2019年1月18日金曜日

淀屋橋 中之島図書館

いつもは図書館へ直行するのですが…(^_-)
淀屋の屋敷跡」の石碑がありました。
文面を転記しますが、読み間違えがあると思いますし
いつものことですが、原文通りではありません(o_ _)o
淀屋の碑
淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった
淀屋の豪富と闕所(けっしょ)のことはあまりにも有名である
淀屋の本姓は岡本氏通称三郎右衛門
城州岡本の荘の出身
辰五郎の称もあつた
豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出で
十三人町(いまの大川町)に卜居(ぼっきょ)
淀屋と称し 材木を商う
元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き
また米の相場をたてる
中之島を開発し 常安請地(うけち)を開く
常安橋―常安町の名がいまにのこる
初代常安の長子(養子) 喜入善右衛門 常安町家 斉藤町家の祖となる
次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり
言直から六代までつゞく
心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり
その宅内の小路を淀屋小路という
四十八戸前のいろは蔵有り
町人蔵元の元祖といわれたが
むしろ巨大なる米商人と目すべく
淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける
淀屋橋であり こゝで行われた淀屋米市の盛大さは
この碑の絵が表現する通りであった
  日本学士院会員 宮本又次 記
  チャーターナイト二十五周年の
  記念事業としてこれを建てる
   昭和62年2月19日
  大阪北浜船場ライオンズクラブ
(右手前にある石碑には)

民生委員制度創設百周年記念碑
 大正七年に大阪市域から始まった大阪府方面委員制度は
方面委員が一定の区域を担当し、
訪問調査などにより世帯の状況を把握し多様な相談支援を行うとともに、
救済機関へ迅速につなげるといつた役割を担つていました。
 大阪府方面委員制度は、その後全国に普及することとなり
昭和、平成と続き、現在の民生委員制度の基礎として受け継がれています。
  平成30年 5月
  大阪府民生委員児童委員協議会連合会
  大阪市民生委員児童委員協議会
  堺市民生委員児童委員協議会
(林市蔵像の碑文 字体など変えています)

林市蔵先生記念像
 昭和28年秋建立 
  大阪府民生委員一同

大正七年世界大戦の直後物価莾騰して民衆の苦難甚だしく
米騒動勃発して世相不安を極めた
時の大阪府知事林市蔵先生
偶ここ淀屋橋畔の調髪所において鏡面に映る
新聞売母子の憐むべき姿と家庭の窮状に深く心を打たれ
これが社会的対策の極めて緊切なるを痛感し
府嘱託小河滋次郎博士の調査研究と
慎重考慮の結果
府下に方面委員を設置さられた
これを我国における民生委員制度の嚆矢であり
爾来急速に発達して全国に普及され
社会事業推進の中核をなすに至つた
 しかも此の間林先生には始終一貫熱誠を傾けて
本制度の育成発達に努力せれたが
昭和27年2月21日その偉業を遺して逝去せられた
我等府下五千名の民生委員は深く先生の高徳を慕い
その功績を讃仰すると共に
民生委員事業今後の発展に資すべく
ここに本制度発祥の地に先生の記念像を建設し
これを不朽に傳えんとする
  大阪府知事赤間文三撰並びに書
府立中之島図書館にやってきました。
展示室で特別展「大阪の教育と人」があったので見学しました。
今日は、今まで京都を歩いている時に
ゆかりの地のそばを歩いていながら
知らずにいたので、訪ねることがなかった
大田垣蓮月について調べにきました。
知るきっかけは磯田道史さんの『無私の日本人』を読んでからです。
数日前に電車の中で読んでいて目が霞んでしまったほどです。
書かれているのは蓮月尼と穀田屋十三郎、中根東里です。
機会があれば紹介したいなと思っています。
というかみなさんにも読んでほしいなと…
お昼は市役所地下の食堂でいただきました(^。^)
いつもより2品多く選んでしまったので
午後から資料を転記するときに睡魔との戦いで苦労していました(^^ゞ
帰りは天満橋に向かって歩きました。
以前、大阪歴史博物館で購入した
100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」展示図録から転記します。

