2019年12月23日月曜日

西賀茂~出町柳など

出町柳にやってきました。
発病前に京都の山を歩いていた時は、ここでパンを買って行動食にしていました。
今回、久しぶりにあんパン(粒あん)を1個買いました(^^)v

(ブログを更新しました。何年も経って間違いに気がつくことがあります。参照先などにリンクをしていますので、確認をしていただくと助かります)
京都市バス1号系統の西賀茂行に乗り「神光院前」で下車してキョロキョロしていると
後ろから年配の方が神光院の入口を教えて下さった!(^^)!
神光院(じんこういん)
放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。
寺伝によれば、建保5年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。
寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。
以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)の災火により堂宇を焼失した。
 明治11年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。
 本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。
 寺宝としては、仏眼曼荼羅図(ぶつげんまんだらず 重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。
また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。
  京都市
「蓮月尼碑」(富岡鉄斎撰文)なんですが…
これだけ漢字が並ぶと腰が引けて、降参してしまう(^-^;
 境内には蓮月尼ゆかりの茶所(ちゃじょ)、本堂前には歌碑が残る。
山門を入った左の建物が、蓮月尼の住まいの跡。
この天井近くに、蓮月尼の人となりを伝える大きな絵がかかっている。
征東に向かう(戊辰の役)西郷吉之助に渡した歌が、のちの江戸城明渡しの一因になったというエピソードを伝えるものだ。

  あだみかた(仇味方)(勝)つもま(負)くるも哀れなり
  同じ御国の人と思へば

 三条大橋に島津公の馬がさしかかろうとした時、蓮月が「お取り次ぎを」と公の侍衛(じえい)に差し出した短冊に書かれた歌である。
偶然その場に居合わせた西郷が取り計らいを了解。
西郷はその夜大津の本陣で、この短冊を中心に諸将と協議した。
蓮月の和歌は彼らを動かし、彼らは深慮のうえで江戸城明渡しの授受折衝に当ったのである。
そればかりか、幕臣の山岡鐵太郎や盆満宗之助らも動かした。
皇幕両軍敵味方の彼らが「同じ御国の御民」という信念を体得して、遂に無血の円満な解決を見るにいたったという話が伝わっている。
 この時蓮月は、80歳に近い。
強い信念に裏付けられた行動力で、勤皇歌人大田垣蓮月を余すことなく伝える一こまである。
(『時代別・京都を歩く 歴史を彩った24人の群像
  蔵田敏明・文、土村清治・写真 山と渓谷社 1999年)
 後半生を見事に生き抜いた蓮月尼の人生は、悲運だった前半生から生まれたものだった。
人生の早い時期に肉親全員と別れ、一人で生きていかなければならなかった彼女だが、孤独を知ったからこそ孤高に生き、多くの友人を得た。
中でも富岡鉄斎(とみおかてっさい)はわが子のように慈しんだ。
聖護院にいたとき富岡家とは隣同士になり、彼の幼少時代から知っている。
養子にと請うたほど愛情を注ぎ、鉄斎は蓮月尼の薫陶を受けて作陶を手伝ったり、鉄斎の若い頃の絵に蓮月が讃歌を書いたりもしながら温かい交流を持ち続けた。
 明治8年、蓮月尼は85歳の生涯を閉じた。
亡骸は鉄斎の描いた月と蓮の画に自筆の辞世が記された白木綿の風呂敷で包まれた。

