また、魚類を保護するために、海側が黒色、山側が白色となっていたので
「錦(二色)城」とも伝えられ、
鳥羽小学校の校歌にも「波静かなる錦浦」と歌われています。
  昭和40年12月9日
  三重県指定(史跡)
  鳥羽市教育委員会
  鳥羽市立鳥羽小学校
鎬隅の石垣
鈍角に石垣が折れ曲がったところは鎬隅(しのぎすみ)と呼ばれ、
地形を削って築城する古い時期の特徴とされています。
木札に書かれていたのは「牢屋跡場所」
電車の待ち時間に売店で
磯揚げの「海鮮かき揚げ天」を買って食べました(^_^)b
帰りの電車は伊勢志摩ライナーです。
サロンカーに乗るは初めてです(°0°)
家に帰り着くと雨が降り出しました。
今回も母が天気にしてくれました(^。^)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    伊勢方面へ旅行されたのですね。
    お天気に恵まれて、皆さんと、ご一緒の旅は楽しさ倍増です。
    なにより旅は、お天気元気ですよね。

    >旧鳥羽小学校校舎
    昭和四年に、すでに鉄筋コンクリートの校舎。
    そのころには、もうミキモト真珠があったんですね。

    鳥羽城址や鳥羽水族館、見どころがいっぱい。
    カピパラ君の表情に、こちらまでのんびり気分に。(^-^;
    ニッコリさせてもらえました。



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    1. カイさんこんばんは(*^O^*)/
      >なにより旅は、お天気元気ですよね。
      本当に天気に恵まれましたというか恵まれすぎました(^^ )
      伊勢神宮にお参りしたときは妹が日傘を持ってこなかったことを後悔するほどの天気でしたし、
      最終日、家に帰り着いてから雨が降り出しました。
      家族で今回も母が天気にしてくれたねと感謝しています。

      >そのころには、もうミキモト真珠があったんですね。
      ミキモトのHPを見ていると歴史がありますよね
      https://www.mikimoto.com/jp/history/index.html

      良心的な企業は社会貢献もしていますよ!
      のんびり食事をしているカピバラを見ていると
      早食いをせずにじっくり味わって食事をしないといけないなと思いました(^^ゞ
      鳥羽城のことは予備知識がなかったのですが
      鳥羽水族館への道で鳥羽城跡が見えたので三人と分かれて訪ねました。
      旅はこういう出会いがあるから面白いですよね(^_^)b

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