2018年1月11日木曜日

石清水八幡宮

石清水八幡宮を参拝しました。
気温が低く寒かったですが、カキンと音がするような青空でした(^。^)
本殿に上がる所に筵が敷かれていました。
雪や雨などで滑りやすくなっているからです。
上がっている途中でドンと大きな音が聞こえたので振り返ると
高齢の男性が滑って尻もちをついておられました。
筵が敷いてあってもゆっくり降りないと滑ります。
 5日にお参りしたばかりなのに父がお参りしたいと言いました。
と言うのも父は入院している姉のことが心配で、長い間祈っていました。
見舞いに行ってあげたくても徳之島は遠いです。
普段は、通り過ぎる楠の説明板をジーッと読んでいた父が
「楠木正成公必勝祈願参拝の際奉納の大楠」を
背景に撮してくれとリクエストがありました。
父とは男山ケーブルの山頂駅で別れて
展望台にやって来ました。
 男山は雄徳山とも表記され、淀川をはさんで北にある山崎の天王山と相対峙している。
これらの山塊によって山城国と河内国や摂津国との境となる狭い山崎地峡が形成されている。
山崎地峡はしばしば合戦の舞台となり、壬申の乱で大友皇子が最期をむかえたのは山前(崎)だった。
とくに天正10年(1582)の羽柴秀吉軍と明智光秀軍との山崎の合戦は名高い。
 このように男山は軍事上の重要拠点でもあり、平安時代になると皇室や武家、
とくに清和源氏の崇拝を集めた石清水八幡宮が鎮座し、今日に至っている。
 石清水八幡宮は俗に八幡(やわた)の八幡(はちまん)さんとよばれているが、注意しておいてよいことがる。
それは今日のように神社一色になったのは明治初年の神仏分離令以後であり、
それまでは宮寺とよばれたように、仏教色の強い神社であった。
(『京都の歴史を足元からさぐる 第五巻
     宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)
展望台
男山は京都盆地の南にあり、木津川・宇治川・桂川の
三つの川の合流部に面した丘陵地です。
およそ10時の方向には、古戦場となった天王山があります。
また、京都市の北東、12時の方向には、
遠く大文字山や比叡山があります。」
 という説明板がありました。
視覚障碍者のために設置されていました(^-^)
右端に見えるのが愛宕山だと思います。
手前の山が雪で白くなっています。
 谷崎潤一郎文学碑
蘆刈抄
     谷崎潤一郎

 わたしの乗った船が洲へ漕ぎ寄せたとき男山は
あたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして
全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ、
まだどこやら夕ばえの色が残ってゐる中空に暗く濃く黒ずみわたってゐた

(碑文の字は、昭和8年に刊行された潤一郎自筆本による)

 谷崎潤一郎(1886年~1965年)は、関東大震災を契機に関西に移住して以降、
その風土と伝統文化に魅せられ、純日本的、古典的なものを主題とする作品を多数発表した。
小説「蘆刈(あしかり)」は「春琴抄」等とともに女性を讃美し、永遠の美を追究した中期の名作群の一つとされている。
 大山崎から橋本へ渡る淀川の中洲が小説の舞台であり男山と月の描写は小説のもつ夢幻能の効果が考えられている。
 この文学碑は、「やわた文学碑建立事業」の第三基目として、谷崎生誕百年にあたる1986年7月24日に除幕された。
 八幡市
細橋(ささやきばし)
石清水の源流が通っていた渡らずの橋。
(「石清水八幡宮イラストマップ」より)
 護国寺跡
 石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観(じょうがん)元年(859)、
奈良大安寺の僧・行教和尚(ぎょうきょうおしょう)が、
九州の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から、
八幡神(はちまんしん)をこの地に遷(うつ)したのが起源です。
本殿が朝廷により建てられた後、
行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺(ごこくじ)」と名付けたと伝わります。
本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。
 平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、
文化13年(1816)に建てられた本堂の柱を支えた礎石の跡が見つかり、
その内側には地鎮祭(じちんさい)の跡がありました。
銅でできた輪宝(りんぽう)の独鈷杵(とっこしょ)を突き立てる天台宗の方式で、
八角形に配置し、須弥壇(しゅみだん)を取り囲んでいました。
護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却(はきゃく)されました。

