石清水八幡宮の立地
現在、京都府八幡市に所在する石清水八幡宮の境内地は、国の指定史跡である。
古代から近世においては、応神天皇と合体した八幡大菩薩(平安末以降、阿弥陀如来とも同体)を祀る神仏習合で、神宮寺を併置し、石清水八幡宮と呼ばれた。
石清水八幡宮が創建された男山(おとこやま)は、生駒山地の北の端に位置し、最高点の標高は142.5mにおよぶ。
桂川・木津川の三川合流や大池(巨椋池<おぐらいけ>)を眺望できる景勝の地であり、また平安京の裏鬼門(うらきもん)にあたる。
さらに山城・摂津・河内の国堺に位置し、淀津、西国街道(淀川対岸)や高野街道(男山東麓)が集まる水陸交通の要地で、軍事上、関門の役割をはたしていた。
(『歴史家の案内する京都』仁木宏・山田邦和編著 文理閣 2016年)
こんな案内が掲示されていました。
八幡御神矢(はちまんごしんや)の神楽舞について
正月期間の左記日程にて八幡御神矢をお受けになった方には、神楽殿にて清祓の神楽舞をご奉仕します。
・元旦から1月7日
・1月15日から1月19日
・1月8日から2月3日までの土曜日と日曜日
右記以外は神楽舞済みの御神矢をご用意致しております。
八幡造り御本殿
お正月の名残りかな?いつもに比べておみくじがいっぱい…
おみくじは引きませんでしたが、お守りとお札と
「厄除け 節分福豆」も一緒に(^^)v
(正面)「自是到下馬七町」
(右面)「寛文六年(1666)宿坊
奉寄進 鈴木氏重貫
十二月吉日 瀧本坊」
◇この道標は石清水八幡宮境内の距離を示した「町(丁)石」で八幡市内で最古の町石碑。
◇本殿参道の手水舎手前のあまり目立たない場所に設置されている。
(『「石清水八まん宮道」に誘う道標群―江戸時代の八幡道標―』
「八幡の道探究部会」編集委員会 2017年)
西谷大塔跡
大塔(だいとう)は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。
平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇(しらかわほうおう)の御願(ごがん)により建てられました。
慶長10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼(ひでより)が再建します。
その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市根来寺(ねごろじ)の大塔(国宝)とほぼ同規模の、日本最大級の真言(しんごん)形式の大塔でした。
側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました。
平成22年(2010)の発掘調査で、塔の周りに四角く巡らせた雨落(あまお)ち溝と、柱を支えた礎石(そせき)やその抜き取られた穴が確認されたことから、大塔の位置と大きさが正確にわかりました。
現在、生垣の通路に見えている丸い花崗岩は、落(お)ち縁(えん <廊下状の縁側>)の礎石です。
「石清水八幡宮境内の発掘調査成果(護国寺・大塔・瀧本坊)」(八幡市)
エジソン記念碑
西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソンが灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明しこの石清水八幡宮境内に生えている竹が電球の命ともいわれるフィラメントの材料として最も適していることを知り電球発明の翌年から十数年も永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り世界の人々に電灯のありがたさを知らされました。
つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。
そこで1929年に電灯発明50年を記念して世界各国で電灯黄金祭が催された時、日本もこれに加わり記念事業の一つとして電球の発明と切っても切れない関係にあるこの土地に記念碑を建てエジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。
最初に建てられたのはこの境内北側に続く場所でしたがエジソン彰徳会の手で昭和33年にここに移され更に昭和59年10月に現在の姿に再建されました。
(「はちまんさんとエジソン」石清水八幡宮HP)
前回は、勘違いして「男山散策路ひだまりルート」に進んでしまいました(^^ゞ
男山レクリエーションセンターの駐車場から鳩ヶ峰を目ざしました。
こういう階段は苦手だな…
ゆっくりと階段をあがると
展望台のような所から散策路が続いています。
なんと!またもや階段状のハイキングコース(^-^;
古くて、壊れてしまっている祠(台風でかな?)
