2020年1月17日金曜日

雨が降る予報だったけど…

と言うことで望遠レンズを諦めて50㎜マクロで撮影することにしました。
立ち話をよくするご夫婦にお会いしたので
「ツバキの蜜を舐めたこと有りますか?」とお聞きすると
奥さんが、田舎で子どもの頃に舐めたことがあると懐かしそうにお話しされたので
紅い椿から蜜が溢れている所を教えてあげました。
キョロキョロしながら歩いていると白いツバキからも蜜が溢れているのを発見(^^)v
花言葉は「謙虚な美、控えめな愛、慎み深さ」(森と水の郷あきた)
もう25年になるのですね…
阪神・淡路大震災25年で追悼」(関西NHK)
あの時、「ゴーッ」という音に目が覚めたとたん、激しい揺れに何もすることができなかった。
いつもなら朝食を食べている時間
冷蔵庫の上に置いていたホットプレートが母の椅子を直撃していました。
人の運命は、ちょっとしたことで変わる。
大阪でもひどかったのに被災地の人たちの恐怖はどうだったのか…

日本は、自然災害の国、私の住んでいる大阪も「近畿トライアングル」の中にスッポリ入っている。
ブラタモリ」を見ていると断層という言葉がよく出てきます。
関西地学の旅2 街道と活断層を行く』(絶版)を読むと断層は身近にあることがわかります。
発病前は、このような地形について書かれている本などを参考にして山を歩いていました。
自分が住んでいる地域を走る「生駒(いこま)断層」などについて転記しますφ(..)
なお、図や写真は省略します。
断層と街道の関係
 断層のところは、岩どうしがこすれ合わさっているため、弱くなっていたり、ぼろぼろになっていたりします。
そのためその部分は雨や川の水で浸食されやすく、断層に沿った川や、細長く削られた凹地ができることが多くあります。
断層は直線状にできることが多いので、この凹地も直線状に延び、しかもその断層の部分の高度差が少ないのです。
 このような地形は、人が移動する時にたいへん便利です。
登り降りが少なく回り道をせず、楽に目的地に着くことができます。
これが外的要因(参詣、生活や商業)と一致して、車や鉄道が無かった時代には、人々は当然これらのルートを選んでいわゆる街道として利用したのでしょう。
このため、街道は断層に沿って、通っていることが多いのです。
(『関西地学の旅2 街道と活断層を行く』
  中川康一監修 東方出版 2001年)
活断層は怖くない
 兵庫県南部地震で活断層そのものによる被害はあまりありません。
写真(省略)の野島断層が家の下と通った家くらいで、他に活断層の変動で直接被害を受けた建造物はほとんどありませんでした。
この様に地震での被害は、活断層の場所よりむしろその建物がどのような地盤の上に立っているかの方が大きいことがわかってきました。
 しかし、活断層上や活断層から数十メートルの範囲では、地震にともなってその活断層が上下、あるいは水平方向にいくらかのずれができると、それにともなう被害はおきるでしょう。
ただ、1度の地震で動く活断層は一つか二つというような数ですから、実際にはそれによる被害はわずかで、地盤が柔らかいなど、地盤条件の悪いところに大きな被害が生じます。
 それはこれまで大地震で断層が生じた兵庫県南部地震(1995年)、福井地震(1948年)、北丹後地震(1927年)、濃尾地震(1891年)などでも明らかです。
生駒(いこま)断層 大阪府四条畷市~柏原市
(電車:近鉄奈良線石切駅、近鉄信貴山線信貴山口駅など)

