なんか久しぶりに霜がおりていました。
暖冬が続いていてこの調子で夏がくるとどうなるんだろうと心配になります(^-^;
昨夜の
ブラタモリ「浜名湖~“ウナギといえば浜名湖”なのはなぜ?~」
タモリさんの知識はすごいなと思ったのは
最後の「今切」を見て、明応大地震・大津波と答えておられた。
明応大地震について知らなかったので午後から調べに行くと
『中世 災害・戦乱の社会史』という本がありました。
「明応7年東海大地震津波と太平洋水運」を転記したいと思いますφ(..)
なお、古文書の返り点などは「(一)、(レ)」などで表記します。
「今切変遷図」(浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)
明応7年東海大地震津波と太平洋水運
明応7年(1498)8月25日に遠州灘(えんしゅうなだ)を震源地とする推定マグニチュード8.2~8.4の大地震が発生、大津波を起こし、その被害は西は紀伊半島の紀ノ川流域から東は三浦半島・房総半島の広域に及んだ。
この地震は、多くの日記・年代記などに記録されている。
(『中世 災害・戦乱の社会史』峰岸純夫 吉川弘文館 2011年)
近衛政家(このえまさいえ)は、『後法興院記(ごほうこういんき)』に鳴動の時分に「カラカサ」(唐傘)のような「光物」が飛び、余震が10月中旬まで及び、その被害が次のようなものであったと記している。
伊勢・参河・駿河・伊豆大浪打(二)寄海辺(一)、二、三十町之民屋悉溺(レ)水、数千人没(レ)命、其外牛馬類不(レ)知(二)其数(一)云々、前代未聞也、
また、「歴仁以来年代記(れきにんいらいねんだいき)」は、「此時伊勢国大湊悉滅却、其外三川・紀伊諸国之浦津、高塩充満而滅亡云々」と記している。
「皇代記(こうだいき)」によると、伊勢国大湊(おおみなと)では八幡林の松の梢を大船が越えて長居郷(ながいごう)まで入りこむ程で、家1000軒余、男女5000余人が流失し、志摩国では荒嶋(あらしま <安楽島、鳥羽の東)で250人死亡、その他海辺の郷は100人、50人と死亡、中でも達志島(とうしじま <答志島>)・国府(こう <的矢湾南>)・相差(おうさ <的矢湾入口北>)・麻生浦(おうのうら <鳥羽の東南>)・小浜(おはま <鳥羽の北海岸>)などの被害が大きく、三河国片浜(かたはま <渥美半島南岸、田原町>)、遠江国柿基小川(おがわ)は、「一向人境亡」となったという。
伊勢国大湊では「高塩」によって家1000軒と5000人が流失し、その他、伊勢・志摩において、およそ1万人の流死者が出たという。
志摩の国崎(くにざき <志摩半島の東突端>)では、ほとんどの家・人が流失し、伊勢大神宮への「御贄(みにえ)」が納められなくなった(「内宮子良館記」)。
大湊の西に接する大塩屋(おおしおや)では、塩田が壊滅し180軒余が流失、残った家は大湊に移転したという(「太田文章」)。
安濃津(あのつ)は、地震津波によって破壊され寒村と化した。
大永6年(1526)に連歌師宗長(そうちょう)がここを通り過ぎた時、「此津十余年以来荒野となりて、四、五千軒の家、堂塔跡のみ」(「早朝手記」)と記され、残った住民は新安濃津に移転している(『津市史』)。
遠江では、前坂(まいさか <舞坂>)と橋本(はしもと)の間が地震津波によって切断されて一里余の渡し(今切)となり浜名湖が入り海となった(『続史愚抄』「東栄鑑」「遠江国風土記伝」など)。
駿河国では、村松(むらまつ)の海長寺(かいちょうじ)が地震津波によって倒壊・流失した。
師の日円(にちえん)は小川(こがわ)の末寺で法要を営(いとな)んでいたところ津波にあって流死し、弟子の日海(にちかい)は甲斐の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)で修行中にこの地震にあい、久遠寺の堂舎の倒壊を眼前にして帰郷したところ、自分の寺も地震津波で全壊していたので、それを再建したという(「日海記」)。
この村松の海長寺は、当時繁栄した入江荘江尻湊(いりえのしょうえじりみなと <後の清水港>)の西南岸にあり、このことから、江尻湊の地震津波の被災状況が推察されると思う。
また同国志太郡小川(しだぐんこがわ)東浜(焼津市南部)の林叟院(りんそういん)はその寺地を北の高草山(たかくさやま)に移転した翌年に、旧寺地の地域がこの地震津波で水没し、多くの死者がでたという(『静岡県志田郡史』)。
その他、伊豆国八丈島(はちじょうじま)では、代官長戸路七郎左衛門(ながとろしちろうざえもん)が入部(にゅうぶ)の途中、新島(にいじま)「ナカクラ」にて地震津波に襲われ船と荷物を失い、その際に水夫一人が死亡しており、この津波は伊豆国の各地に被害を与えたという(「八丈島年代記」)。
