竈神殿(そうじんでん)に掲示されている言葉
何事も入りたたぬさましたるぞよき 吉田兼好
【意味】
人より少し知っているからといって、得意になって話さないほうがいい。
物事を深く知っていることは良いことだが、やたらと自慢しては疎まれるものだ。
【出典】『徒然草七十九段』
吉田兼好
弘安6年(1283)頃~正平5年・観応元年(1350)頃
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家、
本名は卜部兼好(うらべかねよし)。
卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家・平野家などに分かれ、
兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は
吉田兼好と通称されるようになった。
日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、
第52段には仁和寺の僧が石清水八幡宮を訪れたものの
山上の本宮に参拝せずに帰ってしまったという失敗談が記されている。
父と男山ケーブルに乗って石清水八幡宮にやってきました。
先日、父が徳之島に行き、伯母と最後のお別れをすることができました
(伯母は3時間後に旅立ちました)。
伯母と最後のお別れができたことのお礼にお参りにきました。
日曜日ということもあって初宮参りにこられていました。
西谷・小塔跡(史跡 石清水八幡宮境内④)
当初より、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の宮寺(みやでら)であった石清水八幡宮の御本社西側、
「西谷」には、早くも平安時代中期から仏堂建立が始まった地区です。
今から900年程前の平安時代後期、白河法皇(しらかわほうおう)が
大塔(だいとう)の建立(こんりゅう)を発願(ほつがん)したことをきっかけに、
谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔(しょうとう)、
鎌倉時代には八角堂(はっかくどう)など、数々の仏塔や仏堂が建立されました。
小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(たいけんもんいん 藤原璋子 たまこ)の発願により、
長承(ちょうしょう)元年(1132)にこの付近に建てられ、
文禄(ぶんろく)5年(慶長 けいちょう 元年・1596)の「慶長の大地震」で倒壊したまま再建されませんでした。
大塔より小型の「多宝塔(たほうとう)」と呼ばれる形式の塔でした。
エジソン記念碑
西暦1879年にトーマス・アルバ・エジソンが灯火の革命ともいえる炭素白熱電球を発明し
この石清水八幡宮境内に生えている竹が電球の命ともいわれるフィラメントの材料として最も適していることを知り
電球発明の翌年から十数年も永い間この竹を使ってたくさんの炭素電球を造り世界の人々に電灯のありがたさを知らされました。
つまり、この八幡の竹が炭素発熱電球の実用化に大きな役目をつとめたのです。
そこで1929年に電灯発明50年を記念して世界各国で電灯黄金祭が催された時、
日本もこれに加わり記念事業の一つとして電球の発明と切っても切れない関係にあるこの土地に
記念碑を建てエジソンの功績を永久に伝え讃えることになったのです。
最初に建てられたのはこの境内北側に続く場所でしたがエジソン彰徳会の手で
昭和33年にここに移され更に昭和59年10月に現在の姿に再建されました。
上の札に「男山散策路ひだまりルート 走上リバス停約15分」
下の札には「男山レクセンを経て京坂八幡市駅 約30分」
(石の柱には「男山散策路こもれびルート」と書いてあったのを後で気がついた…)
今日のように暑い日には、木影がありがたいなと思いながら歩いていました。
竹で左の道(作業用の道?)に行かないようにと防いでいました。
発病前、山歩きをよくしていましたが、低山程道に迷うことが多かったです。
「願かけ 石不動堂 ご命日 三 十六 二十八日」の石柱がありました。
「昭和10年3月吉日 為病気平癒報恩謝徳」の絵馬が奉納されていました。
本堂の裏に祠がありました。
民家のある場所に着きました。
本当は、別の所に着くはずだったけど…
東高野街道 金剛律寺故址のそばにあったバラは
アンネのバラ 学名 Souv.d' Anne Frank
「あなたのできる範囲でいいのです。
アンネが書いた日記によって、あなたが平和と友愛のために努力してくださることを祈ります」
アンネのバラを全世界に広めた父 オットー・フランクの言葉から
ピース八幡
安居橋(あんごばし)
安居(あんご)の名の由来には、諸説があります。
一説では、鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたと言われています。
また、かつてすぐ川下にあった「五位橋」に相対する仮の橋として造られたため「相五位橋(あいごいばし)」と呼ばれ、
これが変化して安居橋と呼ばれるようになったとの説もあります。
江戸時代はじめには、この場所に橋が架けられていたことが古絵図で確認できますが、
構造は反り橋でなく、平橋で描かれています。
