Eテレ0655の「朝めし前クイズ」で
毎月22日は「ショートケーキの日」一体なんでだ?と聞かれて???
ヒントでカレンダーをみたら分かるかもと言われて見ても???
番組の最後に教えてもらうまで???でした(^^ゞ
一方、妹はすぐにわかったΣ(゚Д゚)
浮世絵EDO-LIFE「山くじらって?!広重“名所江戸百景 びくにはし雪中”」
「山くじら」って分かりますか(^_-)-☆
次回は「赤ちゃん誕生!春信“婚礼錦貞女車 七 初産”」
牛鍋を食べるようになったのは、明治になってからだと思われがちですが
『福翁(ふくおう)自伝』を見ているとそうとばかりは言えないみたいです。
(アオジ)
年表を見て見ると
「安政4(1857)年 24歳 緒方塾に在学、この年塾長となる。」
福沢諭吉が塾長になった頃のことを転記しますφ(..)
(緒方塾<適塾>には2014年9月23日に訪ねています)
緒方の塾風
そう言えば何か私が緒方塾の塾長で頻(しき)りに威張って自然に塾の風を矯正したように聞こゆるけれども、また一方から見れば、酒を飲むことでは随分塾風を荒らしたこともあろうと思う。
塾長になっても相変(あいか)わらず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮らしている。
私は塾長になってから表向きに先生家(か)の賄(まかない)を受けて、その上に新書生が入門するとき、先生家に束脩(そくしゅう)を納めて同時に塾長へも金弐朱を呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭(こづかいぜに)には沢山で、これが大抵酒の代(だい)になる。
(『新訂 福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫 1978年、2008年改版)
衣服(キモノ)は国の母が手織木綿の品を送ってくれて、それには心配がないから、少しでも手もとに金があれば直(すぐ)に飲むことを考える。
これがためには同窓生の中で私に誘われてツイツイ飲んだ者も多かろう。
さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独(ひと)り飲む。
それから少し都合の宜(よ)い時には、一朱か二朱もって一寸(ちょい)と料理茶屋に行く。
これは最上の奢(おご)りで容易に出来かねるから、まず度々(たびたび)行くのは鶏肉屋(トリヤ)、それからモット便利なのは牛肉屋だ。
そのとき大阪中で牛鍋(うしなべ)を食わせる所はただ二軒ある。
一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、一軒は新町の廓(くるわ)の側(そば)にあって、最下等の店だから、凡(およ)そ人間らしい人で出入(でいり)する者は決してない。
(カワラヒワ)
文身(ホリモノ)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ。
どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんなことには頓着(とんじゃく)なし。
一人前百五十文ばかりで牛肉と酒を飯と十分の飲食であったが、牛は随分硬(かた)くて臭かった。
(『新訂 福翁自伝』福沢諭吉 岩波文庫 1978年、2008年改版)
この後、「豚を殺す」「熊の解剖」などの話が続きます。
ぶん-しん【文身】
(「文」は模様の意)身体に彫りものをすること。
また、その彫りもの。いれずみ。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
江戸時代には「薬食ひ」といって、肉食をしていたようです。
「浮世絵EDO-LIFE」の番組の中でいろんな獣肉が食べられていたと…
『江戸食べもの誌』より「ももんじ屋」を転記しますφ(..)
