2019年12月28日土曜日

ソシンロウバイが咲き出した♪

今朝は、風がなく青空が広がっていました。
気温が低いので霜が降りていましたが
ソシンロウバイの花が一輪咲いていました(^^♪
2種類のロウバイが咲き始めました」(2019.01.06 新宿御苑)
自衛隊の中東地域派遣 現地での活動は? 武器使用は?」(NHK)

野党の国会延長を聞き入れず、閉会後すぐにこのような重大な案件を閣議決定ですまそうとする。
中村さんのように海外で活動している方の犠牲が増えるばかりだと思います。

松井氏・橋下氏が安倍首相と会談」(NHK 関西)

大阪の自民党が衰退したのは首相のおかげだと思いますね。
根っからの自民党支持者の父が、維新の会が大嫌いなのは、自民党を裏切ったという思いが強い。
そして首相がテレビに映るとテレビを消すほど、嫌っています。

憲法を変える理由に自衛隊の立場を明確にしたいと言いますが
自衛隊を二つに分けて、災害救助隊と自衛隊に分ければいい。
政府の思惑(アメリカ大統領への媚び)で自衛隊員を危険な場所に派遣していたら
自衛隊への志願は減るばかりだと思います。
災害救助隊を別に組織すれば救助隊への志願者は増えると思いますよ。
自衛隊を災害救助に派遣できるのは〝平和〟であるからだと思います。
戦争状態にあれば災害救助どころではないはずです。
大田垣蓮月尼と共に気になる尼僧がいます。
尼僧のことは、あまり書かれていませんが
大阪史話』より「堀江の六人斬り」を転記したいと思いますφ(..)
後日、尼僧について書かれている文章を紹介したいと思います。
堀江の六人斬り
 よろめき芝居に身をつまされた「よろめきドラマ」残酷物語。
頃は日露戦争のまっ最中、戦勝ムードとはおよそうらはらな、狂い咲いた仇花の悲劇をつづる。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)
 ねむたげな夏の昼さがり、軒なみに青すだれの並ぶシモタヤの路地にはいると、陽もここまでは届かず、どこなくひっそりした感じ。
きれいに打ち水された素格子のワキに、朝顔の一鉢二鉢置かれているのもなまめかしく、ときおり遠音(とおね)にきこえる素さらいの糸の音だけが、そこに人の気を感じさせて路地をひろう人の足をひきとめる。
夜と変わって、昼さがりの色街はまた別の世界であった。
 戦前の堀江は大阪でも一、二を争うほどの色街であったが、今はすっかり面影をなくし、夕涼みに屋形船の通った横堀も埋めたてられて、白いハイウェー、阪神高速道路一号線のコンクリートの橋脚が、町を南北にぶちぬいて林立している。
 堀江は変わったが、堀江という地名がもつ艶っぽさは、花柳街の印象とともに、〝堀江の六人斬り〟という余りにも鮮烈無惨であった事件によって、年を召した大阪人の間に、今なお鮮やかな記憶となって残っているようである。
 明治38年6月、といえば日露戦争のまっ最中、その前月の27日に、東郷大将の率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を打ち破って、国中に戦勝ムードがみなぎっていた頃のこと。
「嫁(か)しては夫に従い」とか、「女は二夫にまみえず」という家庭訓が貞女の徳目の筆頭にかかげられていた時代であったから、若い妻女のよろめきから起った一家惨殺事件は、堀江という所も所、こともことだけに、当時の大阪人には天地がひっくりかえるほどのショッキングな事件であったに違いない。
事件というのはこうである。
<北堀江上通三丁目一七七、貸座敷業、山梅楼主人中川万次郎五十一歳、妻あい二十七歳との間に子供までなしたにかかわらず、あいが養子明治郎と不倫の関係を結び、両人は衣類その他を持出して家出した。しかるに、あいの母こま、弟安次郎、同家抱え芸妓らは、あいを庇護する態度ありて、万次郎はこれを怨む。
 二十日の夜、かねて覚悟の万次郎は浴衣一枚の身軽な姿となり、何時も間に買求めしか二本の樒(しきみ)を仏壇に供え、タンスの抽出しより一尺八寸、無名の業物を取出し、鞘を払うと奥の間に踏みこみ、スヤスヤ眠れる義母こまを一刀に斬り伏せ、この物音に起き上がらんとするすみの左肩を大袈裟に二太刀浴びせ、二階へ上って安次郎の首を落し、芸妓梅吉を斬り、返す刀で津満吉の左腕を切落し、さらに右腕をも斬って……>

