2018年11月13日火曜日

曇り空でした


昨日までの雨が止んでくれてリハビリ散歩に出かけることができました。

特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」は、興味深かったです。
その中でも佐伯祐三の兄について知らなかったのですが、
前日に光徳寺(現光徳寺善隣館中津学園)を訪ねていたので
佐伯祐正についてもっと知りたくなりました。
祐正の活動について解説図録より転記します。
画像は、転載しませんので展示会場でご覧ください。
会期は12月3日(月)までです(火曜が休館日)。
老婆(爺)心ですがいつも失敗したなと思うのは
各階の展示(常設展示)が興味深いのでついつい見てしまい
特別展示室にたどり着く頃には疲れてしまっています(^_^;)
特別展のみの見学もできます(大人900円)

佐伯祐正(ゆうしょう)と佐伯祐三
 画家佐伯祐三(1898~1928)と兄佐伯祐正(1896~1945)は、
中津町(現北区)にある光德寺に生まれた。
大正9年(1920)の父の急死により住職を継いだ祐正は
、「社会的仏教」の実現を目指し、
翌年には隣保施設である善隣館(現社会福祉法人光徳寺善隣館中津学園)を自坊に創設した。
彼の活動はすぐに地元で認められ、方面委員に任命された。
ここでは、祐正の活動を「兄弟愛」という視点から振り返りたい。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                   大阪歴史博物館 平成30年)
佐伯祐三渡欧前の記念写真
 昭和2年(1927) 三重県立美術館蔵
 祐正の説得を受けて一時帰国した祐三は、昭和2年に再びパリへ旅立った。
この写真は出発前に光徳寺で撮影されたもの。
後列左から三人目が祐正、前列左端が祐三。
祐三はサンダル履き。
ずぼらな性格のため、北野中学時代は「ずぼ」と呼ばれた。
この再渡欧に際し、祐正はハルビンまで同行。
祐三はその約1年後にパリで死去した。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
中津町方面委員騒擾(そうじょう)ニ関スル件
  大正11年(1922) 大阪府公文書館蔵
 大正11年6月、中津町(現北区)の方面委員になったばかりの祐正は、
月番委員会に参加した。
祐正は、大阪府職員の席を一段高所に設定するという
この会の席順を「官僚的」として痛烈に批判した。
祐正は、辞任した光延義民の後任として中津町方面の常務委員に
推薦されていたにもかかわらず、この行動により結局なれなかった。
『方面委員一件書類』収録。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                   大阪歴史博物館 平成30年)
光徳寺善隣館要覧
   昭和14年(1939)  大阪府立中央図書館蔵
 大正10年(1921)の開館以来、善隣館は、
寺院の解放・非私有化という理想の実現をめざして、事業を拡大し、
この要覧発行当時には利用者は年間約10万人にものぼった。
その事業は、檀家に対する宗教教育などを行う宗教部、
図書館・幼稚部・裁縫部などの教育部、
生活困窮者の救済を行う助成部などからなっていた。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
光徳寺善隣館事業報告書
  昭和15年(1940) 大阪府立中央図書館
 善隣館は、婦人会・体操会など女性を対象とする会員事業や無料診療、
さらには「山の家」(キャンプ)など、様々な事業を行っていた。
その一つとして、館長である祐正による方面委員活動があった。
祐正は昭和14年度には6世帯の救護を委員として担当しており、
善隣館の事業を活用しながら、救済活動を行っていた。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
大阪府中津方面事業概況
  昭和16年(1941)  大阪市民生委員児童委員協議会蔵
 中津方面の委員報告の一つとして、祐正の活動が掲載されている。
祐正は、孤児となった三人の兄弟を善隣館を活用して救済した。
新聞配達をしていた長男を善隣館の給仕に雇い、二人の弟は託児部で保護、
三人に助成部から10円を給与した。
祐正は、長男の希望を容れ、
今後は「兄弟三人離さぬ様」に保護する方針であると報告した。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
市部常務会報告綴
  昭和17年(1942) 個人蔵(お二人の個人名が書かれているので転記しません)
 祐正の孤児救済活動は、
翌年の市部常務会(市部方面の常務委員のみの会合)でも報告された。
祐正は、無戸籍の孤児の末弟が国民学校入学年齢となったのを機に、
産婆(光徳寺檀家)の協力を得て、戸籍手続きをし、救護法による居宅扶助を申請した。
孤児の長男は就職したが、次弟は秋祭りの夜に淀川で溺死した。
この日は灯火管制中であった。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
十一月方面常務委員会議事速記録
  昭和17年(1942)  個人蔵
 祐正の孤児救済活動が報告された市部常務会の速記録。
これによって祐正を含めた中津方面による活動が詳細に判明する。
当初祐正は、孤児の長男と弟二人の別居を提案したが、
どうしても同居したい長男の希望を支持する隣組の意見を受け入れ、
彼らの境遇に同情し、世話を申し出た長男の家主宅に三人を同居させたという。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)
佐伯祐三「ノートルダム(マント=ラ=ジョリ)」
  大正14年(1925) 油彩、カンヴァス 80.5×54.5cm
  大阪市新美術館建設準備室蔵
  (大阪府立北野高等学校六稜同窓会寄贈)
 大正14年、世界セツルメント大会に参加するため渡仏した祐正は、
病弱な祐三に帰国を促すよう母から託されていた。
再会した兄弟は、パリ近郊のマント=ラ=ジョリを旅行。
本作はこの時に描かれたもの。
祐三は帰国した際、北野中学校(現大阪府立北野高校)の恩師に
本作を贈ったとされ、長く同校で保管された。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示解説図録』
                    大阪歴史博物館 平成30年)

ノートルダム(マント=ラ=ジョリ)
「ノートルダム(マント=ラ=ジョリ)」の裏面に「立てる自画像

方面委員は現在、民生委員と呼ばれています。
民生委員制度発祥の地 大阪府」(大阪府民生委員児童委員協議連合会)

0 件のコメント:

コメントを投稿

申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m