今日は「一月十日」ということで「干」と習字をされて
「洗濯物を干すのにいい天気になりそうですよ」と教えてくれていました(*´▽`*)
国民皆兵(かいへい)をたてまえとする徴兵令が出された。 1873(明治6)年
明治政府は、誕生するとすぐに軍隊の整備・充実に力を入れた。
まず各藩の藩兵を解散させ政府直属の軍隊をつくり、全国6カ所に鎮台(ちんだい)をおいたが、その軍隊は薩(さつ)・長(ちょう)・土(ど)三藩士族の寄り合いにすぐなかった。
そこで富国強兵をめざす政府は、外国の軍隊を参考にして、この日、徴兵令を発布した。
徴兵制の目的は、上下の身分のへだてなく20歳に達した男全部で3年間の兵役につくこととされた。
しかし、役人、高等教育を受けた者、270円をかわりに納めた者、戸主や長男などは徴兵を免除された。
このため、1876(明治9)年の20歳の男子30万人のうち、免除者は全体の82パーセントにも達した。
徴兵された者は貧しい農家の二、三男が多かった。
そのためか当時「徴兵懲役(ちょうえき)の違い、腰にサーベル鉄鎖(てつぐさり)」という文句がはやった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
「免除者は全体の82パーセント」という数字にビックリして、
午後から図書室に調べにゆきました。
2011年9月に退院してからは、午前中にリハビリ散歩をして
午後は家でゆっくりと過ごし、昼寝などをしていた時期があります。
1年位して大学病院で心臓リハビリの負荷テストを受けると
退院直後に受けた時よりも心臓機能が低下していました。
以来、無理をしない程度に午後にも体を動かすようにしています。
その一つに図書室に出かけて資料集めなどをしています。
午前、午後と合わせてやっと1万歩にとどくかどうか(^^ゞ
徴兵令と血税一揆
さて、明治5年11月28日、全国徴兵の詔と太政官の告諭がでる。
その15日後(この間、陰暦から陽暦に切りかえられ、旧暦12月2日の翌日が明治6年1月1日になった)の6年1月10日には徴兵令が発布された。
徴兵制による日本軍隊成立の第一歩である。
右の太政官の告諭は、旧来の武士を痛烈に批判したうえで、四民はいまや「均(ひと)シク皇国一般ノ民」として国に報じなければならない、と述べたが、そこに「血税」という文字があったことから、「血を絞られる」とあらぬ噂をよびおこし、いわゆる血税一揆がおこった。
(「血税一揆」については省略します)
(『日本の歴史 第24巻 明治維新』田中彰 小学館 1976年)
徴兵忌避さて、明治5年11月28日、全国徴兵の詔と太政官の告諭がでる。
その15日後(この間、陰暦から陽暦に切りかえられ、旧暦12月2日の翌日が明治6年1月1日になった)の6年1月10日には徴兵令が発布された。
徴兵制による日本軍隊成立の第一歩である。
右の太政官の告諭は、旧来の武士を痛烈に批判したうえで、四民はいまや「均(ひと)シク皇国一般ノ民」として国に報じなければならない、と述べたが、そこに「血税」という文字があったことから、「血を絞られる」とあらぬ噂をよびおこし、いわゆる血税一揆がおこった。
(「血税一揆」については省略します)
(『日本の歴史 第24巻 明治維新』田中彰 小学館 1976年)
さて、徴兵令にかんする民衆の反応は、この血税一揆よりもむしろ徴兵忌避のほうに、より広くより深くみられる。
一揆のほうが積極的で、忌避のほうが消極的だという通念や評価は再考しなければならない。
徴兵忌避こそが、徴兵制に対する民衆の抵抗としては、持続的かつもっとも有効な打撃をあたえているからである。
この徴兵忌避は、民衆が徴兵令の免役条項(「徴兵編成並概則」第3章の「常備兵免役概則」を中心に規定)をいかに活用するか、にあった。
いま、12か条にわたるその条項と関連項目をおおまかにわけると、だいたいつぎのようになる。
(1)身長が五尺一寸(約155センチ、明治8年より五尺)に足りない者。病弱・不具者。
(2)官吏、所定学校の生徒、洋行修業者、陸海軍生徒など。
(3)戸主、その相続者や養子ならびに家族中特殊の関係にある者。