元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景のひとつとして選ばれ、数々の歌が詠まれています。
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで焼失しましたが、
古くから「高橋」という反り橋(太鼓橋)が約150m川下にあったことから、
この高橋を偲ばせる形で再興されました。
現在は石清水八幡宮の神事である石清水祭(放生会)の舞台として親しまれています。
八幡市
高良社(こうらしゃ)
石清水八幡宮の摂社で高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀る。
豊前国(現大分県)宇佐八幡宮より八幡大神(はちまんおおかみ)を
勧請(かんじょう)した行教和尚(ぎょうきょうわじょう)が、
貞観2年(860)6月15日に社殿を建立したと伝えられ、
吉田兼好の『徒然草』にもその名が見える。
往時は頓宮・極楽寺と共に荘厳を極めていたが、
慶応4年(1868)戊辰戦争の兵火に罹り焼失、
現在の社殿は明治17年(1884)に再建されたもので、
一間社入母屋造檜皮葺(いりもやづくりひわだぶき)である。
また、高良社は八幡の産土神(うぶすながみ)として崇敬も篤く、
毎年7月17,18日の例祭日には、「ヨッサーヨッサー」の勇壮な掛け声中、
市内各区より太鼓神輿(たいこみこし)が担ぎ出され賑わう。
「タブの木 御神木 樹齢700年」
ワンちゃんの鼻に注連縄がかかっているように見えました。
石清水八幡宮五輪塔(航海記念塔)
高さ約6m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)一辺2.4m、
全国最大規模の鎌倉時代の五輪石塔で、国の重要文化財に指定されている。
石塔の各部分は、下から地・水・火・風・空の五大要素を表している。
地輪は、数個の石を方形に組み、水輪は背が低く安定感のある球形をしており、
火輪の笠石は軒が厚く、形のよい反りをしている。
摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈つて海難を逃れ、
その恩に報いるため建立されたつ伝える。
航海の安全を祈つて参詣され、航海記念塔とも称される。
この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまつたので、
竹で作つた綱で引いたという話もある。
また、忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。
そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、
石清水八幡宮を勧請した行教律師の墓であるとか、
刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。
1992年3月 八幡市教育委員会
神應寺(じんのうじ)
じつは今日の予定はこの石段を降りてくるコースを歩くはずでした…エジソン記念碑から「こもれびルート」を歩くつもりで
「ひだまりルート」を歩いてしまいました。
よく早とちりをするので発病前に山を歩いているときも
コースを間違えることが多かったです(町歩きでもよく迷う…)。
『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」(52段)のことを笑えません(^0^;)
一ノ鳥居
歴史秘話ヒストリア「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」の中で鎌倉の鶴岡八幡宮の掲額は元「八幡宮寺」とあったのが
明治の神仏分離のために「寺」の字が削られたことが紹介されていました。
4年前何必館(かひつかん)の展覧会で見た
ロベール・ドアノー(ROBERT DOISNEAU)の
「市役所前のキス(1950年)」が飾られている。
八幡市駅前の「カフェ・キャンドル」でカレーを食べました(^-^)
ここはエジソン通りと名づけられていました。
エジソンの胸像には
それは1880年のことエジソンと八幡男山の竹
このふたつの優れた素質が結びついて電球の輝きが人類のものとなった
八幡市民はふるさとが世界の希望の光をもたらす起源になったことを喜び
誇りをかけて平和な都市づくりをめざしている
引窓 南邸(ひきまど みなみてい)の碑
碑文
正面「引窓南邸跡 西二丁 常昌院 南一丁 神應寺」
裏面「昭和二年九月 京都 三宅安兵衛依遺志建立」
人形浄瑠璃の演目「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」の有名な場面に、
八幡の里が舞台の「引窓」があります。
寛延2年(1749)より度々上演されてきました。
引窓とは、紐を引いて開閉する天窓のこと。
母が後妻に入った南氏の邸宅で、追われる実の息子と、
捕縛(ほばく)の役目を負いながら葛藤の末に
見逃す義理の息子の人情を描いたストーリーは、
放生会(現在の勅祭・石清水祭)が行われた八幡市八幡高坊周辺にあった家をモデルに着想されたと伝わります。
石碑は昭和2年頃、現在より50m西側に建てられましたが、
平成28年現在地に移設しました。 八幡市