二等三角点 八幡(はちまん)
北緯 34度52分39秒511
東経135度41分53秒243
標高 142.48メートル
設置年 明治34年(西暦1901年)
ここに設置されている標石は、「三角点」です。
「三角点」は、地球上の位置(緯度・経度・標高)が高い精度で求められており、
地図作りや地震予知をはじめ、いろいろな測量の基礎となる重要なものです。
三角点を大切にしましょう。
建設省国土地理院近畿地方測量部
社団法人 京都府測量設計業協会
6月3日は「測量の日」
と記録したのに
肝心の「三角点」を写すのを忘れた(^^ゞ
というのもこの「鳩ヶ峰 國分寺跡」の石柱が目に入ったからです。
それにしても台風の爪痕が…
コースの整備は大変だったと思います。
「台風第21号による暴風・高潮等 平成30年(2018年)9月3日~9月5日」(気象庁)
下り道で初心者コースですが
所々、滑りやすい箇所があるので馴れない人は
ストックなど携行する方がいいと思います。
散策路といっても一応山道なので
下った道を振り返ると…
発病前はこんな山道をゼイゼイ言いながら何時間も歩いたけど…
心臓の機能が低いとなおさら辛いです(-_-;)
KBS京都「第44回 新春のご利益めぐり(2)~伏見稲荷大社から石清水八幡宮まで~」
で石清水八幡宮が紹介されていました。
今月の第4週(26日21時から)に再放送があります。
この番組は民放なのに(というのは変ですが)
大袈裟なアナウンスがないので落ち着いて見ることができます。
良心的な番組作りをしている!
石清水八幡宮参道ケーブルカーが交差するトンネルの上を通ります。
「淀屋の墓 江戸初期 大阪の豪商 淀屋辰五郎一族の墓」
があるのですが、柵があって墓地の中に入るには許可がいるようです。
(「淀屋の屋敷跡」2019年1月18日の記事)
2018年1月11日に石清水八幡宮の後に訪ねた神應寺(じんのうじ)にやってきました。
当寺は、八幡神を宇佐より男山に勧請した僧行教(ぎょうきょう)により、貞観2年(860)応神天皇の位牌所として開創したと伝え、法相・天台・真言と宗旨はかわり、室町時代に曹洞宗に改宗する。
豊臣秀吉の正室北政所が帰依する弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)は、当寺の中興十二世住職である。
豊臣秀吉朱印状により天正17年(1589)寺領百二十石が給され、文禄元年(1592)の朝鮮出兵時には九州名護屋へ出陣を見舞う間柄であった。
その後、徳川家康をはじめ歴代徳川将軍から寺領が安堵され、八幡宮領内や近隣に末寺数ヶ寺を組織していた。
十九世廓翁鉤然(かくおうこうねん)は、大奥総女中頭右衛門佐局の支援で、将軍徳川綱吉と御台所より袈裟を賜り、各地を勧進行脚して寺観を整えた。
元禄13年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地(じょうほうどうち)の寺格を得て、洛南有数の禅苑となる。
明治維新の神仏分離では男山の仏教施設は悉く撤却されたが、開山堂に祀られていた行教像は、還俗式で紀中津御祖神と改称して難を逃れ、明治6年墓所のある当寺に移徒された。
この行教律師座像は、一木彫成・翻波式衣文(ほんばしきえもん)表現等平安初期彫刻として国の重要文化財に指定されている。
書院は、江戸時代初期で八幡市域現存最古の書院建築であり、書院障壁画(八幡市指定文化財)は、狩野山雪筆の優品である。
鰐口(わにぐち <京都府指定文化財>)は、元弘2年(1332)の銘をもつ基準作である。
奥院杉山谷不動堂にある矜羯羅(こんがら)童子・制多迦(せいたか)童子立像(八幡市指定文化財)は、14世紀後半作の等身大の貴重な像である。
境内墓地には、大阪淀屋橋・常安橋に名を残し、巨富と分を過ぎた豪奢な生活をとがめられ欠所処分で衰微した、豪商淀屋辰五郎一族の墓碑や淀藩永井家の家老一族・右衛門佐局等の供養塔がある。
その他多くの貴重な史料や文化財を伝える。
絲杉山(ししんざん)神應寺(じんのうじ)
(正面)「左 八幡宮道」
(裏面)「是より北荷馬口附の者来へからず」
◇頓宮西の石材置場に倒置。(巨大五輪塔の向い)
◇角柱の周りに縁取り加工した立派な道標。
◇道路工事の際、一旦八幡宮に預けたが、そのままになってしまったか?
