2019年12月2日月曜日

黄檗山萬福寺

駅のホームに麺座(中書島店)があったので山菜うどんを食べました。
今朝は、雨で体が冷えていたのですが温まった(^^)v

*記事の更新を終えます。
いつものことですが、転記ミスがあると思いますので
ぜひ、萬福寺を訪ねて静かな境内を体感してほしいなと思います。
見たかったのですが…
「宝蔵院と鉄眼一切経(重要文化財)」
 龍目井(りゅうもくせい)
この井戸は寛文元年冬、隠元禪師が掘らしめられたもので、萬福寺を龍に譬へ、これを龍目となし、天下の龍衆、善知識が挙って此處に集まらんことを念願されたもの
禪師曰く「山に宗あり 水に源あり 龍に目あり 古に耀き 今に騰る」
お地蔵さんがかわいい女の子に見えました(*´▽`*)
駒蹄影園碑( