大阪マラソンのボランティアの皆さんでした。
高校の同級生(女性)もフルマラソンに参加!
先程、同級会のLineに完走した勇姿を送ってきましたp(^-^)q
三光神社(さんこうじんじゃ)
JR玉造駅から西に200mほど進み、玉造交差点を南に曲がると、
すぐの所に真田山(さなだやま)丘陵がある。
鳥居のある石段をのぼると三光神社である。
反正(はんぜい)天皇の時代の創建と伝えられ、
天照大神・月読命(つくよみのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)をまつり、
全国で唯一の「中風除(ちゅうふよけ)」の神として広く知られている。
境内石段横には、真田の抜け穴といわれる石室状の横穴が残されており、
その前に、陣中姿の真田幸村(ゆきむら)の銅像が建てられている。
当社は、大坂城の出城(でじろ 真田出丸 でまる)があった所といわれ、
1614(慶長19)年の大坂冬の陣の際、幸村がこの地に
偃月城(えんげつじょう)と名づけられた塁をつくり、
大坂城中からここまで、地下に抜け穴を掘らせたと伝えられている。
(『大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊野・三島』
大阪府の歴史散歩編集委員会編 山川出版 2007年)
真田山陸軍墓地
本墓地は、1869年(明治2年)から1870年にかけて我国陸軍の中枢機関が
次々と大阪に創設されたことに伴って、
1871年(明治4年)に日本で最初に設置された陸軍墓地で、
現在の面積は約15.090平方メートルあります。
このような陸軍墓地は戦前、全国で80箇所以上つくられましたが、
それらの中でも最も大きな規模を持つ真田山陸軍墓地は
終戦当時の景観をよく残していると言われています。
終戦に伴い1945年(昭和20年)12月陸軍省が廃止され、
大蔵省の所管する国有財産となりましたが、
1946年(昭和21年)8月に大蔵省との国有財産無償貸付契約により、
貸付を受けた大阪市が管理をし今日に至っています。
墓地内には、1873年(明治6年)の徴兵令施行以前に属する兵士の墓碑にはじまり、
西南戦争や日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦を経て、
先の大戦終結後に設置された墓碑を含め、約5.100基の個人墓碑、
日露戦争・満州事変戦病没将兵合葬碑及び
アジア太平洋戦争の戦病没将兵約8.200人の遺骨等を納めた納骨堂があります。
また、軍役夫や日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵の墓碑、
及び兵役従事中の平時病死者の墓碑もあることがこの墓地の特徴となっています。
これまで,二回にわたり研究者による大掛かりな墓碑や
納骨堂をはじめとする当墓地に関する学術調査が行われ、
多くの貴重な事実が判明いたしました。
当墓地では、大阪市と締結した確認書に基づき
公益財団法人真田山陸軍墓地維持会が、
毎年10月に埋葬・納骨せる戦没者の慰霊祭を行うほか、
特定非営利活動法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会による
当墓地に関する調査・研究、史料の公開や見学者に対する案内等、
多くのボランティアの皆様に支えられながら、
墓地の除草・清掃を行い環境維持活動や
傷んだ墓碑の修復・保存のための事業を行っています。
ここを訪れる方々は、整然と並んだ多くの将兵の墓碑にまず圧倒され、
そしてそこに刻まれた文字を読み取るとき、
必ずや平和の尊さを実感されものと存じます。
2014年(平成26年)3月
公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会
納骨堂(ここに桂文枝さんのお父さんの遺骨が納められていました)
清国捕虜の墓
智慧の朝おき地蔵尊
(…略…)拝殿正面のほか、北側の鳥居のかたわらにも柱の折れはしが残されています。
それには
「昭和二十年六月戦災を蒙(こうむ)り倒壊 その片柱をここに留む 三光神社奉賛会」
という文字が刻まれています。
6月の戦災というのは、おそらく444機のB29が来襲した15日の大空襲のことと思われます。
近所の方のお話では、神社北側の公園のところには
長屋住宅が建っていたそうですが、空襲で焼失してしまったとのことです。
また、大阪城が目の前に見えるぐらい焼け野原になり、
防空壕で蒸し焼きになって死んだ人や、
防火水槽に入ったものの上半身真っ黒になって焼死した人が見られたともいわれています。
焼夷弾による猛火が、あたり一帯を焼尽くしたわけで、
折れた鳥居の片柱はそのことを語る貴重な証人です。
いつまでも残しておきたいものです。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
三光神社から北に進み、すぐの交差点から西に
宰相山(さいしょうやま)西公園脇を通り300mほど進むと、
善福寺(ぜんぷくじ 真言宗)がある。
1834(天保5)年、大坂城代として赴任した
土井利位(どいとしつら)が弘法大師を深く信仰し、
近くの鏡如庵(きょうにょあん 善福寺以前にあった寺)に
参拝していたことから、「どんどろ大師」となった。
(『大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊野・三島』)
