昨日の天気予報では雨でしたが、曇り空で歩けました(^^)v
梅の花の側にハラビロカマキリの卵鞘(らんしょう 黄色の矢印)
卵鞘の中で春がやってくるのを待っている。
台湾の総統選挙の結果を見てホッとしました。
香港、台湾に対する中国のやり方は、沖縄への政府のやり方と重なってくる。
沖縄の住民投票の結果を無視したように
中国政府は、香港や台湾の民意を無視し続けるのだろう。
お金で民の心が操れると考えているのだろうな…
「台湾 蔡総統再選 “圧力強める中国指導部に反対の民意”地元紙」(NHK)
植木雅俊さんのTwitterに
『#貞観政要』について調べると、平安時代に藤原佐世、藤原頼長の記録に書名があり、天皇の必読書だったようだ。
鎌倉時代には源実朝も読み、北条時頼もこれを書写して北条頼嗣に与え、尼将軍平政子は漢文を和訳させて読んだ。
室町時代にも読まれ、徳川家康も愛読。
日蓮が重視していたのは注目に値する。
とあり、植木さんをフォローしている方が
『佐渡御書』の最後に『貞観政要』が出ていると教えて下さったので調べてみましたφ(..)
佐渡御書
(解説)
佐渡流罪四ヵ月後の文永九年(1272)3月20日、弟子一同にあてて書かれた消息である。
弟子の中に、日蓮のあまりにも戦闘的な態度を批判し、もっと柔軟な態度を取ろうといいだす者があり、そのことを日蓮に伝えた者があった。
これはそれに対する痛烈な反撃の消息である。
矛盾した性格が日蓮一身のなかで共在していることがうかがえる貴重な手紙である。
日蓮51歳。
「佐渡御書」
(略)
佐渡の国には紙がない上に、一人一人に申すのも煩わしく、一人でももれては恨まれることになろう。
この文を、志ある人々に寄り合ってごらんになり、よく考えて心をなぐさめてくださるように。
世間により以上の嘆きが出てくれば小さな嘆きは物の数でなくなる。
このたびの合戦(文永九年の北条一門の合戦)に死んだ人々、実否は知らず、どれほど悲しいことであろう。
伊沢の入道、酒部の入道はどうなったであろうか。
河辺(かわのべ)の山城、得行寺殿らのこと、どうなったか書きつけてくださるよう。
外典の書である『貞観政要(じょうがんせいよう)』、すべて外典の物語、八宗の相伝など、これがなくては消息も書けないことゆえ、是非是非お送りくださるように。
(『日本の名著8 日蓮』紀野一義責任編集 中央公論社 昭和45年)
図書室で本を探していると1981年出版と古い本ですが
『集英社版人物中国の歴史6 長安の春秋』(絶版)に太宗のことが載っていました。
(「その治政を『貞観の治』と称えられた 唐の太宗(たいそう) ●谷川道雄」より)
壮大な世界への道
(…略…)
しかし、帝王とても決して神ではない。
人間の常として個人的感情を拭(ぬぐい)い去ることができない。
しかも絶大な権力の所有者である。至公無私の立場はたえず動揺して、皇帝の恣意(しい)の方に傾くのである。
これを規制してつねに正しい立場に立ち返るためには、つとめて臣下の意見に耳を傾けなければならない。
それも特定の臣下の意見だけを聞く(偏信<へんしん>)のではなく、日頃気に入っている者も気に入らぬ者も、ひろくその意見の前に胸を開かねばならない(兼聴<けんちょう>)。
偏信・兼聴とは、太宗が明君と暗君の分れ道を問うたとき、魏徴(ぎちょう)の用いた言葉である。
まことに兼聴こそは、人君が自己の主観的な歪(ゆが)みを正してゆくために必須の方途である。
そしてそれはまた、深宮のなかにある帝王が天下の心をおのれの心としうる唯一の道なのである。
(『集英社版人物中国の歴史6 長安の春秋』駒田信二編 集英社 1981年)
ただ、臣下のなかにも、いろいろな人間がいる。
太宗はつぎのように述懐している。
「人主の心はたったひとつしかないのに、たくさんの者がそれを目がけて攻めてくる。あるいは腕自慢で、あるいは雄弁術で、あるいはへつらいで、ペテンで、誘惑で、とにかく四方八方から攻め立てて自分を売りこみ、高いポストを手に入れようとする。人主が少しでも気をゆるしてその中の一つを受け容れると、そこが国の滅びるもとになるのだ。人主というもののむずかしさはそこにある」
つまり臣下もまた、自己の利益にとらわれない至公無私の臣でなければ、君主にとって有害なのである。
臣下がそのような臣下であるかどうかの基準は、犯顔(はんがん)、つまり君主の機嫌をそこねることでも国家のためにあえて諫言(かんげん)するかどうかにかかっている。
太宗にとって幸いなことに、かれを補佐する大官たちは、例外なくそのような心正しい人びとであった。
房玄齢(ぼうげんれい)、杜如晦(とじょかい)、王珪(おうけい)、柳範、張玄素――数えあげれば限りないが、臣下がそのような臣下であり得たのは、やはり太宗がこれを受け容れたからであった。
