2020年1月26日日曜日

気温が上がり…

今朝は、雨が降っていたので出発を遅らせて昼近くにやってきました。
初めは、曇り空でしたが、次第に青空が広がってきたなと思ったら
一気に暖かいというよりも暑くなりました(^-^;
こんなに暖かくなったらもうじき開きそうだなと写していると
野鳥の撮影をされている女性の方が、「鳥を写しているのですか?」と聞いてこられた。
杖であれですとカワヅザクラを指し示すと笑って去って行かれた(*´▽`*)
昨夜の
ETV特集「ナウシカ誕生~尾上菊之助が挑んだ新作歌舞伎~
(再放送:30日午前0時00分~ 29日深夜)
面白かったなぁ…
歌舞伎のことをほとんど知らないσ(^-^;でも
歌舞伎の歴史や演目を知ることができました。
その中で「ナウシカ」を「出雲阿国(いずものおくに)」をモデルに役作りをされていました。
大徳寺の高桐院(こうとういん)に阿国の墓があるのですが
2018年11月2日に訪ねた時は、修復中で拝観が休止されていました(T_T)
なお「阿国歌舞伎発祥地の碑」が南座にあります。
出雲阿国(いずものおくに) 生没年不詳
 歌舞伎の祖とされる女性。
天正1(1537)年ごろ生まれ、元和5,6(1619、20)年ごろに芸能生命を終えたか。
経歴は一切わからない。
出雲大社の巫女、または大社の鍛冶職の娘といわれるが、近年、大和興福寺のアルキ巫女とする説が有力視されてきた。
しかし修正意見も出され、出身についてはの定説はない。
京もしくは近郊の、小歌唄いの芸人であったか。
幼少時代からふたりで組み、恋の小歌に合わせて踊るややこ踊で貴族の間に人気を得ていた。
天正9(1581)年9月9日に宮廷で踊ったのが、現在知られるもっとも早い記録。
翌10年5月、春日大社若宮で「加賀国八歳十一歳ノ童」が演じた記録がある。
同16(1588)年には、京周辺で出雲の巫女を名乗り、神楽舞や小歌を演じているので、このころまでに出雲に下り、大社の巫女を名乗る資格を得たのだろう。
宮廷や近衛邸のほか、浜松城主時代の徳川家康、豊臣秀吉の側近大村梅庵の前でも演じている。
同19年以降、京北野神社の境内でややこ踊として勧進興行を行うのを慣例とするようになった。
地方に下ると、北野神社の巫女あやこと名乗り、雨乞いの効を言い立てていたらしい。
慶長5(1600)年には、クニと菊というふたりの女性が、近衛邸で「雲州(出雲)のヤヤコ跳」を踊っている。
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社 1994年)
 慶長8(1603)年春、かぶきおどりを創始。
当時都に横行していた先端的な服装で喧嘩を生がいとするかぶき者に自ら男装して扮し、その茶屋通いの風俗を、猿若という道化をしたがえ、流行歌と踊りを交えて演じた。
そのファッショナブルな好色性が大評判となった。
5月6日には宮廷でも演じている。
その後、北野に舞台を持ち、天下一対馬守(てんがいちつしまのかみ)と号し、都名物として興行を続けたが、三味線を持たぬ小規模な座のためもあって、遊女屋の経営する豪奢な遊女かぶきや美貌で芸達者な女能に押され、やがて北野を去る。
同12年、江戸城本丸と二の丸の間で興行し、大成功をおさめた。
その後駿河で死んだという俗説もあるが、同17年、ふたたび北野に姿を現す。
慶長8年に死んだ高名なかぶき者名古屋山三郎の亡霊を念仏踊によって登場させるという、能仕立の舞台で話題を呼んだと思われるが、元和(1615~23)に入ると消息が絶える。
俗説では出雲に帰り出家して長命を保ったという。
墓所とされるのは、京都市大徳寺高桐院、島根県簸川郡大社町杵築(きづき)にある。
 阿国の舞台は風俗屏風に多く描き残されている。
ほかに『国女歌舞伎絵詞』などの草子もある。
美人でないという記録があるが、俗説では名古屋山三を恋人とする。
阿国は、歌舞伎を創始したことのほかに、踊りという芸能を興行化したこと、個人の芸能者として初めて専有の舞台を維持したことでも評価されるべきである。
(参考)林屋辰三郎『中世文化の基調』、小笠原恭子『出雲のおくに』
  (小笠原恭子)
(『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞 1994年)
朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』より「朝鮮人を想ふ」の続きを転記しますφ(..)

   四

 或朝鮮人は次のやうなありのままな質問を吾〻に与へた。
「日本は吾〻のために教育を与へるのか、日本のために吾〻を教育するのか、何れなのか」と。
如何なる日本人も前者であると言ひ切るものはないであらう。
実際その教育は彼等の衷心の要求や歴史的思想やを重んじて行ふ教育ではない。
寧ろかかる事を否定し歴史を教へず、外国語を避け、主として日本語を以て、日本の道徳、又彼等に今まで無関心あつた日本の恩恵を中枢として、彼等の思想の方向さへ更へようとするものである。
全然新たな教育の方針に対して彼等が親しみ難い情を抱くのも自然な事実であらう。
彼等には掠奪者と見えた者を、最も尊敬せよと言はれるのである。
彼等にはこれが解し難い奇異な矛盾に充ちた声に響くにちがひない。
私は或日京城で李朝初期の作であらうと思ふ古い優秀な刺繍を求めた。
明かに明の作の影響をうけたものであるが、その色彩に於ても線に於ても図案に於ても古朝鮮の美を語るのに充分な作品であつた。
(『朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』日本民芸協会編 春秋社 1972年)
それを求めた日から間もなく、私は案内されて朝鮮人の高等女学校を参観した。
生徒の製作品を沢山見たが、丁度壁にかけられた大作の刺繍を見た時私は奇異な感慨に打たれた。
それは何処にも朝鮮固有の美を認め得ない現代日本風の作品――即ち半西洋化された趣味もなく気品もない愚かな図案と浅い色彩の作品であつた。
併し先生の説明によれば、それよく教育せられた驚くべき手工を示す優等の作品と言はれるのである。
私は私の所有する古刺繍を想ひ回して、あやまられた教育の罪を想ひ、かかる教育を強ひられて固有の美を失つて行く朝鮮の損失を淋しく思つたのである。
 日本の古芸術は朝鮮の恩を受けたのである。
法隆寺や奈良の博物館を訪ふ人はその事実を熟知してゐる。
吾〻が今国宝として海外に誇るものは殆ど支那と朝鮮との恩寵を受けないものはないであらう。
然るに今日の日本は少くとも酬いるのに固有な朝鮮芸術の破壊を以てしたのである。
好事家は古作品の聚集をするが、かかる作品を再び造る心を彼等に活かさうとするのではない。
之が所謂同化の道であるなら、それは恐るべき同化である。
私は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが、日本の行ふべき正当な人道であると思ふ。
教育は彼等を活かすための教育であつて、殺すための教育であつてはならぬ。
(『朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』日本民芸協会編 春秋社 1972年)