  ねがはくはのちの蓮の花のうへに
  くもらぬ月をみるよしもがな


蓮月の名にふさわしい、見事な人生の幕切れだった。
(『時代別・京都を歩く 歴史を彩った24人の群像
  蔵田敏明・文、土村清治・写真 山と渓谷社 1999年)
ノキシノブ(軒忍 ウラボシ科)がニョキッと出ていた。
磯田道史さんの『無私の日本人』を読んでいらい
大田垣蓮月尼の足跡を訪ねたいという気持がニョキニョキと湧いてきました(*´▽`*)
本堂では、7月に厄病除けの祈祷「きゅうり封じ」が行われるそうです。
「神光院」さんの 「きゅうり封じ」〟(織屋ぼちぼちブログ)
中興堂などは、時代劇の撮影スポットに使われているそうです(^_-)
神光院」(時代劇の風景 ロケ地探訪)
大将軍神社
 大将軍神社は、西賀茂の産土神で、主祭神磐長姫命(いわながひめみこと)ほほか4柱をまつる。
創建・由緒についてははっきりしないが、平安時代には、官衙(かんが)の瓦を焼いた西賀茂瓦屋がこの近くにあり、当神社は、その鎮守の社であったともいわれる。
 現在の本殿は、天正19(1591)に造営された上賀茂神社摂社片岡神社本殿を、寛永5年(1628)から同13年の間に移築したものである。
また、現在当社に伝わる釣燈籠の一つに、「賀茂片岡社御金燈籠 天正拾九年六月□□」の刻銘がみられ、釣燈籠も片岡神社から譲り受けたことがわかる。
建物は、大型の一間社流造で、装飾的要素がほとんどなく、賀茂社系統の本殿の特色をよく残している。
更に、一部に後補材がみられるものの、上賀茂・下賀茂社関係の社殿のなかで現存最古のものと考えられる貴重な遺構であり、昭和59年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
 また、境内には本殿をはじめ珍しい形式の割拝殿や摂社・末社等が建ち、そのまわりを樹木がとり囲んで鎮守の森としての景観をよくとどめており、当社の境内は、昭和60年6月1日、京都市文化財環境保全地区に指定された。
  京都市
上賀茂神社の立砂と同じかな?
2015年4月9日の記事
世代受け継ぎの木
 当社の境内に朱色の玉垣で囲んだ場所が三箇所あります。
この社に数百年繁茂した大木が倒れた後その根元に木の種が落ち自然に成長した状態であります(実生<みしょう>の木)。
この現象は子供が親の養分を受け成長する事を如実にあらわしてをり、將(まさ)に世代受け継ぎの実体であります。
 大將軍神社
大船院西方寺(だいせんいんさいほうじ)
 来迎山(らいごうざん)と号する浄土宗の寺である。
 承和年間(834~848)に円仁(えんにん<慈覚大師>)が創建したと伝え、もとは天台宗山門派に属していたが、正和年間(1312~16)に道空上人(どうくうしょうにん)が中興して浄土宗に改められ、以後、六斎念仏弘通の寺として知られている。
 毎年8月16日には、五山送り火の一つである船形万燈籠(ふながたまんとうろう)が点火され、終了後、境内で六斎念仏が行われる。
当寺の六斎念仏は、鉦や太鼓を使って念仏を唱える極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えるものとして知られており、昭和58年に重要無形民俗文化財に指定されている。
 境内には、皇室制度や神道史の研究家として知られるイギリス人リチャード・ポンソンビーの碑が建てられている。
また、背後の小谷墓地には、幕末の歌人大田垣蓮月尼(おおたがきれんげつに)や上賀茂神社の祠官(しかん)賀茂季鷹(かものすえたか)、また著名な料理人で陶芸家でもある北大路魯山人の墓がある。
  京都市
石碑(赤←)に蓮月尼の墓此上にあります
ということが書かれていたのですが
蓮月尼(黄→)の墓をなかなか見つけられなかった(^^ゞ
事前に検索して
蓮月尼の墓は、この桜の老樹の根方に寄り添うようにある。」(天台寺門宗 青眼展墓録
桜の木膚を思いうかべながら探していたのだけど…
春に来ればすぐにわかったかな?
小さな墓石ですが、「大田垣蓮月尼墓」(富岡鉄斎の筆)

