2019年12月16日月曜日

午後から…

午前中、父の歯科受診で運転手をしてから、帰宅後、σ(^-^;の眼科受診
午後も天気がよかったのでリハビリ散歩に出かけましたp(^^)q
昨日と違って午後からもポカポカでナミテントウが数匹チョコマカ動き回っていました。
暖かかったからかシジミチョウやキチョウにも出会いました。

冬のテントウムシ」(小学校4年 動画)
昨日、見た時は綿毛が少し顔を出しているだけで
まだまだかなと思っていると
少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が乗ってきた
天之羅摩船 (あまのかがみのふね)だけ残っていました。
暖かく晴れていたので一斉に飛び出したのかな?
明日は、曇りで雨も降るのを察知したみたいです。
スクナビコナノ神は海を渡ってきますが出雲の向うは中国や朝鮮。
今日の朝日新聞の夕刊に
日韓の街角、心つなぐハグ 「みなさんを信じる」、抗日象徴広場で50人と
桑原功一さんとユン・スヨンさんの取り組みが紹介されていました。
読んでいて目頭が熱くなりました。
以前にも
韓国人と日本人つながれる 見知らぬ人、街角でただ抱擁
で紹介されていました。
先日、隠れ念仏、隠し念仏のことを少し紹介しました。
無縁と土着――隠れ念仏考――』を読んでいると
カヤカベが戦後、世間の注目を集める事態があったようです。
2 秘密結社の浮上
 敗戦と同時に、アメリカ軍がやって来た。
 アメリカはミルクをたずさえてやって来た。
わけても、国連ユニセフからの救援物資のミルクは学校給食をうるおした。
 日本の南端、鹿児島県下の霧島山麓の辺境にも、救援の粉乳がやって来た。
(『無縁と土着――隠れ念仏考――』米村竜治 同朋舎出版 1988年)
 ところが、その地の小学校の父兄たちが騒ぎはじめた。
やがて給食拒否が起った。
 敗戦によって、アメリカのすべてを受容せざるを得ない時代に、あるいは競って受容する時代に、敢えて、救援物資を拒否する辺境の心情は不可解なものに思えた。
 この反時代の精神は何に由来するのだろう。
人々は、さまざまな憶測を働かせた。
だが、給食拒否の裏には、長い歴史に亘る秘密が隠されていた。
外部の人間にとって、それは理解の外であった。
 ミルクの拒否は宗教上の理由からであった。
 給食拒否は、外部の人間が「カヤカベ」と呼ぶ秘密宗教によって結ばれた父兄たちによって起こされていた。
 カヤカベと呼ばれる宗教結社は、さまざまな禁忌によって、人々を結びつけていた。
 まず、彼等は牛肉を食べてはならないという禁忌を保っている。
だから、当然、ミルクも飲んではならない。
 霧島山麓のこの村は、正確に言えば、鹿児島県姶良(あいら)郡牧園町とそれに隣接する横川町である。
村のなかには、カヤカベと呼ばれている人もいれば、いない人もいる。
むしろ、カヤカベは少数派である。
カヤカベに属さない多数派のなかの事情通は言う。
「牛乳を飲むか飲まないかを見ていれば、カヤカベであるかどうかは、すぐに判定がつく」と。
 それが、敗戦後に、外から村にやって来たアメリカを拒否したことで、村のオモテの、あるいは村以外の明るみに出てしまったのである。
 村のオモテに浮上した、この宗教結社について、かつて龍谷外大学が学術調査班を編成して、その一応の輪郭を、発掘した資料をもとに公刊したことがある(『カヤカベ―かくれ念仏』1970 法蔵館)。
ただしそれは絶版となった。
 筆者もまた、地元の熊本日日新聞に、このカヤカベについてのデッサンを発表したことがある。
ところが、読者から早速、意見が寄せられた。
そのなかの一人は言う。
「十数年間も、牧園町の中学に奉職したが、そのような事実は、ついぞ知らなかった。ほんとうのことなのか」と。
もちろん、彼が牧園に在勤したのは、給食拒否事件以降のことである。
それにしても、十数年間も牧園に居ながら、知らなかったというほどに、カヤカベの秘密性は徹底している。
 常民の海はそれほどに深い。
 給食ミルク拒否事件によって村のオモテに出てしまったものの、このカヤカベの事件は辺境の地の些細な出来事として、やがて世間の耳目から消えた。
そして、再び、カヤカベは村の奥に沈んでしまった。
 龍谷大学が調査班を編成し、カヤカベの村にやって来たのは、昭和37年のことである。
この時、大挙して繰りこんだ学術調査班に、カヤカベは無防備だった。
カヤカベ教団の幹部のある者は、外からの来訪客に対して容易に調査に応じた。
しかし、いかなる信徒であれ、個人が外部に向かって答えることは許されない。
それが重大な失態であることを、カヤカベ教団の全体はすぐさま悟った。
信徒全員に箝口令(かんこうれい)が敷かれ、カヤカベの村は再び黙秘に沈んだ。
 外に向かって秘密を洩らすことは、カヤカベの存在そのものを解体することに繋がる。
 龍谷大学は引き挙げた。
一応の調査成果は得たものの、この宗教結社を解明するには、未だ不充分すぎた。
 昭和46年1月、調査班は再度の調査に趣くべく、カヤカベ教団全体の協力を得たい旨、カヤカベ教団に対して一通の手紙を認めた。
しかし、返事は、
 「御光来の件等、絶対に御無用に願います。御返事まで」
という峻厳なものであった。
 しかし、龍谷大学調査班は、研究者にとって大きな遺産を残してくれた。
カヤカベという秘密宗教、ある部分では浄土真宗本願寺派の末流であり異端である。
本願寺という宗派セクトからすれば、調査成果は一部分の小さく不充分なものであったかもしれない。
逆に言えば、宗派セクトのイデオロギーの観点からでは手に余るものであったかもしれない。
だが、文化人類学、民俗学、歴史学に手を染める者にとっては、龍谷大学調査班の提示してくれた資料は、大きな遺産であった。
 私は、その遺産に動かされた。
そしてそれを継承し、さらに発展させなければと追調査に乗り出した。
ただし、私の見解は、龍谷大学のそれとは全く違う逆の見解を示すことになるだろう。
 筆者が、カヤカベの調査に乗り出したのは、龍谷大学による調査以後のことである。
一大学の学術調査班という大掛りな編成チームが拒否されているのであれば、むしろ、個人が独りでのこのこと出かけて行くほうが調査を可能にするのではないか。
そういう独りきりの横着無頼さで、私は、霧島山麓のカヤカベの村に迷いこんでしまった。
(『無縁と土着――隠れ念仏考――』米村竜治 同朋舎出版 1988年)
米村竜治氏の『無縁と土着――隠れ念仏考――』は、絶版になっているようです。
現在、読んでいる途中ですが、興味深い本で後日、紹介できたらと思っています。