夕刊売り母子に関する公文書
      大正7年(1918)
   大阪府民生委員児童委員協議会連合会蔵
 林市蔵が夕刊売り母子に出会ったのは、大正7年10月9日、
すなわち方面委員創設後のことであった。
林は、淀屋橋派出所の巡査に母子の家庭を調査、報告するよう命じた。
報告によれば、本庄葉村町に居住しており、貧しいながらも貯金をしていた。
同町は警察社会事業の対象地であり、貯金も警察による奨励の結果かもしれない。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生
        展示解説図録』大阪歴史博物館 平成30年)
林市蔵書簡(『善き隣人』原稿について)
    昭和4年(1929)頃 村嶋智惠子氏蔵
 村嶋歸之(むらしま よりゆき)は『善き隣人』刊行前に、
原稿を林に送り、意見を求めていた。
様々な場で方面委員創設のきっかけは
夕刊売り母子との出会いであると語っていた林は、
母子と出会った時期が「十月半ば」では、
方面委員創設日である「十月七日の告示と前後する」ことになるので、
「十月半ば」を「秋」とでもしてはどうかと、村嶋に提案した。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」)
林市蔵像完成記念絵葉書
        昭和28年(1953) 社会福祉法人武田塾蔵
 現在、淀屋橋南詰にある林市蔵像は、
昭和27年の林逝去後に大阪府内の民生委員5000名が
寄付を集めて建てたものである。
林が夕刊売り母子に出会った場所を方面委員制度発祥の地ととらえ、
そこに記念像が建てられた。
制作者は彫刻家渡辺義和。
昭和63年に改修され、100周年にあたる
平成30年(2018)5月に像前に記念碑が設置された。
(『特別展「100周年記念 大阪の米騒動と方面委員の誕生」)

こういう伝説は、今の政治家と大違いだと思うのです。
人びとを動かす力になったのですから。
(↑天神橋ですが)

淀屋橋
 中之島の南、土佐堀川に架かる《淀屋橋》は、
淀屋の二代目言当(ことまさ)が邸宅の前に自費で架けた橋で、
南詰西側に「淀屋屋敷(本宅)跡」の碑が立っている。
 初代の淀屋常安の後を継いだ言当は、諸大名の蔵米販売を一手に請け負い、
店頭に後の堂島米市場のもととなる米市を開いたり、
靱(うつぼ 西区)に生魚と塩干物を扱う商業地域(雑喉場 ざこば 魚市場)を開発し、
さらにそれまで堺・京都・長崎のみに許された
生糸輸入の特権(糸割符)を大坂にもたらすなど活躍した。
また、茶と連歌をたしなんで〝个庵(こあん)〟と号し、文化人としても知られ、
小堀遠州や松花堂昭乗などとも交際があったといわれる。
 淀屋の豪華な邸宅は、東は心斎橋筋から
西は東横堀の御霊(ごりょう)筋に至る敷地一万坪の惣構えで、
いろは四十八蔵が立ち並んでいたいわれる。
屋敷跡の碑は、屋敷というより、荷揚げ場のあったとこに当たる。
 淀屋はその後も繁栄して難波長者と呼ばれ、『元正間記』によると、
「夏座敷にびいどろ(ガラス)の障子を立て、
 天井もびいどろを張りつめて金魚を泳がせた」
ほどの贅沢な生活を送った。
しかし五代目の広当(ひろまさ 通称辰五郎)のとき、
幕府から闕所(けっしょ)、つまり取り潰され、淀屋本家の全財産は没収、
当主と家族は大坂四方十里所払いとされてしまった。
 その理由については不明な点も多く、町人の身分をわきまえぬ贅沢、
新町廓での豪遊ぶりへのいましめ、
淀屋から巨額の金銀を借りていた諸大名の救済が目的、などの諸説がある。
 この闕所は世間の評判になり、
近松門左衛門が淀屋一族を題材に『淀鯉出世滝徳(たきのぼり)』を書き人気を博した。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)