正伝寺
 正伝寺は、吉祥山と号し、その創建は鎌倉時代にさかのぼる。
 国の重要文化財に指定されている本堂(方丈)は、入母屋造、こけら葺で、寛永年間(1624~1644)に伏見城の遺構を移建したものと伝えられる。
また、本堂の襖絵は、桃山時代の絵師狩野山楽の筆による逸品である。
 さらに、本堂前庭には、白砂敷にサツキを中心とした三群の刈込を配した枯山水で、土塀越しにのぞまれる比叡山が美しい姿を見せている。
この庭園は、京都における代表的な借景庭園として、昭和60年6月1日に、京都市指定名勝とされた。
  京都市
ここにも12月2日に訪ねた黄檗山萬福寺のように八幡社がありました。
ここで出町柳で購入したあんパンを食べて元気になりましたp(^^)q
地蔵さんに気をとられて気がつかなかったけど
画像を編集していてアレッとなった左下の灯籠…
織部燈籠(キリシタン灯籠)のような…
帰りにここを通らなかったのが悔やまれる(T_T)
観光客とはほんの数組、出会っただけ…
静かな境内です。
狸の修行者に初めて出会った(*´▽`*)
後で受け付けの方にお聞きすると
お寺と狸との関係はないそうです(^_-)
訪ねて来られる方が置いて行かれると言っていたような…
(耳が悪いので聞き間違いかも…)
鐘楼
正伝寺(しょうでんじ)
 正しくは吉祥山(きちじょうさん)正伝護国禅寺(ごこくぜんじ)と号し、臨済宗南禅寺派の寺院。
本尊は釈迦如来。
1268(文永<ぶんえい>5)年、東巌慧安(とうがんえあん<宏覚(こうかく)>)が聖護院(しょうごいん)の役僧静成(じょうせい)の帰依(きえ)をうけ、南宋(なんそう)からの亡命僧である師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山(かいさん)とし、一条今出川に創建。
寺号は普寧が慧安に「正伝」の額をあたえたことによる。
元寇(げんこう)の折、慧安が石清水八幡宮に参籠(さんろう)し、その退去を祈った功により、亀山上皇より「護国」の号が下賜(かし)され、寺運は盛んとなった。
それを嫉視(しっし)した比叡山の衆徒(しゅと)により、襲撃・破却されたため、慧安はごく少数の弟子をつれ、東国に走って難をさけ、奥州(おうしゅう)で客死した。
1282(弘安<こうあん>5)年、賀茂の神官森経久(もりつねひさ)が後援して現在の地に再興された。
後醍醐天皇から勅願(ちょくがん)所の綸旨(りんじ)を賜い、また足利義満(あしかがよしみつ)の祈願所にもなり、さらに十刹(じっせつ)にも列するなど、寺運は極盛を迎えた。
応仁・文明の兵乱で焼失。
(『京都洛西・洛北散歩22コース』京都史跡見学会 山川出版社 2004年) 
豊臣秀吉や徳川家康の援助を得て、一時は塔頭(たっちゅう)7院を数えるほど回復したが、明治維新以後はまったく衰微し、わずかに方丈(ほうじょう)と庫裡(くり)および鐘楼(しょうろう)を残すのみである。
方丈(桃山期・国重文)は伏見城の御成殿(おなりでん)を移築したといい、広縁の天井は関ヶ原の戦いのとき、伏見落城の際に切腹してはてた鳥居元忠(とりいもとただ)以下千数百名の将兵の血痕(けっこん)が付着した廊下板を用いたと伝える。
方丈前の庭園は俗に「獅子(しし)の児(こ)渡しの庭」といい、比叡山を借景とし、刈り込みを七五三に配した、雄大な構想の枯山水(かれさんすい)の平庭である。
寺宝に「紙本墨書(しほんぼくしょ)東巌和尚蒙古降伏祈禱文(もうここうふくきとうぶん)」(鎌倉期・国重文)や「絹本著色兀菴和尚像」(元・国重文)などがある。
(『京都洛西・洛北散歩22コース』)
新聞の切り抜きが掲示されていました。

時の回廊 D・ボウイが涙した静寂 (日本経済新聞 2016年2月18日)
正伝寺の枯れ山水庭園 京都市

1月に死去した英ロック歌手のデビッド・ボウイさん(享年69)がたたずみ、涙を浮かべた寺が京都市北区の西賀茂にある。比叡山を借景にした枯れ山水庭園が美しい禅寺の正伝寺(しょうでんじ)だ。