(『「石清水八まん宮道」に誘う道標群―江戸時代の八幡道標―』
「八幡の道探究部会」編集委員会 2017年)
散策道で疲れたのでカレーで活を入れようかと思ったけど
1階の「リバーカフェ」の側を通ると
「こだわり五穀米ご飯の 一汁四菜バランス定食 五穀米ご飯・おかず2種・サラダ・お味噌汁がついてくる!」という言葉に
「若鳥のみぞれ煮 柚子胡椒風味定食
竜田揚げをたっぷりの大根おろしと和風出しで仕上げました」との説明書きに引き付けられていただきました(*´▽`*)
柚子胡椒風味で目がさえましたp(^^)q
今回、電車の中などで読んでいたのが『民藝四十年』(柳宗悦 岩波文庫)
かなり前に読んでいたのだけど、読み返すと現在の日韓関係に通じるなと思いました。
柳宗悦(むねよし)の考えは、理想論的過ぎると批判があると思うけどいつか転記したいなと思います。
「青空文庫」に柳宗悦の作品が載っています。
下った道を振り返ると…
発病前はこんな山道をゼイゼイ言いながら何時間も歩いたけど…
心臓の機能が低いとなおさら辛いです(-_-;)
KBS京都「第44回 新春のご利益めぐり(2)~伏見稲荷大社から石清水八幡宮まで~」
で石清水八幡宮が紹介されていました。
今月の第4週(26日21時から)に再放送があります。
この番組は民放なのに(というのは変ですが)
大袈裟なアナウンスがないので落ち着いて見ることができます。
良心的な番組作りをしている!
石清水八幡宮参道ケーブルカーが交差するトンネルの上を通ります。
「淀屋の墓 江戸初期 大阪の豪商 淀屋辰五郎一族の墓」
があるのですが、柵があって墓地の中に入るには許可がいるようです。
(「淀屋の屋敷跡」2019年1月18日の記事)
2018年1月11日に石清水八幡宮の後に訪ねた神應寺(じんのうじ)にやってきました。
「淀君茶室の庭石」
由緒当寺は、八幡神を宇佐より男山に勧請した僧行教(ぎょうきょう)により、貞観2年(860)応神天皇の位牌所として開創したと伝え、法相・天台・真言と宗旨はかわり、室町時代に曹洞宗に改宗する。
豊臣秀吉の正室北政所が帰依する弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)は、当寺の中興十二世住職である。
豊臣秀吉朱印状により天正17年(1589)寺領百二十石が給され、文禄元年(1592)の朝鮮出兵時には九州名護屋へ出陣を見舞う間柄であった。
その後、徳川家康をはじめ歴代徳川将軍から寺領が安堵され、八幡宮領内や近隣に末寺数ヶ寺を組織していた。
十九世廓翁鉤然(かくおうこうねん)は、大奥総女中頭右衛門佐局の支援で、将軍徳川綱吉と御台所より袈裟を賜り、各地を勧進行脚して寺観を整えた。
元禄13年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地(じょうほうどうち)の寺格を得て、洛南有数の禅苑となる。
明治維新の神仏分離では男山の仏教施設は悉く撤却されたが、開山堂に祀られていた行教像は、還俗式で紀中津御祖神と改称して難を逃れ、明治6年墓所のある当寺に移徒された。
この行教律師座像は、一木彫成・翻波式衣文(ほんばしきえもん)表現等平安初期彫刻として国の重要文化財に指定されている。
書院は、江戸時代初期で八幡市域現存最古の書院建築であり、書院障壁画(八幡市指定文化財)は、狩野山雪筆の優品である。
