霜の降りた朝。
予報では明日、雨なんだけど…
雨の降る気配を感じないほどの青空が広がっていました。
昨日『大阪史話』より転記した「堀江の六人斬り」では、
妻に裏切られた中川万次郎が哀れにもなるのですが
別の本を読んでいるとまた違った考えにもなります。
内容は重複しますし、中川万次郎の人物像について異なる説明もありますが
『なにわ ことば遺跡2 ことばといっしょに歴史を歩く』と
『大阪人物辞典』より大石順教尼のことを転記しますφ(..)
惨劇から立ち上がり、身障者教育の生みの親となった芸妓
堀江六人斬り
◆大阪を震撼させた事件
この話には長い事後談がある。
惨劇は明治38年(1905)6月22日未明。
5月には東郷平八郎率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破り、世は戦勝ムード一色。
日露戦争における日本の快進撃に国民が酔っていた。
そんな中でこの事件が起こった。
(『なにわ ことば遺跡2 ことばといっしょに歴史を歩く』山本正人 清風堂書店 2019年)
場所は大阪堀江新地、貸座敷山梅楼(やまうめろう)。
犯人はこの山梅楼の主人中川萬次郎、色欲が強く、周囲の女性をつぎつぎものにする遊び人であった。
その萬次郎の妻が客とねんごろになったことを知ってから嫉妬に狂い酒びたり、家では暴力を繰り返し錯乱状態であった。
この22日未明、日本刀を手に凶行におよぶ。寝入っていた家族たち、妻の母、妹、弟、姪、養女にしていた芸妓の計5名を次々惨殺。
もう一人の芸妓妻吉は両腕を切断、顔に切り傷を受けたがかろうじて一命はとりとめた。
我に帰った萬次郎は自殺を図るも死にきれず西署に自首している。
その後萬次郎は死刑となりこの事件は決着する。
この一家惨殺事件は大阪中を震撼させ、連日の取材、報道。
芝居や講談にも登場する。
九条の角藤(すどう)一座は「廓の夢」、稲荷社の文楽座では「堀江六人斬」、衝撃的なこの事件は格好の芝居ねたとなった。
さて事後談というのは養女にしていた芸妓妻吉のこと。
彼女は両腕を切断の重傷を負い、瀕死の状態からも快方に向かう。
事件当時妻吉は17歳、芸妓としてはさかりの年齢であった。
身障者となった彼女であったが不屈の精神で立ち上がり、あの惨劇の被害者として、桂文団治一座に加わり小唄長唄でうり、地方巡業で生計をたてる。
◆順教尼の数奇な人生
その後芸能から身をひき、口で筆をくわえながら字を覚え、明治45年日本画家の山口艸平(そうへい)と結婚して二児を授かる。
離婚後は出家し、高野山金剛峯寺にて得度、大石順教尼を名のる。
京都山科に身障者の相談所「自在会」を設立。
婦女子を収容し、自立のための教育を推し進める。
戦前は身障者の人権、教育も皆無に等しく、この分野に初めてとりくんだのがこの順教尼であった。
また、「嫁しては夫に従い」の時代、今で言えばDVの被害も相当なものであった。
そのような婦女子のための駆け込み寺を創設した。
自らは口筆で字を書き絵を描く。
順教尼の「般若心経」は昭和30年、日展入選作となった。
あの惨劇で両腕を失った大石順教尼は自ら身障者の手本となり、我が国の身障者教育の生みの親、慈母観音と慕われた。
順教尼の数奇な運命は、あの堀江六人斬りの惨劇が始まりとなっている。
(『なにわ ことば遺跡2 ことばといっしょに歴史を歩く』山本正人 清風堂書店 2019年)
大石順教尼(おおいしじゅんきょうに)
両手を失いながら、筆をくわえて書画を描き、草庵を結んで生涯福祉活動の専念した尼僧。
順教は明治21年(1888)道頓堀の「二葉ずし」の長女に生まれた。
本名大石よね、貸座敷業「山海楼」(西区北堀江三丁目)の養女となる。
16歳の時同楼の経営者で養父の中川万次郎に両手を切断されている。
万次郎(51歳)は堀江新地の役員も務めた温厚な紳士だったが、妻のあい(27歳)が養子の明治郎(31歳)と不倫を重ね、ついに二人は金品を持ち出して駆け落ちした。