(4)犯罪者。
(5)代人料270円を納めた者。
(1)や(4)も問題ないわけではないが、ここでははぶく。
(2)は、当時の役人またはその候補者たち(多くは士族出身)に、いかに特権があたえられていたかがわかる。
では、(5)はどうか。
これは270円納めれば徴兵にいかなくてよい、というのだ。
明治6年(1873)の東京深川の正米(しょうまい)平均相場は、一石が4円80銭とされているから、270円では56石余買えることになる。
いまの米価で換算すると、昭和50年生産者米価は150キロ(一石)あたり3万8925円だから、56石では、218万円ということになる。
218万円以上の金をだせば徴兵免除となるわけだが、これは庶民には縁遠い。
事実、全国で代人料による免役者は、明治9年度(明治9年7月1日~10年6月30日)で39人、翌10年度(明治10年7月1日~11年6月30日)で23人にすぎないのである(『陸軍省第二年報』同『第三年報』による)。
とすると、のこされたのは(3)である。
実際、民衆はこの(3)の項目をフルに活用した。
「家」と徴兵
そこで、この(3)の項目をもうすこしくわしくみよう。
これに該当するのはつぎのようなものである。
(イ)一家の主人たる者。
(ロ)嗣子ならびに承祖の孫。
(ハ)独子・独孫。
(ニ)父兄が病気または事故のため、父兄にかわり家を治める者。
(ホ)養子(約束のみでまだ実家にいる者は該当しない)。
(ヘ)徴兵在役中の者の兄弟。
これらの項目をみると、「家」存在がうかびあがってくる。
(ヘ)をみれば、徴兵が個人というよりむしろ「家」を単位に課せられていることがわかる。
そして、徴兵は「家」を単位に、「家」の責任者(戸主)もしくはそのあとつぎは徴兵に応じなくてよい、というのが原則なのである。
なぜか。それはさきにふれたように、この「家」が当時の国民支配の基礎だったからにほかならない。
そして、戸主はそのかなめであったから、戸主とその継承者には徴兵免除の特権をあたえ、「家」の存続を保持しようとしていたのである。
そうすると、徴兵は次男・三男以下ということになる。
そこで、これらの該当者は、検査前に分家したり、他家に入籍したりし、また絶家や廃家を再興して戸主となった。
戸主にならなくても養子にいけば、(ホ)にあてはまる。
これはおおいにはやって「徴兵養子」とか「兵隊養子」とかいうことばが当時生まれた。
日露戦争で鉄橋爆破の任務をおび、捕えられて明治37年(1904)4月、中国東北ハルビンで銃殺された横川省三(しょうぞう<はじめ三田村勇治。慶応元年、南部藩に生まれ、加波(かば)山事件に連座、のち新聞記者として郡司(ぐんじ)大尉らの千島探検に参加、日清戦争従軍記者を経て渡米、帰国後北京公使内田康哉の片腕となる。クリスチャンでもあった)も、徴兵養子の一人であったが(明治17年ごろ)、「俺は養子に行ったぞ、今日から山田勇治じゃ、徴兵にゃいかんぞ」と、肩をはって吹聴してまわった、という(利岡中和著『真人横川省三伝』)。
当時の徴兵養子の雰囲気がわかる。
詐偽・転籍・失踪
また、長男が(ロ)の該当者として免役になってしまうと、さっそく廃嫡にするか、あるいは分家や絶家の再興などで他家にだし、次男以下をつぎつぎに(ロ)の該当者にしたてあげる方法もとられた。
さらに(ニ)を適用するために、にせの診断書をつくって父兄を病気とし、また疾病とか失踪の証明書をいつわって提出したりする手も使われた。
つまり、民衆は政府の意図を逆手(さかて)にとって、「家」を防壁にしてさかんに徴兵忌避をおこなったのである。
『陸軍省第三年報』も、免役者の名簿のなかに、戸主・嗣子・承祖の孫、あるいは父兄にかわって家を治めるなどというのが増加しているのは、「所謂(いわゆる)法ヲ仮リ、官ヲ欺(あざむ)キ、以て兵役ヲ逃レント欲」する者や、他人に依頼して「一時養子」となって嗣子の名義を冒(おか)し、あるいは分家をしながら、じつは実家に同居する者などがだんだんふえているせいだろう、と述べている。
また、当時の戸籍の杜撰(ずさん)さとともに、戸長が適当に書類をごまかすばあいも多かった。