(太字と下線の「あい」「こま」「すみ」には圏点「、、」。以下同じ)
 明治38年6月20日の朝未明、堀江の一角に起こったこの事件は、直ちに号外となり、太い活字の見出し付きで巷間にまき散らされたのである。
 げに、よろめきの恐ろしき、と世の旦那衆は外出をひかえ、妻女は妻女で一層つつましい嫁御ぶりを発揮した、という話がまことしやかに伝えられたほどであった。
 ところでこの事件の結末はどうなったか、先を急ごう。
当時の新聞によれば、
<万次郎は凶行後、下女ウメを起こし〝今日までしんばうしたなれど、しんばうぶくろがはれつしてやむを得ず、乃公(おれ)は自殺するつもりであったが、これから自首する〟といい残し、折柄の東雲(しののめ)の中を人力車をかつて警察署へ飛ばした>とある。
 この記事をみると、万次郎は凶行後も気を強くもっていたようである。
しかしその風体は異常であったに違いない。
事実、この万次郎の姿を異様と感じた小さな目があった。
万次郎のすぐ向かいに住んでいた当時13歳の長谷伝次さんがその目撃者であった。
「今から数えて五十数年前のことになりますかな。堀江はお茶屋町だっさかい、朝早よう、行燈(あんどん)を軒にかけに行きまんねん。わても学校へ上がる前にかけに行くのが日課でおました。あの日も、おばあに伝次早よかけんかといわれて、家の前へ出てあんどんをかけ、ひょいとふりかえったら、目の前の格子が開いて万次郎はんがフラフラッと出てきはった。万次郎はんというても当時で五十一、わては子供やさかい、常日頃から知っているというほどでもおまへん。おっさん、今朝は早いなあ、と思うてひょいと見ると、尺そこそこのさやや、その時分は白地の帯がはやったものやが、それをぐるっとまいて、角の車屋へ行きよりまんねん。車屋いうても人力車だす。当時は、角に車屋がずっと並んでいて、一軒に五、六台は置いてましたやろ。朝でも朝帰りの客送りで三、四台はいつも待ってるんだす。わては万次郎はんの後姿をみておかしいなと思い、向かいを見たらカベに血がピッタリ。おばあ、えらいこっちゃ、向かいがえらいこっちゃ、家へ飛びこんだら、そんなことより早よ学校へ行きなはれ、とおばあに怒られてしもうたんだす。帰ってきたら、あんのじょう大騒動だんねん。むこに一人死んでる、こっちに一人死んでる。手がない人やら首がない人やら、死んでるもんや生きてるもんやわからへん。とにかく一面に血がとんで、それはこわおました」
 また、両腕を失いながら、六人の中でただ一人、九死に一生を得た津満吉さんも、後日発表された『心の手』という書物に遭難の日を次のように書いている。
<ちょうど梅雨のさ中とて、毎日雨続きで、その日もなんとなく陰気な日でした。朝からなんだか胸がモヤモヤいたしまして、いても立ってもいられないような気分で、からだの置きどころのないほど、頭からものがかぶさったようないやな気がしました。こんな時は三味線のお稽古でもするに限ると三味線を取出しましたところ、どうしたことか、一の糸が天神からプッツリと切れました。一の糸が切れることは廓仲間では縁起の悪いこととされているのですから、私の心は一そう暗くなり、もう三味線をひく気持ちもいたしません。その日、お父さんの万次郎は堀江座へ『伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)』を見に行きました。この芝居はご承知のように福岡貢が女にそむかれたと思って、ついに十人斬りをするといった筋です。お父さんはこの芝居を見ましたために、ショックをうけて、ついに六人の人を殺めようとは神ならぬ身は知る由もなかったのです>

(「伊勢音頭恋寝刃」歌舞伎演目案内)
 かくて明治38年12月14日、中川万次郎は大阪控訴院において死刑の判決を受けた。
辞世の句に

  落とされし腕の指先こほる夜半(よは)

 事件から五十年、津満吉さんは仏門にはいり、今は大石順教尼となって、京都、山科に庵を結んでおられる。
両腕をなくしてからその業(ごう)を怨まず、カナリヤが口でエサを運ぶのを見て、口に筆をくわえて書くことを覚え、仏門にはいってからは、からだの不自由な子供の世話に専念されているという。
尼僧の心を感じてか、静かな庵の池いっぱいに、毎年花菖蒲が清々しく咲きにおっているということである。
(『大阪史話 近代化うら話』朝日放送編 創元社 昭和40年)
今朝の父の一枚です。
コサギの視線の先に大きな輪
カワウが水中に潜ったので波紋が広がったと話していました。