 断層に沿った街道
 生駒山地の西麓に沿って東高野街道が南北に通っています。
東高野街道(旧国道170号線)とは枚方市から河内長野市を経て高野山に至る街道で、高野詣(もう)でが盛んになるにつれて整備されたものです。
高野詣での街道はこの他に中高野街道、西高野街道があります。
守口市から南下する中高野街道と堺を通る西高野街道は狭山市で合流し、さらに河内長野市で東高野街道と一緒になり、紀見峠(きみとうげ)を経て高野山へと続きます。
また、この街道は京へつながっており、重要な街道でもあったようです。
江戸時代におこなわれた大和川付け替え前までは河内地域には深野(ふこの)池、新開(しんがい)池という大きな池があり、河内の南北につなぐ街道は生駒山地の麓を通らざるを得ませんでした。
この街道より山側に多くの古墳が分布するのも当然のことでしょう。
ずいぶんと古くからこの街道は利用されていたようです。

(高野街道については「高野街道を歩く」などのサイトがあります)
生駒断層
 大阪市街地から東を眺めると生駒山を望むことができます。
生駒山地は南北に連なっており、生駒山頂付近は642mの高さがあります。
多くのテレビ塔が立つ生駒山頂は斑(はん)れい岩、山頂の北や南では大阪の基盤岩である領家(りょうけ)花こう岩類が分布しています。
斑れい岩は生駒石とも呼ばれ、たいへん硬いため地元では石垣の石などに利用されています。
 斑れい岩にくらべて花こう岩類の方が風化、浸食されやすく、斑れい岩が分布する生駒山頂付近にくらべて花こう岩類が分布するところはやや低くなっています。
 生駒断層は南北方向に延び、東に傾斜する逆断層で、長さは約20㎞です。
生駒断層は北で交野断層、枚方撓曲(とうきょく <柔かい地層のために断層によって切られずにたわんでいるものを撓曲と呼びます>)へとつながります。
大阪側が急な生駒山地
 生駒山地は東西方向に対称ではなく、大阪側が急傾斜、奈良側が緩やかな傾斜になっています。
生駒山地の西麓を南北に生駒断層が走っています。
生駒断層が過去に何回も動いたために生駒山地が持ち上げられ、大阪側が急傾斜になっているのです。
このような地形を傾動地塊(けいどうちかい)といいます。
大阪から奈良へ行くために近鉄奈良線に乗ると、東大阪の瓢簞山(ひょうたんやま)駅を過ぎたあたりで北に大きくカーブし、電車は生駒山地を斜めに登りはじめます。
このように近鉄線が大きくカーブし、生駒山地を登るのは、大阪側が急傾斜となった傾動地塊の象徴的な光景です。
瓢箪山駅から石切駅までの区間、電車はおおむね生駒断層に沿って走っています。
 近畿トランアングルは東―西方向から押される力が働いていると考えられています。
この力によって南北方向の断層、そして断層活動がつくり出した南北方向の山地が見られます。
断層周辺の地質
 生駒断層をはさんで東側には大阪の基盤岩である領家花こう岩類、西側には数万年前以降の地層が分布し、断層の東側が西側に乗り上げています。
 生駒山地の西麓の大阪経済法科大学付近の花岡山では大阪層群下部層と推定される砂レキ層が分布しています。
この大阪層群下層部は20~50度の傾きで西側に傾斜しており、これは東側が持ち上げられた生駒断層による影響であるという報告があります。
 生駒山地と大阪平野境界付近には複数の断層からなる生駒断層が存在していると言われており、地下の探査によっても堆積層の中に逆断層が確認されています。
断層の活動
 四条畷市南野で実施された生駒断層のトレンチ調査によって100万年~数十万年前の地層が約1万年前以降の沖積層に10~15度の低角度の逆断層でのり上げており、さらにこの断層面を奈良時代の地層が覆っていることが判明しました。
この結果から、生駒断層が最近の活動として2000年前頃~奈良時代に動いたことがわかっています。
 活断層とは第四紀に活動した断層と定義されていますが、第四紀のうちでも最も新しい沖積層を切っているのが確認されたことから生駒断層は間違いなく活断層と断定できます。
また、八尾市でのアイラ火山灰層のずれから最近2万年間のずれの速度は0.12m/1000年と見積もられています。
(『関西地学の旅2 街道と活断層を行く』
  中川康一監修 東方出版 2001年)
断層について知れば知るほど
伊方原発の近くを中央構造線が通っていることに平気でいられません。