あいにベタぼれだった万次郎は、あいの養母こまや弟安次郎、妹すみの3人まで引き取って世話をしていたのにこの不始末、おまけにぐずだ、のろまだ、老いぼれだとからかわれたために逆上し、同38年6月、こまら3名と止めに入った女中きぬ、抱え芸者の梅吉の5名を日本刀で斬殺、当時「津満吉」の名で店を手伝っていたよねが、お父ちゃん、やめて!としがみつく両腕を、叩き切ったのである。
この年の暮万次郎は後悔し、「落とされし腕の指先き氷る夜半」の句をよねに贈って死刑となるが、山海楼は潰れ、無論よねの両腕は戻らなかった。
後に「堀江の六人斬り」と呼ばれた有名な事件だが、以後大阪では震え上がってしばらく夫婦の不倫は姿を消したという。
(『大阪人物辞典』三善貞司 清文堂出版株式会社 平成12年)
しかしよねは心優しかった万次郎を、決して恨みはしなかった。
翌年千日前の法善寺で養父と5名の一周忌法要を営んだよねは、「山村流」の名取りだった踊りを生かし、医者も驚くほど回復するや、「三代三遊亭金馬座」に加わり、「松川屋妻吉」の芸名で地方巡業に出かける。
一座に三遊亭金登喜という子供がいた。
よねを「あねさん」と呼び、彼女も「敬ぼう」と呼んで可愛がった。
後の落語家柳家金語楼(本名山下敬太郎)である。
「敬ぼんはわたしの不自由な体を庇ってくれました。魚の骨まで取ってくれるのです」。
よねはこう語っている。
2年後彼女は舞台を退く。
カナリヤがくちばしで雛にえさをやっているのを見て、口に筆を挟んで絵を描こうと決意する話はあまりにも有名だ。
言葉ではいい表せない苦労を重ねたあげく、天分の才能もあって自在に染筆できるようになった同45年、日本画家山口草平と結婚する。
以後16年間に一男一女を得たよねは、家事・育児を懸命にこなし、自分も絵筆をとるだけではなく、夫を激励して草平が見事文展に入選する原動力にもなっている。
昭和2年(1927)夫の浮気で二人は協議離婚するが、この痛手はよねを仏門に走らせた。
高野山で出家し、「順教」と名を改め修業に専念、口筆による「観音経写経」を納め、やがて同「般若心経写経」が日展書道の部に入選するほどの、腕を磨いている。
戦時中は中国に渡り、傷ついた兵士たちを慰問、京都の山科に自在会(身体障害者福祉相談所)を開いたり、戦後は北海道全域を含む各地を訪れて身体の不自由な人たちを励ますなど、健常者も到底足もとにも寄れないほどの業績を挙げ、多くの人々に希望を与え感謝された。
同22年自在会は、真言宗の寺院となる。
「仏光院」(京都市山科区観修寺仁王堂町)がそれである。
同寺には順教尼の設計による茶室「養愚庵」があり、一木一草にまで手入れのいき届いた庭園とともに、身を浄められる思いがする。
また順教尼の多数の書画や、机・火鉢等の愛蔵品も展示、彼女自身と等身大の「慈手観音」も建造されている。
もちろん画業の精進も怠りなかった。
同41年にはドイツのミュンヘンで個展を開き、国籍を超えて大いなる感銘を与えた。
その2年後80歳で遷化、遺体を京大医学部へ寄贈する。
順教尼は常に心のより所を持て、自力厚生が大事、人を恨むなと説いた。
「私は万次郎さんを恨んだことはありません。両腕を奪った代わりに、心の腕をくださったのですから」。
彼女は常ににこやかにこう語った。
(『大阪人物辞典』三善貞司 清文堂出版株式会社 平成12年)
柳家金語楼とつながりがあるんだとビックリしました。
若い方は知らない人も多いかな?
「NHK人×物×録」に「柳家金語楼(やなぎやきんごろう)」というアーカイブスがあり動画も見られます。
柳家さんが出演した番組などを見ることができます。
大石順教さんの著書より柳家金語楼との交流を後日、紹介したいと思います。
父の今朝の一枚です。
エナガと出会っていました(^^)v
明日は、雨の予報なので散歩を諦めて、延ばしに延ばしていた
部屋の掃除をしようかな…