2020年1月9日木曜日

嵐の後…

昨日の風雨はまるで春の嵐のようでした。
メタセコイアの葉だけでなく実もいっぱい落ちていましたし、
歩いていると別の場所では太い枝まで折れて落ちていました。

1月9日 
内村鑑三(うちむらかんぞう)が教育勅語の礼拝を拒否した。 1891(明治24)年
 この日、第一高等中学校(のちの第一高等学校)では前日に下賜(かし)された教育勅語礼拝の式が行われた。
講師の内村鑑三は壇上に上がったが「これは天皇を神として礼拝することであって、キリスト教信者としてはできない」といって最敬礼しなかった。
 これをみた職員・生徒のなかから激しい非難がおこり、各新聞もつづいて書きたて、国賊あつかいされた内村はついに職を追われた。
これをきっかけとして、東大教授の井上哲次郎(いのうえてつじろう)と内村鑑三との論争をはじめとして、教育と宗教、キリスト教と日本の「国体」をめぐってはげしい議論がかわされた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
日本の民俗宗教』と『キリスト教史』より関連したことを転記したいと思いますφ(..)
転記しながら当時と現在と重なることが多すぎるなと思いました。
あいまいな記憶ですが、内村鑑三は、「最敬礼」はしていませんが、礼はされていたと思います。
明治動乱期
(…略…)
 明治政府は復古神道(ふっこしんとう)のイデオロギーにもとづいて、宗教政策を進めることを考えて、明治元年に神祇(じんぎ)官を再興し、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発令した。
この結果、各地で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動がおこった。
また同2年には戊辰(ぼしん)の役(えき)の戦死者の慰霊のために招魂社(しょうこんしゃ)を建立(こんりゅう)した。
これが靖国神社の前身である。
明治3年1月には大教宣布(たいきょうせんぶ)の詔勅(みことのり)により神道国教政策が打ち出され、翌4年5月14日には神社を宗祀(そうし)として社格を定め、寺院の寺請制(てらうけせい)、宗門人別帳を廃止した。
また翌5年には教部省を設置し、教導職において敬神愛国、天理人道、皇上奉戴(こうじょうほうたい)の三条教則を教導させた。
なお同年に太陰暦を太陽暦にあらためている。
 この年には修験(しゅげん)宗も廃止され、修験者は天台・真言の仏教教団に所属した。
また明治6年には梓巫(あずさみこ)・市子(いちこ)・憑祈禱(よりぎとう)・きつねさげ・玉占(たまうらな)い・口寄(くちよせ)、同7年には医薬のさまたげになる禁厭(きんえん)、祈禱(きとう)を禁じている。
このように、明治初期の一連の政令は神道国教化を推進し、文明開化をさまたげる民間信仰の救済儀礼を禁止する姿勢をとっていた。
(『日本の民俗宗教』宮家準 講談社学術文庫 1994年)
 もっともその後、明治10年教部省が廃止され、同22年には明治憲法により安寧秩序(あんねいちつじょ)をさまたげず、臣民の義務に背(そむ)かざる限りにおいて信教の自由が保障された。
なお明治39年ごろから全国各地で群小神社の本格的な併合、合併が行われた。
そして大正2年には内務省にあった神社局と宗教局のうち、宗教局を文部省に移管して、両者を分離させた。
これは神道をいわば国教として他の宗教から分離したことを意味している。
 一方、この頃から昭和初期にかけては大本教(おおもときょう)、ほんみち、生長の家、霊友会、大日本観音会(世界救世教)などの新宗教が勢力をのばしている。
また民間では神社参詣がさかんに行われた。
昭和14年には各県に護国神社、市町村に忠魂碑(ちゅうこんひ)がつくられた。
そして太平洋戦争がはじまった昭和16年には、宗教団体法が施行され、宗教教団は教派神道13派、仏教26派、キリスト教2団体に整理・統合された。
そして治安維持法によって新宗教の弾圧が行われた。
(『日本の民俗宗教』宮家準 講談社学術文庫 1994年)
いわゆる教育と宗教の衝突
(…略…)
 挙育勅語の発布(明治23年)に先立つ同22年に日本帝国憲法が発布され、その第28条に「日本臣民ハ安寧秩序ヲ防ケス又臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあった。
しかしこの信教の自由は、神社神道に基づく天皇制国家における臣民として義務にそむかない限りにおいてという制限付きのもであって、真の意味における信教の自由ではなかった。
このような矛盾は、第2次世界大戦終結までの国家によるキリスト教会への圧迫によって明らかとなる。
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