■護国寺略年表
貞観18年(876) 石清水八幡宮護国寺の名が正史に見える。
康和5年(1103) 大江匡房(おおえのまさふさ)、十二神将を造立・寄進。
嘉暦元年(1326) 山下の家からの飛火により焼失。
建武元年(1334) 後醍醐天皇臨席のもと護国寺再建供養。
明応3年(1494) 近くの宿坊の失火で焼失。以後長く再建されず。
延宝7年(1679) 仮御堂(薬師堂)が建てられる。
文化13年(1816) 本堂が再興される。
今日、一番訪ねたかった井戸です(^-^)
 石清水八幡宮は、もと男山山中から湧き出る清泉を神として祀ったのが起こりと伝え、
平安時代の貞観(じょうがん)年間(859~876)に奈良大安寺(だいあんじ)の僧行教(ぎょうきょう)
神託により宇佐八幡神を勧請し、石清水八幡宮と称したことに始まります。
 石清水社は、石清水八幡宮の摂社(せっしゃ)の一つで、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)を祀っています。
現在も岩間から清水が湧き出ており、社前の鳥居は寛永12年(1636)京都所司代(しょしだい)板倉重宗が寄進したものです。
  京都府
 東谷 瀧本坊跡
 江戸時代初期に「寛永(かんえい)の三筆」の一人と称された
松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が住職をつとめた坊です。
現代では「松花堂弁当」の由来として有名ですが、
書画だけでなく茶の大成者でもありました。
江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、
将軍の茶道師範でもあった小堀遠州(こぼりえんしゅう)は昭乗の親友で、
この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(かんうんけん)」があり、
詳しい絵図面も残されています。
 平成22年(2010)の発掘調査では、坊跡の地面の上に、南にあった客殿の礎石と、
北には漆喰作りの瓢箪形の池が見つかりました。
さらに、絵図をもとに東の崖の斜面を調査したところ、
建物の柱を支えた礎石の列が30m以上に渡って見つかり、
閑雲軒の北に懸(か)け造りの書院があったことがわかりました。
茶室「閑雲軒」は7mもの柱で支えられ、
床面のほとんどが空中に迫り出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明しました。
子どもの頃、除夜の鐘を聞きながらこの参道を登って家族四人で初詣に行きました。

東谷 泉坊跡
 今から約400年前の江戸時代初期「寛永(かんえい)の三筆」の一人で、
当代一の文化人であった僧侶・松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が、
この坊で晩年を過ごしました。
昭乗は石清水社の隣の「瀧本坊」の住職でしたが、
引退したのち泉坊(いずみぼう)に庵を建て、「松花堂」と名付けました。
 明治時代の神仏分離令で、男山からすべての坊が撤去されることとなり、
今ではここから約2km南にある「松花堂庭園」に、
草庵 松花堂と書院が移築されました。
昭和32年(1957)にはこの地と移築先の2ヵ所が
「松花堂およびその跡」として国の史跡指定を受け、
昭和57・58年(1982-1983)には整備のための発掘調査が行われました。
 草庵・松花堂の手前で発掘された庭(露地 ろじ)の遺構は、
昭乗亡きあと江戸時代後期に作り直されたものですが、
絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています。
末社 大扉稲荷社 
御祭神 御食津神
御神徳
商売繁昌の神様
安居橋(あんごばし)
 安居(あんご)の名の由来には、諸説があります。
 一説では、鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたと言われています。
 また、かつてすぐ川下にあった「五位橋」に相対する
仮の橋として造られたため「相五位橋(あいごいばし)」と呼ばれ、
これが変化して安居橋と呼ばれるようになったとの説もあります。
 江戸時代はじめには、この場所に橋が架けられていたことが古絵図で確認できますが、
構造は反り橋でなく、平橋で描かれています。 
 元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景のひとつとして選ばれ、数々の歌が詠まれています。
 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが、
古くから「高橋」という反り橋(太鼓橋)が約150m川下にあったことから、
この高橋を偲ばせる形で再興されました。
 現在は石清水八幡宮の神事である石清水祭(放生会)の舞台として親しまれています。
   八幡市
能蓮法師歌碑
石清水清き流れの絶えせねば
やどる月さえ隈なかりけり