■焼酎のCM撮影
ボウイさんは1979年12月、テレビCMの撮影で京都を訪れた。起用したのは宝酒造。中高年の男性の大衆酒というイメージの焼酎を女性や若者に浸透させようとした。大の日本好きで美的感覚の豊かなボウイさんに社運を託したのだ。
「撮影場所は他の寺院を考えたが、京都通のボウイさんが指定したのは正伝寺だった」。当時の宣伝部次長で、後に同社会長を経て京都市副市長を務めた細見吉郎さん(79)は話す。
(続きは、日経新聞のサイトで読めます)

今回の街歩きでは蓮月尼のお墓を訪ねたら帰る予定でしたが
次に紹介する本にたまたま出会って是非、訪ねたくてはと思いました。
京都の桜で日本に恋したデヴィッド・ボウイ
「時代が変わればロックも変わる」。
これは2016年1月に亡くなった世界的ロックスター、デヴィッド・ボウイが出演した、1980年の宝焼酎「純」のCMのキャッチコピーだ。
 このCMは、枯山水の白砂の上にデヴィッド・ボウイがゆったりと座り、サツキの刈り込みの横で焼酎のロックを飲む、といったもの。
流れる曲は彼が作曲した「クリスタル・ジャパン」で、シンセサイザーによる美しいインストゥルメンタルだ。
シンプルな白のシャツに白のパンツ、美しい顔立ちのデヴィッド・ボウイが枯山水の庭の中でお酒を楽しむという世界観は、今見てもお洒落でカッコいい。
 80年代は今のようにインバウンドの時代ではなく、日本文化よりも海外文化が流行し、バブルも全盛期だった。
そんな時代に枯山水の庭を撮影地に選ぶとは、なんてセンスがいいのだろう。
撮影地の候補はいくつかあったが、デヴィッド・ボウイの希望で決まったのが、西賀茂にある正伝寺(しょうでんじ)の庭だった。
京都五山の送り火の一つである船形の山麓にある寺で、交通の便があまり良くないために訪れる人も少ない。
あまり知られていないこの庭を、なぜデヴィッド・ボウイは指名したのだろうか。
 それは方丈からの庭園の眺めを見れば納得する。
目の前に広がるシンプルな白砂とサツキの刈り込み、漆喰の白壁、そして美しくそびえる比叡山の借景。
ここからの眺めは特別だ。
比叡山が空に浮かぶ景色は、まるでこの庭が雲の上にあるような気持ちにさせる。
庭がずっと空まで続くようだ。
縁側に座って、ただゆっくりこの景色を眺めるだけでいい。
空の色や山の表情が、だんだん変わっていく様子が楽しめる。
比叡山の借景が見える庭園は他にもあるが、この庭の眺めが一番良い。
この庭をチョイスするとはさすがデヴィッド・ボウイ、かなりの京都通、庭園通だ。
 彼は常に心の平安を求め、日本の自然や文化、禅を愛した。
彼が初めて来日し、コンサートを行ったのは1973年4月。
その合間に京都を訪れた彼は、「日本の古都で見た満開の桜は見事だった。そんな風にして僕は日本に恋をしたんだ」と語っている。
1977年発表したアルバム「Heroes(ヒーローズ)」には、西芳寺(苔寺)を訪れた経験をもとに書いた「Moss Garden(モスガーデン/苔の庭)」が収録されている。
日本のファンからプレゼントされたおもちゃの琴を本人が演奏したり、鳥のさえずりなども聞こえる、柔らかな曲だ。
1990年代には妻イマンと新婚旅行で京都を訪れている。
彼にとって京都は特別な場所。
そして正伝寺は格別な場所だったに違いない。
(『しかけにときめく「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2019年)
大きなピラカンサの後ろに東司(とうす)があります。
東司と表記するところに禅寺だなと思った。
「東司」の下に「(トイレ)」と書かれていました。
東福寺に東司の遺構があります(2015年5月9日の記事
達磨さんがサンタの帽子を被っていました。
帰宅してから夕刊を読むと第一面に
ホテル過熱、京都曲がり角 「上ル」高級ラッシュ、中価格帯は「下ル」 市が建設抑制へ〟(朝日新聞)

