日ざしがあって暖かい朝です。
冬眠しているはずのナナホシテントウに出会いました。
「さまざまな虫の冬ごしのようす」(小学4年 動画)
9日(月)に放送されたNHKの逆転人生
「町工場が大躍進 転倒減らす介護シューズ」がよかったです!
今では多くの人に知られている介護シューズをゼロから開発されている。
中小企業が生き残る道を示してくれていましたし
最後の方で若い社員のアイデアがいいなと思いした。
若い社員が生き生きとする会社はこれからも成長すると思いますp(^^)q
紹介されていた会社は「徳武産業株式会社」
香川県さぬき市に本社があります。
〝「反社会的勢力 定義は困難」政府が答弁書 桜を見る会受け〟(NHK)
というニュースを新聞などで読んだりして
ここまで好き勝手なことができるんだと呆れてしまった。
平野啓一郎さんのTwitterに毎日新聞の記事を引用して
実は第1次安倍政権時に「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団または個人である『反社会的勢力』」と定義。
「この指針をきっかけに、経済界や銀行、証券業界などが『反社の排除』を打ち出した」と。
閣議決定をする際に創価学会が支持母体になっている公明党の大臣(国土交通大臣)もいたはず。
このような腐敗に手を貸していたら初代会長の牧口常三郎氏に対して顔に泥を塗るようだと思わないのかな?
私は、信仰がないというわけではなく、教団などに属さず、無宗派の人間です。
ですから学会員ではない者が何を勝手なことを言っているんだと批判されると思うけど
牧口常三郎氏は戦中、政府の国家神道強制に対して屈服せず、獄死された信念の人です。
学会員の人は伝記など詳しく読んでおられるでしょうが
宗教事典などから転記したいと思いますφ(..)
牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう <創価学会>)
幼名・渡辺長七。明治4年(1871)6月6日~昭和19年(1944)11月18日
【出 生】渡辺長松・イネの長男。新潟県刈羽郡荒浜生。
【教団での呼称】牧口初代会長
【経 歴】
明治10年(1877)6歳のとき、親戚の牧口善太夫の養嗣子となる。
尋常小学校4年を卒業後北海道に職を求めて渡り、警察に給仕として働くかたわら独学に励み、明治24年20歳のときに、北海道尋常師範学校(現、北海道教育大学)第一部三学年に編入学、後の生涯にわたる教育活動の第一歩を記す。
26年22歳のとき常三郎と改名。
また同年3月に卒業したのち、母校の付属小学校の教師となり、僻地教育に力を注ぎ、また地理学の研究に本格的にうちこみ始め、30年母校の助教諭となる。
34年同校の職を辞し上京する。
翌年地理学者志賀重昂(しげたか)の門を叩き、彼の後援を得て『人生地理学』を執筆し、36年(1903)に出版。
本書の実地体験を重視する実証主義的態度は新渡戸稲造らの教育者の少なからぬ賛同を得る。
東京にて、富士見、東盛、矢正、西町、三笠、白金、新堀の各小学校を歴任。
その間 柳田国男らの主催する郷土会に入会。
児童教育にも、郷土の実地体験調査を通じた自然観察教育の必要を感じて、郷土科の設置を説く。
『教授の統合中心としての郷土科研究』(1917、以文館)はそのころの主要著作である。
(『新宗教教団・人物事典』井上順孝他編 弘文堂 平成8年)
大正9年(49歳)西町尋常小学校校長に在任中に、北海道より上京した戸田城聖を代用教員として採用。
このころから牧口の教育方針と敵対するものが現われ始め、左遷人事を受けたりする。
昭和3年に池袋の常在寺の大石講の幹部をしていた目白商業学校校長・三谷素啓に会い、深く感銘を受けて戸田とともに日蓮正宗に入信。
その後日本の教育の在り方を根底から問い直そうとする態度を明確に見せ始め、当時の日本の教育の状況を厳しく批判し始める。
『創価教育学体系』は、そのようななかで執筆され、昭和5年(1930)に第一巻が出版される。
この書の奥付に創価教育学会の名が記されている。