 この歌は、文治元年(1185年)9月に催された
石清水八幡宮の歌合わせにおいて
能蓮法師が詠んだもので、千載和歌集に収められている。
 能蓮法師は、平安時代後期の歌僧で、
出家前は因幡守能盛(いなばのかみよしもり)と称し、
鳥取の国守として山陰地方を治めていた人で、
千載和歌集は藤原俊成(しゅんぜい)が正暦年間(990-995年)から
文治にいたる約200年間の歌から撰集し、
文治4年(1188年)4月に世に出されたものである。
 この歌碑は、「やわた文学碑建立事業」の第4基目として、
1987年の中秋名月の日(10月7日)に除幕したものである。
  八幡市

注) 説明板(木製)は、長年風雨にさらされて文字が不鮮明になっていました。
読み間違えがあると思います。

 巻第二十 神祇歌
  石清水社に歌合とて人々よみ侍りける時、
  社頭ノ月といへる心をよめる
     能蓮法師俗名能盛
石清水きよき流れの絶えせねばやどる月さへくまなかりけり

大意―石清水の清い流れは絶えないから、宿る月さえも曇りなく明るい。
(『千載和歌集』藤原俊成 撰、久保田淳 校注 岩波文庫 1986年)
「石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)」(7月10日の記事
神應寺(じんのうじ)を 7月10日に訪ねたときは、通り過ぎたのですが…
 男山の最北端の山塊、石清水八幡宮の本殿と谷をへだてた鶴ヶ峰に、
行教が開いたという神応寺がある。
小ぢんまりとした禅寺であるが寺宝が多い。
この寺は最初は応神天皇の位牌所として応神寺と称していたが、
それでは憚(はばか)りがあるというので字を逆にして神応寺としたという。

 神応寺に行教の坐像と伝える平安初期の木像がある。
高さ77センチの像で、剃髪(ていはつ)をし法衣をつけ左手に経巻をもった姿である。
 ぼくはこの像を拝見したとき、これは一般的な神像ではなく、
行教の個性をよくとらえた肖像だと強く感じた。
というより、古代の肖像のなかでも抜群の力強さを感じた。
石清水にとっての行教の果たした役割を考えるとき、
今日まで伝えられたのは当然のこととも感じた。
 この像は石清水八幡宮の開山堂に安置されていた。
ところが明治初年に廃仏毀釈の風潮がたかまるとこの像にも危害がおよびかけ、
頭上に烏帽子を釘打ちされて難を逃れたという。
そのような嵐のなか神応寺に移され今日に至ったという。
(『京都の歴史を足元からさぐる 第5巻
    宇治・筒木・相楽の巻』森浩一 学生社 2009年)

 「淀君茶室の庭石」

男山ケーブルの下を通って石清水八幡宮へのハイキングコースになっています(こもれびルート)。

 一ノ鳥居
表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、
高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製。
最初は木製でしたが、寛永13(1636)年に
松花堂昭乗(1548~1639)の発案により石鳥居に造り替えられました。

この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は、一条天皇(980~1011)の勅額で、
長徳年間(995~999)に小野道風・藤原佐理とともに平安の三蹟と称えられる藤原行成(972~1027)が
天皇の勅を奉じて筆を執ったものでしたが、
現在の額は寛永の三筆と称された松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したものです。
特に「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外に向けた独特のデザインとなっています。
(石清水八幡宮「境内のご案内」より)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    冬晴れのいいお天気ですね。
    空の色がとても青く感じます。

    こちらは雪の朝でしたが、10時頃からは青空の時間もありました。
    日差しもかなり高くなった感じがします。

    >八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外に向けた
    そうだったんですね。
    初めて気づかせてもらいました。
    石清水八幡宮へは、香里園に居た頃にお参りしたことがあります。
    ケーブルカーに乗ったことだけは覚えているのですが。。。(^-^;
    見どころがいっぱいありましたね。



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    1. カイさんこんばんは(*^O^*)/

      寒さが厳しいですよね…
      今までに霙混じりの雨は降ったのですが、雪はまだです。
      昨日は、遠く京都の山々が白く見えました。
      山を歩いていたときが懐かしく思い出されました(^。^)

      σ(^_^;も「八」の字が鳩とは気がついていましたが
      「向かい合い顔だけを外に向けた独特のデザイン」だということは
      転記していて気がつきました。
      仲が悪いのではなく、顔をつき合わせると恥ずかしいのかな(^_-)
      鳩がイチャイチャしているのを何度か目撃しているのですが
      周りの目をまったく無視しています(^▽^)
      2017年3月19日の記事にその様子を載せています。
      http://kazenosanpo.blogspot.jp/2017/03/blog-post_19.html

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