相模国鎌倉由比が浜では、地震津波が「千度檀」(若宮大路)にまで達し、その水勢は長谷(はせ)の大仏殿の堂舎屋を破壊し、200余人の溺死者を出したという(「鎌倉大日記」)。
安房国では、安房郡小湊(あわぐんこみなと)の誕生寺(たんじょうじ)が地震津波によって水没し、妙ノ浦(たいのうら <鯛ノ浦>)の岡に移転した(「内浦村絵図面」)。
明応7年の大地震津波は、その強度、被害の状況において中世における最大規模のものと考えられ、近畿・東海・関東の太平洋岸各地に与えた被害は甚大なものがある。
このことは地震研究者によって以前から注目されていたが、歴史研究者による本格的研究は、矢田俊文「明応七年紀州における地震津波と和田浦」(『和歌山地方史研究』21号、1991年)が唯一のもであろう。
矢田は、当時の紀ノ川河口は大きく蛇行(だこう)して現在の土入川筋(どうにゅうがわすじ)から和歌川筋(わかがわすじ)・水軒川筋(すけんがわすじ)を経て、それぞれ和歌浦(わかうら)・雑賀崎(さいがざき)方面に南流していたのが、明応の地震津波によって海岸砂丘が突き破られ、紀伊水道に直角に西流するようになったと論じている。
そして、土入川筋にある湊として繁栄していた和田浦鶉ノ島(わだうらうずらのしま)地区が地震津波による破壊によって、現在の紀ノ川南岸の湊浦(みなとうら)に移転したことを、『紀伊続風土記(きいぞくふどき)』『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』などの町・寺社の移転伝承に基づいて立証している。
地震津波は紀伊水道に侵入し、田倉崎(たくらざき)・淡路島のラインに阻止されて紀ノ川河口を直撃して甚大(じんだい)な被害を与えたと思われる。
この紀ノ川河口の場合が、明応地震津波が史料に認められる西限である。
以上述べたように、明応7年の大地震津波は、西は紀ノ川河口から東は房総半島南岸に至るまでの各地で確認され、太平洋沿岸の広域にわたり甚大な被害を与えた。
矢田氏の研究に学んで各地域の検討が要請されるが、同時にこの地震が当時活発に展開されていた太平洋側の水運に与えた破壊的影響について考える必要があると思う。
「伊勢大湊悉滅却、其外三川(三河)・紀伊諸国之浦高塩充満滅亡(「暦仁以来年代記」)」と記されたように、伊勢・紀伊・三河の湊・津・浦、あるいは江尻や鎌倉の和賀江島(わかえじま)の破壊が行われ、港湾施設、船舶、問屋、梶取・水夫などの水運従事者に多大の損害を与えた。
その点で、それ以前の水運の展開を以後に引き続いて認めることは困難であろう。
15世紀と16世紀の断絶は甚大なもので、その克服は長い期間を要し、極言すれば近世に至るまで15世紀の旧状への復帰は不可能であったと考えられる。
とはいえ、それは伊勢湾~江戸湾交通が全く断絶したことを意味しない。
醍醐寺(だいごじ)の暁雅僧正(ぎょうがそうじょう)は、天正4年(1576)6月12日に醍醐を出発し下総(しもうさ)行きの旅に出たが、伊勢から船に乗り途中の湊(江尻か)で一泊、船中二泊、稀に早く4日の船路で品川に着き、そこから栗橋(くりはし)の実相院(じっそういん)、水海(みずうみ)の昌福寺(しょうふくじ)、古河(こが)の円福寺(えんぷくじ)、山川(やまかわ)の結城寺(ゆうきじ)などを訪れている。
この時、「先雖(レ)被(レ)趣(二)中山道(一)依(二)不通(一)、又自(二)伊勢(一)乗船、着(二)武州品川(一)云々(「暁雅僧正関東東御下向四度之記」)と記し、当初は中山道(なかせんどう)で行こうとしたが、陸路が不通であったので、伊勢へ引き返し、海路を取ったという。
このことから、陸路と海路が相互補完的になっていたことがわかる。
またこの時期になると、太平洋水運のある程度の回復を認めることができると思う。
15・16世紀を境とする伊勢~関東の太平洋水運の断絶状況は、大地震津波の被災を直接の契機にしながらも、伊勢大神宮権力の衰退、北条氏の伊豆制圧、鎌倉府体制の崩壊そして各地の戦国大名による領国・領海の確保と争覇などが絡(から)み合って進行していったと推定され、その様相が一変していくものと考えられる。
(『中世 災害・戦乱の社会史』峰岸純夫 吉川弘文館 2011年)
タモリさんも話していましたが、日本は自然災害の多い国です。
と同時に、恩恵も受けています。
「防災」という言葉をよく見聞きしますが、「災害を防ぐ」ことは出来ないと思います。
人間の知恵は、自然の前には無力です。
それよりも災害が起きたときに、少しでも被害を減じるようにする発想をした方がいいと思います。
「防災」よりも「減災」
例えば、防波堤を高く築くよりも
海岸から高台への避難路を直線で広くするなどの整備の方が現実的だと思うのですが…
〝台風19号で津波対策の堤防障害に 岩手・山田で水せき止め70戸超被害 「人災」住民から批判〟(河北新報)