真田丸顕彰碑
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった
信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は、戦後高野山に流され、
しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。
父昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなるが、
幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、
豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。
幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。
これが「真田丸」で、幸村は慶長19年12月4日、
ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら
徳川方の大軍を手玉にとった。
「真田丸」の場所については、元禄年間(1688年~1704年)に作製された
大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、
それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田丸」の跡地であることが明らかである。
今はグランドになっているため、かつての面影は全く失われているが、
真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。
平成28年1月 天王寺区役所
協力 大阪明星学園
題字 脇田 龍峯
真田丸出城跡(天王寺区餌差町) 【大阪市顕彰史跡第204号】
豊臣秀吉が上町台地の北端部に築城した大坂城は
難攻不落の天下の名城として知られるが、
南方の天王寺方面からの防備が不十分であった。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣にあたり、
豊臣方から招かれて九度山から大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、
この弱点に気付き、現在の空堀商店街から、
JR玉造駅方向に造られていた惣構の空堀の外側にあった
「笹山」という小丘陵に出城を構え、徳川勢の攻撃に備えた。
出城は東西200mほどの規模で、
三日月形をした外形の内部が東西2つの曲輪からなり、
惣構の堀を土橋でまたいで大坂城内と結ばれていたという。
真田信繁は、わずか3千人余りの将兵でこの出城を守り、
徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの攻撃を見事に撃退し、
豊臣方にとって冬の陣最大の戦果をあげた。
従五位下(じゅうごいのげ)
真田左衛門佐豊臣信繁(さなださえもんのすけとよとみのぶしげ)之墓
京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)真田左衛門佐豊臣信繁(さなださえもんのすけとよとみのぶしげ)之墓
桂早之助(かつらはやのすけ)・渡辺吉太郎(わたなべきちたろう)・
高橋安次郎(たかはしやすじろう)
桂早之助利義(としよし)は、天保12年(1841)4月、
代々京都所司代組(しょしだいぐみ)の同心(どうしん)を務める家に生まれた、
京都在住の幕臣(ばくしん)である。
剣術は西岡是心流(ぜしんりゅう)を修め、
京都文武場(ぶんぶじょう)の剣術世話心得(こころえ)を務めている。
慶応3年(1867)2月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、
7月には肝煎(きもいり 小隊長クラス)に昇進した。
見廻組の主な任務は、新選組と同じく京都の治安を守ることにあるが、
見廻組の方は、全て幕臣による組織である。
渡辺(邊)吉太郎は、天保14年(1843)に江戸で生まれた幕臣である。
直心影流(じきしんかげりゅう)を学び、神奈川奉行支配組同心となった。
その後、元治元年(1864)には見廻組に推挙され、京都に来た。
慶応年間の見廻組肝煎を列記した名簿に名が掲載されている。
高橋安次郎も、天保13年(1843)に江戸で生まれた幕臣である。
高橋の名は、元治元年の見廻組名簿に記され、伍長(ごちょう)を務めていた。
慶応3年11月15日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された。
箱館戦争終結後、新政府に捕らえられた元見廻組肝煎、今井伸郞(のぶお)の供述によると、
見廻組与頭(くみがしら)佐々木只三郎(ささきたださぶろう)を指揮者とする数名が、
坂本龍馬らを襲撃した。
その人員の中に、桂早之助と渡辺吉太郎、高橋安次郎の名がある。
慶応4年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いに見廻組も参戦し、最前線で戦った。
桂は下鳥羽で左股に銃創(じゅうそう)を受け、4日に戦死している。
遺体は戸板に乗せられて同僚の手で大坂まで運ばれ、本寺に葬られた。