鰐口(わにぐち <京都府指定文化財>)は、元弘2年(1332)の銘をもつ基準作である。
奥院杉山谷不動堂にある矜羯羅(こんがら)童子・制多迦(せいたか)童子立像(八幡市指定文化財)は、14世紀後半作の等身大の貴重な像である。
境内墓地には、大阪淀屋橋・常安橋に名を残し、巨富と分を過ぎた豪奢な生活をとがめられ欠所処分で衰微した、豪商淀屋辰五郎一族の墓碑や淀藩永井家の家老一族・右衛門佐局等の供養塔がある。
その他多くの貴重な史料や文化財を伝える。
絲杉山(ししんざん)神應寺(じんのうじ)
五輪塔(航海記念塔)
八幡宮道の道標(正面)「左 八幡宮道」
(裏面)「是より北荷馬口附の者来へからず」
◇頓宮西の石材置場に倒置。(巨大五輪塔の向い)
◇角柱の周りに縁取り加工した立派な道標。
◇道路工事の際、一旦八幡宮に預けたが、そのままになってしまったか?
(『「石清水八まん宮道」に誘う道標群―江戸時代の八幡道標―』
「八幡の道探究部会」編集委員会 2017年)
一ノ鳥居
いつものように京阪天満橋駅で本を探す前に散策道で疲れたのでカレーで活を入れようかと思ったけど
1階の「リバーカフェ」の側を通ると
「こだわり五穀米ご飯の 一汁四菜バランス定食 五穀米ご飯・おかず2種・サラダ・お味噌汁がついてくる!」という言葉に
「若鳥のみぞれ煮 柚子胡椒風味定食
竜田揚げをたっぷりの大根おろしと和風出しで仕上げました」との説明書きに引き付けられていただきました(*´▽`*)
柚子胡椒風味で目がさえましたp(^^)q
今回、電車の中などで読んでいたのが『民藝四十年』(柳宗悦 岩波文庫)
かなり前に読んでいたのだけど、読み返すと現在の日韓関係に通じるなと思いました。
柳宗悦(むねよし)の考えは、理想論的過ぎると批判があると思うけどいつか転記したいなと思います。
「青空文庫」に柳宗悦の作品が載っています。
こんばんは~
返信削除お父様とご一緒にの石清水八幡宮さまへのお詣りは、健康のバロメーターにもなりますね。
八幡様のご加護がありますように。。。
今回のこもれびルート、けっこうな階段コースもあるのですね。
ますますの健康バロメーターになりそうです。(^-^;
お疲れのでませんように。。。
こだわり五穀米ご飯の 一汁四菜バランス定食で、回復されていますでしょうか?
お気を付けください。
カイさんこんばんは(^^)/
削除88歳の父がお参りできることは、八幡様のご加護があってのことだと思いますp(^^)q
いつもは下りの参道を歩いているのですが、今回は少し登りがありました(^-^;
途中で息切れしそうになると、周りの景色を見て休憩しながら撮影してました(^^)v
一汁四菜のおかげでその後、ジュンク堂で本を探すことができました(^^)v
珈琲を飲みながら外を見ていると大勢の団体が早足?で通り過ぎていきました。
黙々と下を見て歩いている方も…
みなさん結構年配の団体、歩こう会だと思うのですが。
一方、鳩ヶ峰にあがる階段でも高齢者のグループに出会いましたが
皆さん楽しそうに話しながら下ってこられた。
σ(^-^;は団体行動が苦手なのは、人のペースに合わせようとするとすぐにへばってしまうからです。
マイペースでゆっくり景色を楽しみたいので一人で歩くことが多かったです。
グループで歩くにしても鳩ヶ峰で出会った方たちのように話をできるペースで歩けるといいですね。