2020年1月14日火曜日

午後から来ると…

朝、体調が悪くなったので様子を見ていました。
午後からだいぶ楽になったので出かけました。
曇り空で今にも降りだしそう…
暗くてピントを合わせたくても合っているのかどうかが分からない(-_-;)
小鳥たちにもなかなか会えず、会ってもカメラを構える前に…(T_T)
何も写さずに歩くとオバーペースになり息が上がるので
訪問してくださった方には
何を撮っているのだろうと疑問に思われる画像が
幾つもありますが、ご了承くださいm(__)m
先日から太宗(李世民<りせいみん>)や魏徴(ぎちょう)などの臣下を紹介していますが、
貞観政要』(ちくま学芸文庫)の解題に文徳(ぶんとく)皇后について書かれていました。
(この本は、出口治明さんも推薦されています)
100分de名著「呉兢 貞観政要」でも武則天(ぶそくてん)は登場しますが…
時間的な制約で文徳皇后にまでふれる時間がないと思います。
文徳皇后
(前略)
ここでどうしても挙げておかなければならないのは、内助の功をうたわれた文徳皇后の存在である。
 太宗は、その妃・文徳皇后が貞観10年36歳の若さで没したとき、「一良佐(りょうさ <佐は補佐役>)を失ったと嘆き悲しんでいるが、これはたしかに掛け値なしの歎息だったと思われる。
それだけ、太宗にとって、文徳皇后の存在は大きかった。
(『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
 文徳皇后は13歳で太宗に嫁して以来、つねに倹約を守り、読書に励みながら、内助につとめた。
太宗と太子建成(けんせい)の仲が険悪になったときのこと、皇后は義父にあたる高祖(こうそ)によく仕え、また高祖の妃嬪(ひひん)にうまくとりいって、夫に対する風当たりを和らげた。
「玄武門(げんぶもん)の変」にさいしても、部下の将兵に対して「后、親しく慰め、これを勉(はげま)す。左右、感激せざるなし」(『旧唐書』)と内助の功を発揮した。
 あるとき太宗が臣下に対する賞罰について皇后にはかったところ、「牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するは、これ家の索(つ)くるなり」(女が出しゃばるのは家を滅ぼす元)といって、ついに答えようとしなかった。
皇后としての分をわきまえていたといえよう。
また、太宗が皇后の実兄の長孫無忌(ちょうそんむき)を宰相にとりたてようとしたとき、外戚専横の弊を招くとして、「妾(わらわ)の兄をもって宰執(さいしつ)とするなかれ」と最後まで反対している。
 文徳皇后が臨終を迎えたとき、房玄齢(ぼうげんれい)は太宗の機嫌をそこねて邸にひきこもっていた。
皇后はそのことにふれて、「よほどのことがないかぎり、玄齢ほどの名臣を遠ざけてはなりませぬ」、さらに、「妾の縁者を顕要の地位につけてくださいますな」、そしてもうひとつ「妾の葬儀はごくごく簡素なもに」との三カ条の遺言をのこして亡くなったという。
(後略)
(『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
何故、この文章を転記したくなったかわかりますか(^_-)-☆
ついつい現在の日本のことを思ってしまうのです。
本書より文徳皇后のエピソードが載っている箇所を転記しますφ(..)
いつものことですが、原文通りではありませんm(__)m
皇后の諫言
 太宗は一頭の駿馬を飼っていた。
宮中に専用の馬小屋をつくるほどのお気に入りようであったが、ある日、その馬がポックリと死んでしまった。
怒った太宗は、馬掛りの役人を死刑にしようとした。
皇后がそれを聞いて、太宗を諫(いさ)めた。
(『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
「昔、斉(せい)の国の景公(けいこう)も、愛馬に死なれたとき、係りの役人を殺そうとしました。それを見て、宰相の晏嬰(あんえい)が景公に願い出、景公に代わって役人の罪状をかぞえあげました。
『よいか、よく聞け。そなたがどんな罪を犯したか、数えてつかわす。
まず第一に、ご主君の愛馬の世話をまかされていながら、むざむざ殺してしまった。
第二に、わが君にたかが馬一頭のために人ひとりを殺させる。このことを人民が聞き知ったならば、人民の怨みはわが君に集まるであろう。
第三に、諸侯がこのことを知ったら、必ずやわが国を軽んずるであろう。
そなたの犯した罪はこの三つだ。わかったかな』
 これを聞いて、景公は役人を許したということです。陛下も、この話を本で読んでよくご存知ではありませんか。よもやお忘れになっているわけではありますまい」
 太宗の怒りもようやくおさまった。
あとで太宗は、房玄齢にこう語った。
「皇后は、わたしの至らぬ点をよく指摘してくれる。なんともかけがえのないやつだ」 (納諫篇)
(『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
忠言は耳に逆らいて行いに利あり
 長楽(ちょうらく)公主は、太宗と文徳皇后との間に生れた姫である。
貞観6年、その姫がさる臣下のもとに降嫁したときのこと、太宗は、さきの永嘉(えいか)長公主(太宗の妹にあたる)のときに倍する嫁入り支度をととのえるよう係りの役人に申し渡した。
(『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
 魏徴(ぎちょう)がそれを知って太宗を諫めた。
「昔、後漢の明帝が、わが子を王に封じようとしたとこのこと、『わが子を、わしの兄弟たちと同列に処遇することはできぬ。わが子の領地は、兄弟である楚(そ)王、淮陽(わいよう)王の半分でよろしい』と語ったということです。史書は、この話を美談として伝えています。天子の姉妹を長公主、天子の娘を公主といいます。姉妹に長公主と長の字を加えているのは、娘である公主よりも尊んでいるからにほかなりません。天子も人の子、娘可愛さの気持はわからぬでもありませんが、かような差別待遇はいかがかと思われます。公主の嫁入り支度を長公主のときよりも手厚くすることは、多分道義に反したことでありましょう。なにとぞ、考えなおしていただきたい」