江戸時代の旅行ブームは『東海道中膝栗毛』などが火をつけたようです。
京都は昔から、そして外国からの観光客も多くてバスに乗るのも大変。
特に春や秋の観光シーズンは凄い!
という私も本などを参考にして歩いています。
今回も先程紹介した本を読まなかったら訪ねていなかった…
正伝寺を知っていたデビッド・ボウイは素敵な眼を持っていると思います。
しばらく歩いていると
先程訪ねた蓮月尼のお墓がある小谷墓地に出てきました。
神光院前からバスに乗って…
途中で佛教大学前を通ります。
ここで40年以上前に通信教育を受けました。
普通は、1年で免許状が取得できるのに2年もかかりました!
それも1科目が不合格だったので(^^ゞ
辨戝天 出町妙音堂
 本殿の本尊は青龍妙音辨戝天画像で西園寺公衡(きんひら<1264~1315>)の長女西園寺寧子(やすこ<大光明院殿・広儀門院>)が、第93代後伏見天皇の女后に輿入れされた折に、西園寺家第二伝の念持仏として持参されて以来、伏見離宮に祀られ、光巌、光明、崇光天皇と伝承されて来た霊像である。
その後享保年間、伏見宮家第14代貞建(さだたけ)親王に至って伏見邸が河原町今出川下がる出町北鴨口に移転され、同時に本尊も奉遷されたのであるが、更に明治初年東京への遷座の後、京洛の旧信徒再三の請願に依って、再び現在の地に堂宇を建て奉安せられた。
世に伏見御所の辨戝天と称され、京都七福神の一つとして特に技芸上達、福徳円満の勝益をもたらすものである。
奥にヘビが2匹祀られていました。
こちらでは豊川稲荷も祀られていました。
妙音堂と伏見宮家
(略)

 伏見宮家といえば、北朝の第三代・崇光(すこう)天皇の皇子、栄仁(よしひと)親王を祖とする。
宮家では最古の格式を誇っており、その意味で名門中の名門といってよい。
崇光天皇の曾孫が後花園天皇となって以来、伏見宮家の宮家としての格式が一挙に高まった。
 伏見宮家は伏見の桃山丘陵の南端、指月(しげつ)山に山荘を所有し、そこに妙音弁才天を祀っていた。
そもそも伏見宮家の宮号も、宮家の所領のなかでもっとも重視された伏見御領にちなんで付けられたものである。
 その後、豊臣秀吉が伏見城の造営を決定するにおよんで、伏見宮家に山荘の引渡を要求した。
相手が天下の秀吉であれば、さすがに伏見宮家でも譲らざるをえなかった。
 それからしばらくして秀吉は夢でうなされるようになった。
 恐ろしい顔をした弁才天が夢枕に立って「我を粗末にする者はけっして許さぬ。近々お前の命を絶つから、そのつもりでいるがよい」と激しい勢いで責められたのである。
 要するに祟られたわけだ。
この世に怖いものなしの権勢を誇った秀吉であっても、人の子である。
やはり気になってしょうがない。
調べてみると、妙音弁才天を祀る山荘の鎮守社が放置されていたのである。
「なるほど。そういうことだったか」
 ひとりごちた秀吉は、妙音弁才天を伏見宮家へ移すように命じた。
場所は今出川の現在地である。
遷座にともなう諸経費はすべて秀吉が負担したことはいうまでもない。
 移転後はとくに何事もなかったようである。
 明治維新となり、明治天皇が東京の皇居へと移った。
それにともない伏見宮家も東京へ移住した。
 それからである、伏見宮家に不幸が重なったのは、病人が立て続けに出るなど、予想もしなかったことが次々と起こったのである。
 とても偶然とは思えず、胸騒ぎもする。
あるところで占ってもらうと、神が祀られずに捨ておかれているためと出た。
妙音弁才天を京都の旧地に残したままだったのだ。
 伏見宮家ではただちに執事を派遣し、京都の地元の人達に妙音弁才天の祭祀を依頼した。
丁重に祭られるようになってからは、妙なことはなくなったという。
 松竹の京都撮影所が下鴨にあった頃、俳優たちが芸能上達を祈願して妙音弁才天を拝む姿がしばしば見受けられたと伝えられている。
弁才天の御利益に期待したのであろうか。
いずれにせよ、妙音堂は京都七福神巡りのひとつに数えられるようにもなった。
 妙音堂の境内の一角には豊川稲荷も祀られている。
豊川稲荷の祭神は荼吉尼天(だきにてん)である。
元は人の心臓や肝などの臓物を食う夜叉神であったが、仏に出会ってからは善神になったといわれる。
大願成就の福伸として祀られていることが多い。
こちらは商売繁盛の祈願が中心で、やはり地元の人達が熱心に参詣しているようである。
(『京都異界紀行 千年の魔都の水脈』加門七海、豊嶋泰國 原書房 2000年)
お昼は、ベジタブルカレーにしました。
前回もベジタブルカレーだった(*´▽`*)
若い人はカツカレーの大盛りをパクパク食べていましたp(^^)q

