今朝は、風が冷たかった
昨日と違って曇り空でしたが、時折、雲が切れて日差しが暖かったです。
サクラの枯葉が名残り惜しいのかくっついている…
クモの糸で止まっているように見えないので確かめると
なんと落ち葉の穴に…
小枝が隠れていました(^_-)-☆
今朝の朝刊の記事
「【独自】行政文書が大量流出 納税記録などのHDD転売」(朝日新聞)
初期化しても復元ソフトでデータを読み取ることができます。
調査が進むとさらに深刻な事態ですが…
「ハードディスク流出 ネットオークションで18個落札」(NHK)
一方
〝官房長官 「桜を見る会」 ”適切に廃棄の文書は復元想定せず”〟
ということは余程都合の悪い情報なんでしょうね。
アメリカや韓国だったら国民は黙っていないはずなんですが
米国大統領は羨ましいだろね…
Yahoo!ニュースに
〝「安倍氏は最悪」「日本の姿勢を象徴」米紙誌が安倍氏の“障害者言及”を批判「桜を見る会」名簿廃棄問題〟
‘Japan PM Slammed for Revealing Operator of Document Shredder in Scandal Was Disabled’(ニューヨークタイムズ)
‘Japan PM Slammed for Revealing Operator of Document Shredder in Scandal Was Disabled’(US News and World Report)
ちなみに原文で読む語学力はありませんσ(^-^;
先日、黄檗山萬福寺を訪ねましたが、中国からの渡来僧は鑑真しか知らなかったです。
江戸時代に隠元禅師が渡来したことについて
『中国の寺・日本の寺 東方選書10』より転記したいと思いますφ(..)
布袋さんが弥勒菩薩の化身だということについても謎が解けました(^_-)-☆
なお、この本(絶版)が出版されたのは1982年です。
この時代の社会情勢は現在との違いがありますので留意してください。
五.明代文化の伝達者――隠元
中国僧の渡来
江戸時代、仏教界が沈滞していた時、多くの中国僧が日本に渡来してきたため、わが国の仏教界も大きな刺激を受けたのである。
とくに隠元(いんげん 1592―1673)が渡来し、黄檗(おうばく)宗を開いたことは、わが国の仏教史にとって画期的な出来事といってよい。
日本の各宗の開創者はほとんど日本人であるのに対して、隠元一人だけが中国人であり、この中国僧の開いた宗派が今に至るまで継続していることはまことに驚くべきことといわねばならない。
(『中国の寺・日本の寺 東方選書10』鎌田茂雄 東方書店 1982年)
明末清初、乱をのがれてわが国に渡来したり、帰化した僧侶・学者・芸術家は多く、これらの人々は明の文化を日本にもたらしたため、日本文化に大きな影響を与えた。
元和6年(1620)には真円が長崎興福寺を開き、寛永5年(1628)には覚海が長崎福済寺を開き、さらに寛永6年(1629)には超燃(ちょうねん)が長崎崇福寺を開いている。
そのほか隠元隆琦(いんげんりゅうき)、道者超元(どうしゃちょうげん)、木菴性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいち)などの高僧が陸続として渡来したのであった。
当時、帰化したのは黄檗僧のみでなく、明室復興の志強く、清の粟を食わないために亡命した朱舜水(しゅしゅんすい)のような人もあった。
朱舜水の感化は水戸の勤王思想に大きな影響を与えた。
黄檗僧の多くは絵画や書を能くしたために当時の絵画や書道を刺激したことはよく知られていることである
そのほか渡来者の中には医者がいたため、中国医学が日本に根をおろすきっかけをつくった。
なかでも宗教界に及ぼした影響は大きく、隠元隆琦を開祖として黄檗宗が開かれた。
その後の黄檗宗万福寺の住持は、二代目木菴性瑫、三代慧林性機(えりんしょうき)、四代独湛性瑩(どくたんしょうけい)、五代高泉性燉(こうせんしょうとん)、六代千呆性侒(せんがいしょうあん)、七代悦山道宗(えつさんどうしゅう)、八代悦峯道章(えつぽうどうしょう)以下数多くの中国僧がこれに住したのである。
長崎にある唐の三箇寺といわれる興福寺、福済寺、崇福寺ともすべて中国僧が開いたものである。
当時の日本の禅界では、臨済宗は貴族趣味的な文字禅になり下り、曹洞宗も教勢振るわなかった。
この時、隠元や道者超元などの中国僧が渡来したことが、一つの刺激となり、光明となり、禅宗革新の原動力となった。
道者超元に師事した盤珪(ばんけい)は、どんな無学な平民にも分かる不生禅(ふしょうぜん)を提唱した。
臨済宗では禅界革新の気に燃えた白隠がでて、近世臨済禅の基礎をすえたのである。
中国僧の渡来は中国文化の伝達紹介のみでなく、日本禅宗に大きな影響を及ぼしたのである。
隠元の渡来
隠元は諱(いみな)を隆琦、明の万暦20年(1592)11月4日に福建省福州府福清県で林(りん)氏の子として生まれた。
6歳の時、父が旅に出たまま行方不明であったため、21歳の時父を探すために金陵を出、さらに南海の普陀山へ行ったが、普陀山において観音を拝して感激し、ついに出家するに至った。
崇禎(すうてい)7年(1634)43歳にして費隠通容(ひいんつうよう)より臨済正宗の印可を受けた。
その後黄檗山に住し、法門を宣揚した。
隠元は63歳まで中国大陸に過したが、承応3年(1654)7月5日、ついに長崎に着いた。
隠元が何故日本に渡来したか、その理由はいくつかある。
普通には明末の乱を避けて帰化したといわれているが、たんなる亡命僧ではない。
隠元を日本に招請したのは長崎興福寺の住持であった逸燃性融(いつねんしょうゆう)である。
これより前、隠元の弟子の也懶性圭(やらんしょうけい)を崇福寺に迎えようとしたが、船が沈没したため死亡した。
そこで師の隠元を招請したのである。
隠元は弟子の也懶が渡航を果さず死んだことを悲しみ、再三再四の懇請を受けてついに長崎行を決心したのである。
現在、東南アジアの華人社会には必ず中国寺院がある。
中国人がいるところ必ず廟もあるし寺院もある。
シンガポールには清代に建てられた雙林(そうりん)寺があるし、マレーシャのペナン島には極楽寺があり、台南には円覚寺がある。
シンガポールの雙林寺には大雄宝殿、法堂、方丈などの七堂伽藍が完備しているし、ペナンの極楽寺には弥勒殿、大雄宝殿、斎堂、功徳堂がそなわり、巨大な万仏塔が山上にたっている。
これらの中国寺院は華人のいるところに必然的に建てられているのだ。
そのほか動乱のさなかにあるカンボジアのプノペンにすら広林寺という中国寺院があったし、ジャカルタの華人街には広化寺があり、マニラ市には信願寺という巨大な仏教寺院がある。
これらのことから考えてみると、長崎に唐の三箇寺が置かれたことは当然のことで、長崎在住の中国商人たちがこれらの寺の檀越であったのである。
その檀越たちの切なる招請に応じたのが隠元であったとみてよい。
日本の京都や鎌倉の禅宗の寺院、たとえば京都の妙心寺、建仁寺、相国寺や、鎌倉の円覚寺、建長寺などを見ると、そこには南宋風の影響を受けた色彩のない、素朴の建物を見ることができる。
円覚寺の舎利殿なども実に簡素であり、しかもけばけばしい色彩はまったくない。
ところが中国の寺院はそうではない。
ほとんど明代以後に建てられた中国大陸の寺院はどぎつい色彩でいろどられている。
香港のランタオ島の山頂近くにある宝蓮寺などがその典型だ。
真赤な極彩色の間に青色や黄色がまざり、金ぴかに輝いている。
中国人、とくに河北の人々の色の好みはあくどい原色カラーのような気がする。
山水画の淡い墨絵は江南の人が好んだようで、主流は何といってもダイナミックな色彩感豊かな絵であるのだ。
私は北京の頤和園(いわえん)を散策して建物の色彩を見て一層その感を深くした。
このように色彩あふれる中国寺院が長崎の崇福寺や宇治の万福寺である。
この中国風寺院の万福寺を開いたのが隠元である。
隠元は渡来以後7年たって、ついに日本に在留する決心をしたが、竜渓の斡旋(あっせん)で黄檗山万福寺を開くことになった。
明の黄檗山万福寺と同じ名前をとって、ここに新黄檗山万福寺が開立されたのである。
福建省の黄檗山を古黄檗または唐黄檗と呼び、宇治の黄檗山を新黄檗または今黄檗と呼んだ。
隠元は寛文元年(1661)8月29日、70歳にして新しい黄檗山に晋山(しんざん)した。
長崎に渡来してから7年2ヶ月後であり、異国の地において苦労を重ねたにちがいない。
故国の黄檗山と同じ名前の新しい寺が建てられたことは、隠元にとってどんなにか大きな喜びであったか。
それは江戸幕府によって一宗として認められた証拠でもある。
開創当時の万福寺は総門・西方丈・執事寮などわずかな建物であったが、隠元は新しい宗風を樹立する意気盛んであり「新たに黄檗を開いて禅基を壮(さか)んにす。正脈流伝すること海外奇なり」と詠じたという。
禅宗正脈がこの日本の地において伝持された感激にひたったことであろう。
その喜びも束の間、師の費隠通容の訃報(ふほう)を受けた隠元の心中はさまざまな感慨が湧いたのではないか。
晋山した翌年には酒井忠勝が寄附した金で法堂が建てられた。
この法堂において祝国開堂が行われ、ここに名実ともに臨済宗、曹洞宗と並んで黄檗宗が生まれたのであった。
その後黄檗山万福寺には、禅堂・東方丈・竹林精舎などの諸堂が完成した中国禅林の偉容をあらわすに至った。
隠元は福建省泉州府の仏工范道生(はんどうせい)を招いて観音・韋駄天(いだてん)・伽藍神(がらんしん)・弥勒・十八羅漢などの諸像を造らせたのであった。
明代以後の中国仏教においてもっとも民衆から信仰されたのが観音菩薩であり、現在でも慈航大士として信仰されている。
大抵の中国寺院の大雄宝殿に祀られている釈迦三尊の背後には波の上にたった慈航観音が描かれていたり、その像があるものである。
故郷の福州の寺院でも観音を大事にしていたため、渡来した仏工が先ず第一に彫ったのであろう。
韋駄天、伽藍神とも護法神であり、日本の寺院のものとはちがった形をしたのが、現在でも中国の仏教寺院に多数配されている。
伽藍神は長いひげをはやし、大きな錫杖をもって、仏菩薩を守護するために釈迦三尊の両脇に佇立(ちょりつ)している。
現に黄檗山に蔵されている十八羅漢と弥勒菩薩はまさに中国的なものだ。
十八羅漢は現在でもどこの寺にも必ずある。
十六羅漢に玄奘と慶友とを加えて十八羅漢になっている。
その形は思い思いの顔をしており、笑った顔、にが虫をかみつぶした顔、剽軽(ひょうきん)な顔、その姿態に何ともいえぬおもむきがある。
私は北京郊外の香山碧雲寺で見た等身大の五百羅漢像の人間くささを今でも忘れることができない。
中国寺院の天王殿の中央の須弥(しゅみ)壇には、たいてい布袋(ほてい)さんが祀ってある。
この布袋さんは弥勒菩薩の化身であるといわれる。
この布袋さんは、結跏趺坐(けっかふざ)しているわけでもなく、直立不動の姿勢でもなく、たいへん自由なくつろいだ態度で、大きな袋に寄りかかって満面に笑みをたたえた太平楽な姿である。
布袋さんは何といっても太っている。
太っているのは富裕を感じる。
痩せているのは貧を連想する。
金持や物持は肥えていなければならないのだ。
そこで肥えている布袋さんは福の神となる。
また布袋のかついでいる大袋は、どんなことも包容してしまう包容性をあらわしている。
われわれ日本人はたいしたこもない、どうでもよいことに一生懸命になるが、どんなこでもすべて容(い)れてしまうのが布袋さんの大袋であり大きな腹である。
布袋さんの大袋や大きな腹はあらゆる人生の大事件でも小事件でも、怒るべきことも、笑うべきことも、清らかなことも、濁ったことも、くだらないことも、すべてその中にしまいこんで、自分自身はその袋に悠然と寄りかかって、慈顔でもって天下の人に対している。
范道生作の弥勒菩薩像を見ると、布袋にそくりである。
私が洛陽の白馬寺や、香山碧雲寺で見た布袋=弥勒像とまったく同じように、大きな腹を出している。
隠元が故国の黄檗山万福寺に模してたてた宇治の万福寺は明代の中国寺院の建築様式をわが国に伝えてくれたし、福建省からわざわざ日本へ来た范道生の造った弥勒菩薩像は中国の布袋さんを日本へ紹介してくれたことになるのだ。
十八羅漢と弥勒さんを見ていると、中国人の物の考え方の一端がわかるような気がする。
(『中国の寺・日本の寺 東方選書10』鎌田茂雄 東方書店 1982年)
今朝の父の一枚です。
ジョウビタキのメスが落ち葉の中にいると同化して分からないくなるなと話していました。