 「伊方原発3号機 運転認めない仮処分決定 広島高裁」(NHK)
高裁の段階で仮処分決定が出たことは評価できると思います。
今日、震災25年の日に高裁の決定があったことに意義があると思うのです。
日本で、地震の被害がない場所はないといっていい。
原発安全神話を唱えた人たちは福島原発事故が起きても
日本の原発は安全だと言いきっています。
これだけはいえると思います。
福島原発事故がなければ復興はもっと早まっているはず。
汚染処理水の問題もなかったはず。
地震がいつ起きるか、どれほどの被害が出るのか
現代の科学でも予知はできません。
地震の惨状は『方丈記』や『平家物語』などにも記録されています。
古文書が語る日本災害史、刻まれた「先人の教え」〟(日経新聞)

京都<千年の都>の歴史』より「文禄伏見の地震」を転記しますφ(..)
文禄伏見の地震
 第二期伏見城の工事は、豪華絢爛をめざして続けられ、前年巨椋池(おぐらいけ)の東から北へと迂回(うかい)するよう河道を付け替えた宇治川左岸堤防上の向島(むかいじま)にも普請を拡げた。
秀吉は川を挟んだ二つの城によって、政権の威信を高めることを意図したのである。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)

(「巨椋池の歴史」近畿農政局)
 伏見築城や後述の大仏殿建設の時期は、秀吉の二度にわたる朝鮮侵略の時期と重なる。
文禄5年、苦戦になった第1次の朝鮮での戦争収拾のため、伏見城で明との講和交渉をおこなおうとするが、正使が来る直線の閏七月、畿内一円を大地震が襲う。
下京から伏見にいたる間の被害はとくに大きく、指月城の天守は石垣もろとも崩れ、数百人の圧死者が出た。
地震の規模はマグニチュード7.5前後といわれている。
元暦2年(1185)以後も、京都を襲った大地震には、文保元年(1317)正月、康安(こうあん)元年(1361)6月(南海地震)などがあるが、規模・被害の面でこのたびが格段に大きい。
なお秀吉は向島の水辺に大規模な桜並木を作ろとして失敗し、花見は場所を醍醐にかえて、慶長3年(1598)、大々的に挙行された。
醍醐寺は、応仁の乱で伽藍のほとんどが焼失、寺領も失ったが、座主の義演(ぎえん)が、秀吉の援助を仰いで三宝院を再興し、荒廃していた境内を復興する。
 秀吉は、第二期指月城が壊滅すると、直ちに地盤堅固な背後の木幡山(こはたやま)に敷地を移して、第三期の伏見城(木幡山城)を築きはじめた。
この城は、近代になって、その中心部分に明治天皇の伏見桃山陵が造営されたため、一般の立ち入りが禁止され、遺跡に臨んで自由な研究ができない状態になっている。
第三期伏見城は、秀吉の死後徳川家康が入って政務をみ、関ヶ原の戦の際西軍に焼かれた。
家康はこれを再建し、幕府の畿内における本拠地とする。
最後の第四期である。
 家康が征夷大将軍に任じられたのは江戸ではなく、この伏見においてであり、2年5ヵ月の将軍在職中の大部分も江戸ではなく、伏見に詰めていた。
豊臣氏滅亡後の元和(げんな)6年(1620)、幕府は伏見城を廃し大坂城にその役割を担わせることにし、諸大名に命じて徳川期大坂城を築城した。
伏見城の建物は天守を二条城へ移したのをはじめ、各所に移築する。
廃城後荒廃していた城山に数万本の桃の木が植えられ、花の季節には全山桃色に染まり、人びとが花見に集うようになったのは、17世紀後半である。
桃山時代という時代の区切り方は、陽気で派手好きの秀吉にぴったりだが、当地が桃山の名で親しまれるようになったのは、じつは江戸中期以降だった。
(『京都<千年の都>の歴史』高橋昌明 岩波新書 2014年)

・「第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る」(城びと)