『創価教育学体系』は純然たる教育論であり、それ自体としては宗教色はない。
そのなかで彼は、当時の教室中心の知識偏重的な精神主義的教育を批判し、それにかわって、事実および体験を重視した、実証科学的教育の大切さを説いている。
若いときからパースやデューイといったアメリカの自由主義的な教育に強い共感を示したため、明らかにカント中心であった当時の日本のアカデミズムとはあい容れない立場に立つ。
カントの「真・善・美」に対して、彼は「美・利・善」を主張する。
これは「真」の美名の下の知識偏重的な日本の教育の在り方を批判したものである。
「利」すなわち社会の福祉や幸福に役立つ人間になることを、実体験を通して自覚させる教育を確立しようとして創り上げた、教育実践的な枠組みとされる。
このような教育論を考察していく一方で日蓮正宗信徒として、熱心な宗教実践活動を展開する。
各地で大善生活実験証明座談会という会合を開いたのもその一つの現れである。
彼によれば「美・利・善」の「善」は、世界人類に共通する「大善」でなければならず、この大善を核心とした大善生活を行ってこそ、真の幸福への道は開かれると説く。
この大善へと正しく導くものが、日蓮の教えであると確信。
座談会はその日蓮の教えを実践して得た功徳や罰の体験を語り合うための会合となる。
『創価教育体系』出版の翌年、教育界からの風当たりは一段と強まり、その翌年小学校校長の職を辞して、長年にわたった教職生活から退く。
以後は弟子の戸田城聖が目黒で開設した学習塾時習学館と自宅を拠点として、宗教および教育活動を行う。
昭和10年(64歳)ごろから創価教育学会創設が実現化し始める。
11年4月に創価教育学会春季総会が開催され、機関雑誌『新教』が(のちに『教育改造』)発刊される。
14年(68歳)麻布菊水亭にて創価教育学会第一回総会が開催され、以後18年まで毎年開催される。
18年6月から治安当局による創価教育学会幹部の検挙が始まり、7月には戸田とともに検挙される。
牧口の教育論は、元来大日本帝国の教育とはあい容れないものである上、第二次大戦下にあって国家神道に反対し、天照大神への神札を拒否したために検挙されたものである。
19年(73歳)11月18日巣鴨の東京拘置所にて死去。
(『新宗教教団・人物事典』井上順孝 他編者 弘文堂 平成8年)
大麻奉斎の拒否
1940(昭和15)政府は宗教統制をさらに強化し、宗教を効果的に戦争に動員するために宗教団体法を施行した。
政府は同法に基いて各宗教の統合を図り、日蓮正宗にたいして、身延山久遠寺を祖山とする日蓮宗への合同を強く求めた。
宗内で支配的になった合同の動きにたいして、創価教育学会は、日蓮正宗教義の厳格な解釈を主張して譲らず、始終、合同に反対した。
(『日本宗教事典』村上重良 講談社学術文庫 1988年)
宗教統制の強化とともに、政府は国家神道の本宗である伊勢神宮にたいする崇敬を全国民に強制し、各宗教に神宮大麻(神札)を祀るように強制してきた。
しかし、日蓮正宗の教義では、末法に入って、国中が謗法(ほうぼう)をおかしている時代には、法華経を守護する神々はすべて天上へ去り、現実に存在している神社は、祭神がいないぬけがらとなり、魔のすみかになっているとした。
この「神天上(しんてんじょう)の法門」からすれば、現在の伊勢神宮が出している大麻を拝するいわれはないだけでなく、魔のすみかでしかない邪教の神札を祀ることは謗法となる。
こういう信仰上の理由から同会では、牧口、戸田以下、結束して大麻奉斎を拒否した。
1943年(昭和18)同会は治安維持法違反、神社にたいする不敬罪等を理由に弾圧され、牧口、戸田をはじめ幹部21名が全国各地で検挙された。
牧口は、裁判中に獄死した。
(『日本宗教事典』村上重良 講談社学術文庫 1988年)
このような歴史を持ちながら「テロ等組織犯罪準備罪」で賛成の立場になるのか
権力の味を知ると悲しいほどにその権力を手放せないのだと思ってしまう。
戦争当時の庶民の生活を描いた
「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が間もなく上映されますね!