(河出書房新社より復刊したようですが、それも「品切れ・重版未定」になっています)
ももんじ屋
野猪の蘇生
ある狩師、猪を見つけ、打ち取らんと思ひ、あわてて玉を忘れ、空鉄砲をはなしける。
うろたへたる猪にて、驚き死しけり。
かかるところへ、猪買い来りければ、幸ひと思ひたりけるが、
買い手「なんと、この猪には、鉄砲の創(きず)もなし。何時死んだも知れぬ。古うはないか」といへば、
狩師「たつた今、うちました」
「いや、古そうな」とて引返しみれば、かの猪、むくむくと起きあがり、山をさして逃げる。
狩師、指さして、「あの新しさを御覧ぜ」。
(宝永4年刊『露休置土産』)
上方落語「池田の猪買い」の原話だが、たしかに、これ以上新しい猪肉はあるまい。
江戸時代には、一般的に獣肉は食べない習慣だったが、栄養のために、猪の肉などは薬食いと称して食べていた。
(『江戸食べもの誌』興津要 作品社 1981年)
薬食ひ
「これ八ぼうや、今夜は、かしはめん鳥で一盃呑むつもりだ」
八「吉、よしにしやれ、今年は酉(とり)のとしだ」
吉「はて、酉のとしだから酉を食ふは」
八「酉の年には、酉を食ふものか」
吉「しれたことよ」
八「そんなら戌(いぬ)の年には犬を食ふか」
吉「戌のとしには、いのししを食ふはな」
八「なるほど、これは、もつともだが、戌の年にいのししを食つて、そして、亥(い)の年には、何を食ふつもりだ」
吉「ハテ知れたこと、亥のとしには、またいりつけ(水気がなくなるまで煮ること)にして食ふはな」。
(寛政13年刊『滑稽好』)
これは<いりつけ>と言わんよりは、<こじつけ>というのに近い。
獣肉一般、または猪の肉を<山くじら>と称したが、
けだもの屋やまと言葉に書いておき (安永五・礼)
の句もあるように、肉を<しし>と読み、猪肉は、<牡丹に唐獅子、竹に虎>の文句にちなんで<牡丹>、鹿肉は、<奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋はかなしき>の古歌から<紅葉>と呼んだ。
吸い物
田舎もの、二、三人づれにて両国をぶらつき、障子に牡丹の花が書いてあるを見て、「あれは、なんでござる。もしや」と往来の人に問へば、「あれは猪の吸いもの、こちらの紅葉は、鹿の吸いものでござりやす」と、教へて通る。
「なるほど、ししにぼたん、鹿にもみじとは、よくしたもんだ」と感心して行く。
向ふを見れば、床(とこ)の障子に水仙の花が書ひてある。
「あれ、あのねぎは、あんだつぺい」
ツレ「あれは、おおかた、まぐろであろふ」。
(天明九年正月序『笑(わらい)の種蒔(たねまき)』)
水仙の花をねぎかと錯覚したところから、ねぎでまぐろを連想し、ねぎま鍋に思いをはせたのだった。
『再校 江戸砂子』(明和9年)に、「〇 獣店平河町三丁目にあり、毎年冬より春まで獣をひさぐ店おほし」とあるように、江戸時代には、麹町平河町の店が有名で、
狩り場ほどぶつ積ん置く麹町 (明和六年・礼)
の句もあるが、このほか、右の小咄にもあるように、両国橋たもとの豊田屋、神田錦町の港屋、鍛冶橋槇町の尾張屋などもあった。
ただし、現在では、墨田区両国一丁目―10の豊田屋が営業をつづけているにすぎない。
この種の店を<ももんじ屋>と称するのは、獣肉を、ももんじい(妖怪)と見なしてのことだった。
<ももんじい>とは、ムササビ科に属するモモンガアとも関係あることばだが、いずれにしても、毛の生えた、妖怪のごとく恐ろしものを意味していた。
そこで、
振り袖に似合はぬ所(とこ)はももんじい (末摘花4)
の句もあるのだが、この句は、振り袖を着て、いかにも純真な小娘のように見せている踊り子は、じつに、年を経た<ももんじい>のように、海千山千の恐るべき女だとの意味だった。
(後略)
(『江戸食べもの誌』興津要 作品社 1981年)
「『山くじら』を食べるのは、日本の食文化。」(クリナップ)
今朝の父の一枚です(^^)v
父もジョウビタキに出会っていました。
「朝めし前クイズ」の答えは、カレンダーを見ると「22」の上に「15」がある。
つまり「15(イチゴ)」が上に乗っているので「ショートケーキの日」なんだそうです(*´▽`*)
語呂合わせは日本語の面白さなんですが、他の国ではどうなのかな(・・?
浮世絵の中に「十三里」って出てくるのですが、江戸っ子のしゃれっ気が分かりますか?
分からない人は、Eテレ24日(金)午前11時45分~に再放送がありますよ(^^)/