散歩に向かっている途中で出勤を急ぐ姿に出会いました。
今日から仕事始めの会社が多いのでしょうね。
今朝は、青空が広がっていて気温が低くても風もほとんどないので歩きやすかったです。
明日には天気が崩れるとは思えないほどでしたが
午後から資料集めに図書室に向かうと曇り空で寒かったです。
明日7日は春の七草で七草粥をいただく日ですが、
旧暦では、明日は十二月十三日になり
新暦の1月31日が旧暦の一月七日になるようです。
明日、春の七草が揃うには少し早いようです…
1月3日に放送された「チコちゃんに叱られる!」
「麒麟(きりん)がくる!コラボSP お年玉・たこあげほか」の中で
お年玉がとりあげられていましたが
『正月はなぜめでたいか――暮らしの中の民俗学』より
「正月 生命の更新を祝う春の行事」を転記しますφ(..)
正月 生命の更新を祝う春の行事
●―正月はなぜ「迎春」か
あまりかわりばえもしないが、とにかく毎年正月はやってくる。
(…略…)
古来、正月は一年のはじめとして、年中行事のなかでも、もっとも重要な折り目の日であり、一年の生活の安泰を祈るさまざまの儀礼が集中しておこなわれるときであった。
しかし、正月が機械的に循環するこよみのうえで最初の月で、元旦がその最初の日ということ自体で祝うべき理由はあまり見あたらない。
ところが昔、暦法が採用される以前は春秋二回の季節感しかなかったので、春のはじめをもって年のはじめとしていたのであった。
いまの暦でいうと「立春」にあたる時期であり、その前日を「節分」とか「年越」というのはそのためである。
また、年賀状など新年のあいさつに「謹賀新年」とか「迎春」の詞を述べるのは、こうした日本人の生活習慣を無意識に伝承しているためであろう。
(『正月はなぜめでたいか――暮らしの中の民俗学』
岩井宏實 大月書店 1985年)
つまり、正月とはすべての生物が躍動する春を迎え、人々がその生命力の更新をよろこび、祝ったところに意味があり、〝めでたさ〟があったのである。
正月を迎える年神は穀霊であり、同時に祖霊たる祖先神でもあった。
一年のネンは稔(ネン)であるし、トシも稲(トシ)であり、穀物の生命(イナダマ)と人間の生命(タマ)が渾然(こんぜん)と観念されていたのである。
したがって、正月は祖先をまつるときでもあり、昔は大みそかから祖先の「みたままつり(霊祭)」が広くおこなわれたし、今日もその風習は各所に残り、京都、大阪の古い商家では最近まで厳粛におこなわれていた。
●―門松、年玉、ゾウニのルーツ
ところで、正月様はどこからやってくるのだろうか?
暮れになると子どもたちが歌う唄に、
正月さん、どこまでござった
きつきり山の下までござった
お土産にないもって
小豆俵に米俵
というのがあるが、これにはっきりあらわれているように、正月様は高い山から里に降りてきて、人々に幸福をもたらしてくれる神であると信じられていた。
古代日本人は、人が死ぬとその魂は一カ月間家の棟に、一年は村はずれの一本木に、のちに山へいって山の神となり、春には里に降りて田の神となり、正月にはまた正月神すなわち年神として里に降り、子孫の繁栄を見守ってくれると信じていた。
正月に立てる門松は、この神霊が降りてくるときにとまる「よりしろ(依代)」として立てるものであり、「しめなわ(注連縄)」は年神祭の祭場の標示であった。
このために、もとはいろいろの木が立てられた。
この木がいつのころからか松の木に統一され、これを年神の標識とし、また祭壇としてまつったのである。
昨今は、門口一対の都会風の門松が流行しているが、これも神を門口に向かえる心意が根底になって生れたものである。
やはり最初は松とは限らずいろいろの木が用いられたし、大阪では門松を立てないのが一般的な風習で、家の中で盛大にまつるのが建前であったらしい。
さて、年神の供え物になくてはならないのがモチ(餅)である。
ことに念入りに作られる大きな鏡モチのほかに、各種の小さな丸モチをつくる。
南九州ではこれを「年のモチ」というし、中部や東北地方では家族の数だけつくってこれを神に供え、あとでいただく。
これが年玉の古い形であって、いま正月の子どもの楽しみになっているお年玉も、もとはこうしたモチであった。
モチはなぜまるいか?