かつて煬帝(ようだい)にへつらって寵幸(ちょうこう)を得た裴矩(はいく)でさえも、正面から太宗を諫(いさ)め、太宗もこれに従ったのである。
しかし数多(あまた)の名臣たちのなかでも、もっともきびしかったのは、魏徴(ぎちょう)であった
前にも記したとおり、かれはかつて李密(りみつ)の幕下にあり、唐に帰順したあとは、東宮官として建成に仕えた。
名声の高い世民に対して、建成を引き立てようと何かと努力したのも、かれであった。
玄武門の変のあと、太宗はかれを属僚に用い、以来両者は旧怨を捨てて、信頼のあつい君臣関係を結んだのであった。
魏徴(ぎちょう)の後半生は、太宗を諫(いさ)めることに費やされたと言ってよい。
その諫言が集められて『魏鄭公諫録(ぎていこうかんろく)』という書物になっているくらいである。
しかもその諫言はまことに徹底したものであった。
太宗の逆鱗(げきりん)に触れることを決しておそれなかった。
諫めてもきかれないと、黙りこんで大宗の言葉にも返事をしないことがある。
なまじっか返答すると、反対した事柄が承認と受け取られてしまうというのである。
魏徴もよく諫めたが、太宗もよくそれに堪えた。
しかし時には、その歯に衣(きぬ)着せない直言が、太宗をひどく怒らせることもあった。
「あの田舎おやじめ、きっと殺してやる」
長孫(ちょうそん)皇后がわけをたずねると、
「あの魏徴のやつのために、おれは朝廷で恥をかかされどおしだ」
この事件は聡明な皇后のとりなしで無事におさまるのであるが、それにしても、何という君臣のきびしい関係であろう。
「君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり」(『論語』「顔淵(がんえん)篇)。
中国の人びとが長い間つちかって来たモラルが、いま朝廷の奥ふかく火花を散らしているのである。
君は何ゆえに君たらねばならないのか。
さきの太宗自身のことばを援用するならば、営々と働いて衣服の資を供してくれる人民のためである。
そしてそれが、天の意志でもあると、経典は教えている。
無数の民の労働のきびしさの対極には、一人の帝王のモラルのきびしさがある。
農村が蝗害(こうがい)で苦しんだある年、太宗が「民の穀物を食うくらいなら、私の膓(はらわた)を食ってくれ」とまじないを唱えて蝗(いなご)を何匹か呑みこんだ話はよく知られている。
至公無私――言うはやさしいが、実行はきわめてむずかしい。
太宗は、自分の学識や才能をあらわすことさえ、諫臣(かんしん)たちによって封ぜられてしまう。
かれは軍事の天才であるばかりでなく、学問を好み、書をよくした。
かれが秦(しん)王時代から顧問として幕下においたいわゆる十八学士は、当時の錚々(そうそう)たる学者・文人である。
かれが王義之(おうぎし)の書を熱愛したことは、ここに説くまでもない。
太宗が死後文皇帝と諡(おくりな)されるのも、その治世全体が「文」であったと同時に、かれ自身が「文」として生きたからである。
そうしたかれの学才が臣下とのやりとりのなかに表現されてくる。
臣下が何かまちがったことを言うと、古今の例を引いて指摘する。
しかも弁舌たくみなので、大抵の者が恐れ入って何も言えなくなってしまう。
そこで劉洎(りゅうき)がこれを諫めると、太宗は以後つつしむことを約束したのである。
太宗が一貫してこのような自己抑制をやり遂げたと考えるならば、それは実情に反するのであろう。
かれにもさまざまな人間的弱点があって、しばしばこれを露呈した。
欲望の抑えがきかなくなるときもあった。
治世の後半は、前半に比べて弛緩(しかん)しがちであった。
それにもかかわらず、至公無私を目ざす生き方は、基本的には変更がなかったと言える。
(『集英社版人物中国の歴史6 長安の春秋』駒田信二編 集英社 1981年)
転記しながら日本、中国、アメリカの指導者の顔が浮かんで仕方なかったです。
まだ続きがありますので、後日転記したいと思います。
Eテレ100分de名著「貞観政要 第2回 判断の座標軸をもて」が
明日、午後10時25分から放送されます。
今朝の父の一枚です(^^)v
ちょっと分かりにくいかもしれませんがカワセミを写してました。
途中で出会った時にカワセミを写せないで悔しがっていました。
その後、再び会えて写せたのです。
父の使っているコンデジの焦点距離は28mm~112mm相当です。
それでも野鳥に出会って写すのを楽しんでいます。
昨日、メジロを写していたときに後ろで「メジロか…」という声。
超望遠で撮影されている方の呟きです。
メジロは、珍しくないかもしれませんが
私にすれば鳥と出会えるだけで嬉しいのだけどなぁ…