明治14年9月の陸軍卿山県有朋の意見書には、そのことを、公選の戸長が人望を博するのに、汲々(きゅうきゅう)として徴兵忌避をたすけ、送入籍の書類の作為をはじめとして、年齢の数字の一を二とあらため、三を四としたりしている、と嘆いている。
それのみではない。
徴兵適用地域外である北海道(函館周辺を除く)や沖縄に転籍する者もあったし、検査前に逃亡、失踪する者も多かった。
当時の法令をみると、それを規制したものが、府県庁から各区の戸長や町村、あるいは警察署にしばしばだされている。
また、自分の体を損傷して徴兵忌避をはかる者もあとを絶たなかった。
明治10年1月、陸軍卿山県は、「或ハ服役ヲ厭悪(えんお)シ、若クハ逃亡シ、其他種々ノ詐偽(さぎ)ヲ以テ徴募ヲ免レントスル者亦(また)少カラズ」と、これらの事実をにがにがしく述べているのである。
徴兵忌避の実数
以上の実情を、陸軍省の年報によって確認してみよう。
下のグラフ(省略)は、明治9年度(明治9年7月1日~10年6月30日)の全国(第一~第六軍管および函館)の徴兵状況である。
20歳の壮丁(そうてい)の総人員は30万1259人、うち徴兵免役該当者として名簿に記載された者は24万1259人、免役率は全国平均82.9パーセントである。
この免役率は第四軍管(大阪、89.8パーセント)がもっとも高く、第二軍管(仙台、69.5パーセント)がもっとも低い。
免役率が比較的平均に近い第一軍管(東京、86.3パーセント)内の各府県の徴兵状況を下表(省略)にしめそう。
他の軍管も、また次年度をみても、ほぼ同様である。
随所に逃亡・詐偽(さぎ)・人心狡黠(こうかつ)等々の語が見うけられる。
さらに、免役該当者として名簿に記載された24万9773人の該当理由の内訳を右のグラフ(省略)でみてみよう。
このうち「家」関係の免役者は、総数のじつに93.8パーセント(23万4256人)に達する。
名目的にも実質的にも、いかに「家」が徴兵忌避の防壁になっていたかがわかろう。
徴兵検査は、これらの免役該当者を除いて実施された。
前ページのグラフの徴兵編入率(省略)というのは、その検査による不合格者や事故・死亡・翌年まわし・その他を除いて、実際に常備軍と補充兵に編入された者と20歳の壮丁総人員との比率である。
編入者総数は1万8069人(うち補充兵は7381人)で、編入率の全国平均は6.0パーセントである。
つまり明治9年度では20歳の壮丁100人中、現実に検査で徴兵された者はわずか6人しかいなかった、ということになる。
これでは「国民皆兵」とはいえまい。
もちろん、右の表(省略)でもわかるように、各府県には何人かの兵役志願者がいる(『陸軍省第二年報』の数字でわかる者の合計は277人。次年度『第三年報』では、兵役志願者61人、常備志願者78人、計139人)。
だから、徴兵忌避一色でぬりつぶすわけにはいかないが、志願者は微々たるものである。
一般的に徴兵忌避の風潮が圧倒的だったといってよい。
後年の作とされているが、「徴兵懲役一字の違い 腰にサーベル 鉄鎖」という歌は、そうした実情を反映したものである。
徴兵令改正と民衆の抵抗
『陸軍省第二年報』は、こうした実情を見すえて、つぎのように述べている。
そもそも徴兵のことは、ようやく各地方の慣習となりつつあるが、官吏は、あるいは「徴兵ノ苦情」をたすけ、あるいはこれを「厳制」せず「唯甘言以テ一時ノ責ヲ逃ルゝガ如キ、姑息(こそく)ヲ脱セズ」。人民は逐年「詐偽」に長じ、強者は採用されるだろうと察して「遁走(とんそう)」し、弱者は落第を期して「揚々(ようよう)トシテ」検査場にのぼる。
強弱ともその性質にしたがって、たくみに「狡獪(こうかい)ヲ弄(ろう)シ」、もって「規避(ママ)ノ術」を逞(たくましゅ)うしている。だから、本年のごときは30万余の壮丁中よりわずかに1万5000に足らない徴員なのに、なお「百方勉力シテ」ようやく其の数を充足するような状態だ。(中略)このような実情からすると、「兵役ヲ規避(ママ)スルノ弊風」は日一日とはなはだしくなり、おそらくは数年をまたないでかならず「徴員ノ欠乏」を訴えるにいたるであろう。