太宰治の「十二月八日」を転記しますφ(..)
今回で最終です。文庫本などで読めるのでぜひご一読ください。
夕飯の支度にとりかかつてゐたら、お隣りの奥さんがおいでになつて、十二月の清酒の配給券が来ましたけど、隣組九軒で一升券六枚しか無い、どうしませうといふ御相談であつた。
順番でどうかしらとも思つたが、九軒みんな欲しいといふ事で、たうとう六升を九分する事にきめて、早速、瓶を集めて伊勢元に買ひに行く。
私はご飯を仕掛けてゐたので、ゆるしてもらつた。
でも、ひと片附きしたので、園子をおんぶして行つてみると、向ふから、隣組のお方たちが、てんでに一本二本と瓶をかかへてお帰りのところであつた。
私も、さつそく一本、かかへさせてもらつて一緒に帰つた。
それからお隣りの組長さんの玄関で、酒の九等分がはじまつた。
九本の一升瓶をずらりと一列に並べて、よくよく分量を見較べ、同じ高さづつ分け合ふのである。
六升を九等分するのは、なかなか、むづかしい。
(『太宰治全集 第五巻』筑摩書房 昭和51年)
夕刊が来る。珍しく四ペエヂだつた。
「帝国・米英に宣戦を布告す」といふ活字の大きいこと。
だいたい、けふ聞いたラジオニユウスの事が書かれてゐた。
また、隅々まで読んで、感激をあらたにした。
ひとりで夕飯をたべて、それから園子をおんぶして銭湯に行つた。
ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。
園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。
お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いてゐる私の顔を、じつと見上げてゐる。
ちよつと、不安なやうな気もするのだらう。
よその人も、ご自分の赤ちやんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちやんに頬ずりしてゐる。
園子のおなかは、ぶんまはしで画いたやうにまんまるで、ゴム鞠のやうに白く柔く、この中に小さな胃どの腸だのが、本当にちやんとそなはつてゐるのかしらと不思議な気さへする。
そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花の様なおへそが附いてゐる。
足といひ、手といひ、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になつてしまふ。
どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。
お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。
もつと裸身を抱いてゐたい。
銭湯へ行く時には、道も明るかつたのに、帰る時には、もう真つ暗だつた。
燈火管制なのだ。
もうこれは、演習でないのだ。
心の異様に引きしまるのを覚える。
でも、これは少し暗すぎのではあるまいか。
こんな暗い道、今まで歩いた事がない。
一歩一歩、さぐるやうにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた。
あの独活(うど)の畑から杉林にさしかかるところ、それこそ真の闇で物凄かつた。
女学校四年生の時、野沢温泉から木島まで吹雪の中をスキイで突破した時のおそろしさを、ふいと思ひ出した。
あの時のリユツクサツクの代りに、いまは背中に園子が眠つてゐる。
園子は何も知らずに眠つてゐる。
背後から、我が大君に召されえたあるう、と実に調子のはづれた歌をうたひながら、乱暴な足どりで歩いて来る男がある。
ゴホンゴホンと二つ、特徴のある咳をしたので、私には、はつきりわかつた。
「園子が難儀してゐますよ」
と私が言つたら、
「なあんだ。」と大きな声で言つて、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなほ白昼の如しだね。ついて来い。」
と、どんどん先に立つて歩きました。
どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。
(『太宰治全集 第五巻』筑摩書房 昭和51年)