享年28歳。戒名は「徳元院大誉忠愛義貫居士」である。
渡辺は鳥羽から橋本にいたる戦いの中で負傷し、5日に戦死、本寺に葬られた。
享年26歳。墓碑には吉三郎とあるが、同時代資料から「吉太郎」が正しい。
高橋も5日に鳥羽淀橋において戦死し、本寺に葬られた。
享年27歳。「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石が、
桂の墓の隣に存在していたが、現在、墓石は残されていない。
裏面には「慶応四年戊辰夭(ぼしんよう)正月五日」と刻まれていたと伝わる。
<参考文献>
「坂本龍馬を切った男 見廻組・桂早之助の履歴」
「戊辰之役東軍戦死者及受難者人名」
「桂早之助と京都見廻組」
「京都見廻組史録」「実録 龍馬討殺」
平成25年4月 真田山 心願寺
温かいお蕎麦が食べたかったので
焼きなすのあんかけそばと柿の葉寿司をいただきました(^_^)v
美味しくて体がポカポカしましたp(^-^)q
開店前に着いて並んでいた「蕎麦切 いもせ」
次々とお客さんがきていました。
おなかが一杯なので歩くことに…
近松門左衛門の『曽根崎心中』の一節が書かれていました。
「百度石」に手をあてて祈っている方がいました。
帰るときにもまだ祈っておられた。
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
古代の勾玉製作地 豊臣秀頼寄進の石鳥居
祭神 宇迦之御魂大神(うがのみたまおおかみ)
神社の創建は垂仁(すいにん)天皇18年と伝えられており、
古来、多くの人びとの信仰を集めてきた。
なかでも大坂城の鎮守神として、豊臣家からの崇敬は篤く、
境内には、豊臣秀頼寄進の石鳥居も残されている。
この石鳥居は、大坂夏の陣(1615年)と
第二次世界大戦の2つの戦禍をくぐり抜けてきたが、
1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で基礎を損壊し、
境内の北側に上半部を埋め込むようにして保存された。
石鳥居の南側には、難波・玉造資料館がある。
社伝によると、創祀2000年祭奉祝記念として、玉作り資料を公開し、
保存するという主旨から、1986(昭和61)年に開館した。
見学に際しては、事前に申し込む必要がある(有料)。
なお境内東側に、千利休居士(せんのりきゅうこじ)顕彰碑が立っている。
玉造神社から南西に玉造禰宜町(ねぎまち 現、玉造2丁目)に、
千利休の屋敷があったことから、1977年に建てられた。
(『大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊野・三島』)
笑いを大切に 秋田實笑魂碑
渡りきて浮世の橋を
眺むればさても危うく
過ぎしものかな
昭和52年8月31日
秋田 實
豊臣秀頼公〔慶長8年(1603)3月吉日銘〕奉納鳥居
秀頼公胞衣塚(よなづか)大明神
文禄2(1593)年、豊臣秀頼公御生誕の砌(みぎり)、
公の胞衣(えな 大阪ではヨナと呼び淀殿の胎盤、胎児を包んでいる膜など)を
埋め申したのが大阪城三の丸に当たる当玉造の地であった。
以来、豊臣家の恩義を忘れぬ地元の人々により世々祀り継がれてきたが
昭和20年の戦火による焼損(しょうそん)のため、
上町一丁目(もと寺山町)から玉造一丁目(もと東阪町)へ遷座申し
当社宮司が斎主となり奉祭し、来たったのである。
さて、このたび大阪築城四百年を吉兆とし
大明神を公ゆかりの当社境内に遷座申すことになった。
なお、当地の民俗にみどり子の夜泣き、子の悩みを封ずるのに、
当大明神のほとりに生ずる笹をご祈祷の上もらい受け、
子の寝床の下に敷けば霊験あらたかであると信ぜられている
昭和58年8月 中村 浩「識」
玉造稲荷神社から伊勢神宮まで170kmを歩く「伊勢迄歩講」というのがあって
12月28日に出発して31日の深夜に伊勢に着くのだそうです(°0°)
台座石に生々しい爆撃のあとが
森之宮神社のこま犬
神社といえば、JR森ノ宮駅西側にある森之宮神社には、鳥居やこま犬の表面に、
空襲による弾のあとを見ることができます。
当社は、正式には、鵲森宮(かささぎのもりのみや)と呼ばれ、
6世紀末から7世紀はじめにかけての推古天皇の時代に、
吉士磐金(きしのいわかね)という人物が朝鮮から鵲を持ち帰り、
ここの森で飼ったので、この名がついたといわれています。
社伝によると、聖徳太子が父の追善のために自像を刻んで社を営んだのが起こりで、
四天王寺もはじめはこの地にあったという伝承が残されています。
(…略…)
(『大阪戦争モノ語り』)
なお、こま犬の台座石の裏面には
「大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ奉納シテ之ヲ再建ス 昭和十九年七月」
と刻まれています。
もともとは青銅製のこま犬だったのが金属回収策のあおりで供出され、
かわりに石製のこま犬が据えられたのですが、
それもまた空襲の爆撃にあったことがわかります。
戦争で二度も痛い目にあって、このこま犬は、
もう戦争はごめんだと思っていることでしょう。
(『大阪戦争モノ語り』)
今日、町歩きをしたのは姪が休みを取ることができるというので
父が旅行したいということで明日から二泊三日の旅をします。
そのための電車の切符を購入してきました。
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