若干注釈をつけておこう。
右の『第二年報』の明治9年度の徴兵による「定額徴員」は1万4537人である。
さきのグラフにみるかぎり、徴兵編入人員は1万8069人(ただし、常備軍は1万688人、補充兵7381人)だから、いちおうこの「定額徴員」をうわまっていることになる。
しかし、『第二年報』は軍管ごとにアンバランスのあることを告げ、「第一第二第三及び第五軍管ノ如キハ、補充兵若干ノ剰余アルモ、第四及び第六軍管ニ在(あり)テハ補充兵若干ノ欠員アリテ、定額徴員ノ充足セザルヲ患(うれ)フ」と述べている。
徴兵する側からみれば、民衆の徴兵忌避の弊風はなんとしても排除していきたかったのであろう。
そのために打たれた手が、あいつぐ徴兵令改正であった。
すでに明治6年12月、翌7年6月、8年11月、9年4月と、西南戦争までの4年間は毎年のように免役条項の制限がなされ、徴兵忌避の防止がこころみられているし、さらに陸軍卿山県は、明治7年12月、『徴兵令参考』を各地方官に配布し、翌年10月にもその改訂版をくばっている。
また、明治10年1月には陸軍卿山県の代理として陸軍少輔(しょうゆう)大山巌(いわお)は、この『徴兵令参考』の追加と改正をしめしたが、そのおもなものは徴兵免役にかんするものだったのである。
こうした努力にもかかわらず、これまでみてきたような数字がその実態だったのである。
民衆の徴兵に対する抵抗の根強さと知恵がわかるだろう。
そして、これは明治10年代もつづく。
近代文学史家西田勝氏の調査では、徴兵忌避の手びき、ないし解説書は明治12年ごろから公刊され、16~17年が最盛期だった、という。
この種の本は当時の大ベストセラーで、『改正徴兵心配なし』(明治17年刊)の序文をもとにした氏の計算では「かりに一種平均10万部売れたとしても、二、三百万の売れ行きである」とされている(『近代文学の潜勢力』)。
結局、徴兵制度は西南戦争をくぐりぬけ、明治12年、16年、22年の根本的改正を経てはじめて確立していくのである。すでに明治6年12月、翌7年6月、8年11月、9年4月と、西南戦争までの4年間は毎年のように免役条項の制限がなされ、徴兵忌避の防止がこころみられているし、さらに陸軍卿山県は、明治7年12月、『徴兵令参考』を各地方官に配布し、翌年10月にもその改訂版をくばっている。
また、明治10年1月には陸軍卿山県の代理として陸軍少輔(しょうゆう)大山巌(いわお)は、この『徴兵令参考』の追加と改正をしめしたが、そのおもなものは徴兵免役にかんするものだったのである。
こうした努力にもかかわらず、これまでみてきたような数字がその実態だったのである。
民衆の徴兵に対する抵抗の根強さと知恵がわかるだろう。
そして、これは明治10年代もつづく。
近代文学史家西田勝氏の調査では、徴兵忌避の手びき、ないし解説書は明治12年ごろから公刊され、16~17年が最盛期だった、という。
この種の本は当時の大ベストセラーで、『改正徴兵心配なし』(明治17年刊)の序文をもとにした氏の計算では「かりに一種平均10万部売れたとしても、二、三百万の売れ行きである」とされている(『近代文学の潜勢力』)。
ちなみに、発足当時の日本軍隊の定員は3万5320人(平時定員3万1440人、近衛兵3880人)、当時の国民の全人口(3300万8430人)に対する比率(パーセント)は0.11である。
これを諸外国と対比すれば、イギリス0.59、フランス1.27、ドイツ1.07、ロシア0.887、イタリア0.82だとされているから、いかにも低い。
しかし、それでも明治初年の歳出中に占める軍費の割合は最低15パーセントから最高26パーセントで、だいたいほぼ20パーセント弱と計算されている(鹿野政直「日本軍隊の成立」『歴史評論』46)。
すでにみたように、陸海軍省費は内務・工部・大蔵三省の支出に匹敵しているのである。
国際的にはともかく、日本軍隊は、民衆の抵抗と当時の財政状態のなかで、そのぎりぎりの限界点で成立し、やがて朝鮮問題をテコに急速に「国民皆兵」制を確立していくのである。
(『日本の歴史 第24巻 明治維新』田中彰 小学館 1976年)