 「よくぞ申した」
 太宗は魏徴のことばを文徳皇后に伝えた。
すると皇后は、
「今まで、陛下がなぜ魏徴を重んじてきたのか、わたしにはその理由がわかりませんでした。でも、今度のことで、やっと納得できました。魏徴は、道義をもってよく君主の私情を押さえてくれました。まことに社稷(しゃしょく)の臣であります。
わたくしは、年若くして陛下と夫婦のちぎりを結び、いらい今日まで、下にもおかぬ扱いで、こまやかな愛情をたまわってまいりました。そんなわたくしでも、陛下とお話しするときは、必ずご機嫌うるわしいときを見はからい、軽々しく威厳を損じないよう心を配ってまいりました。まして臣下の場合は、情の上からいっても、礼の上からいっても、わたくし以上に遠慮がありましょう。
だからこそ、韓非(かんぴ)も『説難(ぜいなん)』をあらわして進言のむずかしさを説き、漢の武帝に仕えた東方朔(とうほうさく)も同じ嘆きを語っているのです。『忠言は耳に逆(さか)らいて行いに利あり』と申します。忠言こそは、国を保ち家を保つ者にとって欠かせないものであります。忠言を聞きいれれば国は治まり、忠言を退ければ政治は乱れます。陛下、どうかこのことをよくお考えになってください。陛下がこれを肝に銘じてくださるなら、天下万民の幸い、これに過ぐるものはありません」
 皇后は帝の許しをえて、お側の者を魏徴に邸につかわし、絹布五百匹をご下賜になった。 (公平篇)
 (『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫 2015年)
文徳皇后の言葉、現在の日本の政治がいかに乱れているか、その理由が分る。
そして首相が元号を決める時に中国の古典を嫌ったのかもわかる。