 明治22年憲法発布の当日、キリスト教の感化を受け、これを弁護した文部大臣森有礼(ありのり 1847-1889)は国粋主義者に暗殺された。
また24年第一高等中学校教師内村鑑三は、仏教側の『令知会雑誌』に始業式の時挙育勅語に礼拝しなかったと事実を曲げて報道され、ついに教師を辞任した。
のちに内村が井上哲次郎(1856-1944)にあてた公開状によると、これは曲解のはなはだしいものであるといい、「礼拝とは崇拝の意ならずして敬礼の意なるを校長より聞いて、喜んで之をなせしなり。また爾来もこれを為すべきなり」と論じた。
しかし『令知会雑誌』の記事は種々に用いられ、井上が明治26年(1893)に『教育時論』誌上に「国家と耶蘇教との衝突」という談話を発表したことが契機となって、ここに教育と宗教の衝突という論争が始まった。(比屋根『九十年史』95頁)。
これに先だって熊本県知事が、熊本英学校の設立者浜田に向って、キリスト教徒である教員奥村貞次郎の解雇を命じた。
その経緯は、奥村が同校校長就任式当日にした演説が挙育勅語に違背するものであると保守党系の地方新聞が捏造した記事を書きたてたからである。
そこで第一高等中学校における内村鑑三の不敬事件が再燃して、井上は前記の書を公にし、ここに教育と宗教の衝突を主題にして大論争が展開した。
井上はこの書を公にする前に、『教育時論』(第272号)に、「教育勅語対基督教の問題について」と題する談話を発表したので、明治25年末から論戦が展開し、新聞雑誌の論文や論評、および著書の数は260にのぼった。
(植村、五巻773-791頁。260の論文、論評、著者の筆者名や題名などついて詳細に記している)。
 井上の『教育ト宗教ノ衝突』の要旨は、イエスの教えやキリスト教は、挙育勅語の忠孝や愛国の教えにそむくものであるということである。
「耶蘇教は非国家主義にして共同愛国を重んぜず、其徒は己の主君も如何なる国の主君も皆これを同一視し、隠然宇宙主義を取る、是故に到底勅語の精神と相和すること能はず」(井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』99頁)。
イエスの教えは、けっして非愛国的なものではなく、真の意味で国を愛し民族を愛することを教えている。
またイエスがその母マリアに深い愛の思いをいだていたことはあきらかである(ヨハネ十九・26-27)。
またイエスは、父母に対して子がただ礼物を与えるだけでよいとはいってはいないのであって、父母に対する真心とそれに基づく実践が必要であると教えている(マルコ七・9-12)。
「耶蘇教の東洋の教に異なる要点は四種なり、第一、国家を主とせず、第二、忠孝を重んぜず、第三、重きを出世間に置いて世間を軽んず、第四、其博愛は墨子の兼愛の如く、無差別的な愛なり」(井上同、125頁)。
彼が、キリスト教徒は来世の永遠の生命を重んじるが、現世のことを軽視していると理解していることである。
キリスト教徒が来世における永遠の生命を重視することはもちろんであるが、彼らはまたイエスの教えに従ってこの現世にあって愛の実践に心を砕くものである。
井上はさらにいう「神に祈るも慈善を行ふも、皆己れの精神を未来に救ひ、永世の快楽を得んが為めにあらずや」(同、120頁)。
従って彼によればキリスト教徒は功利主義者であるということになる。
しかしキリスト教徒が永遠の生命を祈り求めるのは、これは功利主義ではない。
問題はわれわれ人間が、人生の目的をどこにおくかということである。
井上は、キリスト教の説く愛は、無差別的の愛であると批判する。
さらに井上が「又耶蘇教に拠れば神の下にありては人類は一切平等にして男女も尊卑の別あることなし、要するに、社会平等主義なり、然るに日本支那にては古来男尊女卑の風俗を有し、学者も亦之を唱導せり」(同、131頁)といっている点については、もう私がその見解の低劣なることについて批判を加える必要はないであろう。
彼は「余は唯国家的教育的の問題を解釈」したのであるというが(同、140頁)、彼の見解に対する批判は以上で十分であろう。
彼はこのようにして教会とキリスト教主義学校を攻撃した。
(『キリスト教史』藤代泰三 講談社学術文庫 2017年)
井上哲次郎の考えは、私から見ると酷いなと思えるのですが
現在の日本の状況を、将来、どのように見られるのでしょうね。
明治維新以来、弾圧を受けたのは仏教やキリスト教だけではありません。
新興宗教もそうですし、神社も弾圧を受けました。
古来から脈々と続いていた自然を敬う心を断ち切ったのは
明治維新以来の国家神道の政策だったと思いますし
神社の「神社合祀反対運動」を行なったのが南形熊楠です。
いつか南形熊楠について調べたいなと思っています。
神社合祀反対運動」(南形熊楠記念館)
今朝の父の一枚です。
今日は、父の方がモズジョウビタキなどに出会っていましたp(^^)q