それは霊魂を形どっているからである。
このモチを食べることにより、生命力(魂)の更新をはかろうとしたのであった。
年玉すなわち年霊(としだま)・年魂(としだま)だったのである。
この正月モチがゾウニ(雑煮)と深い関係をもつことはいうまでもない。
ゾウニはもともと年神に供えた種々のものの混ぜ煮で、文字どおり雑煮であった。
これにモチを入れたものをモチナオライと呼ぶところが九州にあるが、ナオライ(直会)は祭に参加したものが守に供えたものを下げて神人共食することである。
今日、家族そろってゾウニをいただくことは、年神祭の神人共食の儀礼に由来しているのである。
(「雑煮」に脇点「、、」)
また、年始のあいさつが書状という方式まで加わって、今日のように広い範囲でとりかわされるようになったのは新しいことで、もとは元旦に親元や本家に集まって祖先祭に参加し、あるいは生きている親を祝福する一家一門の儀礼であった。
門明(かどあ)けとか門開(かどあ)きとかいって、元旦の早朝に分家の主人がみな本家にきて、表戸を開ける習わしは、大和(奈良県)の十津川郷やその他の地方で今もおこなわれているが、これも大みそかの夜から元旦にかけて寝ずに「おこもり」をしたあと、一門の先祖祭に参加する作法がもとであった。
●―道具の年取り
正月は年神をまつるが、また日ごろ使っている家の道具もまつって感謝の意をあらわした。
これが「年取りの祝い」、あるいは「道具の年取り」といわれるもので、昔はひろくおこなわれていたものである。
年をとるということはたんに年齢を加えるというだけでなく、年神様の恵みをうけることでもあったのである。
除夜に、年取りの膳をつく前に、農具を全部土間に並べてモチを供え、主人が土間に下りてそれを拝むところもある。
なかでもウス(臼)は食物調理具としてもっとも大切な道具であるから、それをねかせてまつる風習があり、これを「ウス休め」という。
また、農具の代表的なものとしてクワ(鍬)・スキ(鋤)、山仕事ではナタ(鉈)、女の仕事ではハタ(機)というふうに、それぞれの生業で代表的な道具がとくに丁重にまつられ、さらには家畜のためにモチをつく例もあり、ゾウニをあたえて年を取らすこともおこなわれる。
こうした「道具の年取り」は、今日ではテレビとか自動車や工場の機械が、従来の道具にとってかわっているのではなかろうか。
テレビの上にお鏡もちを供えたり、自動車や機械にしめなわを飾っているのは、その心意のあらわれかも知れない。
(『正月はなぜめでたいか――暮らしの中の民俗学』
岩井宏實 大月書店 1985年)
「鏡餅」の「鏡」について『開運!えんぎ読本 自己癒しの文化再発見』より
「覗いたときの、あの神秘的な気持ちはどこから? …鏡…」を転記しますφ(..)
なお出版社のチクマ秀版社は解散しているようです。
覗いたときの、あの神秘的な気持ちはどこから? …鏡…
鏡は、霊が宿るもの、と信じられてきました。
神話の八咫(やた)の鏡、各地の鏡石、呪術的な銅鏡などが、神の依代とされました。
神様に供える餅を「鏡餅」といったり、能舞台の影向松(ようごうまつ)を描いた背景の板壁を「鏡板(かがみいた)」と呼ぶのも、鏡が依代として神の象徴となっていたからです。
そのため、合わせ鏡の蓋をはずしたまま放置したり、鏡台の扉を閉め忘れたり、掛布をしないでおくことを忌む風習が今でも根強く残っています。
鏡面をみだりに露出しておくことを慎むべきことであるとして、無用のときに覆いをしておくことを「鏡を休ませる」といいます。
(『開運!えんぎ読本 自己癒しの文化再発見』
神崎宣武編著 チクマ秀版社 平成12年)
一方で、鏡は、邪悪なものを打ち負かす強力な魔力がある、とも信じられてきました。
それで妊婦が腹帯(はらおび)の中に鏡をひそませて、胎児を守るお守りとされたのです。
船霊様(ふなだまさま)の一つに鏡が用いられるのも、同様の理由からといってよいでしょう。
鏡は子どもにみせてはいけない、病人にみせると死んでしまう、といわれました。
それは、子どもや体の衰弱した者は、鏡に宿る霊力に負けてしまう、と考えたからでしょう。
また、今でも嫁入り道具を運び入れるとき、一番はじめに鏡台を入れるところが多いのは、嫁の身を守るために鏡に宿る霊力が現れるのを期待する習慣、といえるでしょう。
鏡の目的は、いうまでもなく自らの姿形を映しだすことですが、鏡をのぞいたとき、何かしら神秘的な気持ちにとらわれることがあるはずです。
童話「白雪姫」にも魔法の鏡が登場しますが、鏡は、昔から神秘的な用具として伝説などに語られてきたのです。
鏡には大小さまざまありますが、小さな手鏡ならお守りとして持ち歩くのにもよいでしょう。
それが、厄を払い、幸運を運んでくれる、と信じることです。
*影向…仏や菩薩が仮の姿でこの世に現れる意の仏教語
*腹帯…妊婦が妊娠五ヶ月目から腹に巻くさらし木綿の帯。岩田帯
*船霊…安全を祈って船中に祀る船の守護神
(『開運!えんぎ読本 自己癒しの文化再発見』
神崎宣武編著 チクマ秀版社 平成12年)