本当は、出町柳で降りた時に「鯖寿司セット」を食べたいなと思ったのだけど
時間が12時半ころだったのでお店の前に列ができていたので諦めました。
2016年6月13日の記事
出町柳からテクテク歩いて、
道路向かいには京都大学医学部付属病院がある
カレー専門店「ビィヤント 」にやってきました(^^)v
1時過ぎに食べたのだけど正伝寺で食べたあんパンのおかげで
空腹感に悩まされずに歩けました(^^)v
2018年1月19日の記事
お土産に漬物を「京つけもの聖護院本舗 たかしん」で購入しました。
2014年8月31日に一度訪れています)
お店の方が、「カメラが趣味ですか?」と聞かれてしばし話をしていました。
息子さんの彼女が大学の写真部に所属している影響で
息子さんもカメラを趣味にするようになったそうです。
ちなみに現在、信州大学の学生さん。
撮影するのに絶好の環境ですよね!と話していました(*´▽`*)

前の記事を読み返して「ビィヤント」を「ビィアント」、
たかしん」を「たかはし」と名前を間違えて書いていましたm(__)m
リンク先は合っているのに…(-_-;)
こんな間違いが多いのです。

2 件のコメント:

  1. こんにちは~

    出町柳からどちらへ行かれたのかな?
    と、少し思い浮かべました。。(^-^;
    まったくの知らない所でした。

    >正伝寺
    はじめて、お聞きしました。
    Kazeさんのお話を聞いて、一度訪ねてみたくなりました。

    >京都の桜で日本に恋したデヴィッド・ボウイ
    そうだったんですね。
    ロックのCM、見ていたような。。。記憶も。。(^-^;

    >お土産に漬物を「京つけもの聖護院本舗 たかしん」
    今頃なら、一番に千枚漬けですよね。


    暖かくなったら出かけたいです。


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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      >まったくの知らない所でした。
      私も大田垣蓮月尼のことを調べていると
      磯田道史さんの『無私の日本人』に出会いました。
      西賀茂を訪ねたくなり神光院や蓮月尼の墓を訪ねたいと思ったのですが
      近くにある正伝寺は予定になかったのです。
      でも、本屋さんで出会った烏賀陽百合さんの『しかけにときめく「京都名庭園」』を読んで訪ねることにしました。
      烏賀陽百合さんの本もいいですよ(^^♪
      デヴィッド・ボウイは本物を見分ける力が凄いのだなと思いした。

      >今頃なら、一番に千枚漬けですよね。
      とも思ったのですが柚子入りの大根にしました(*´▽`*)

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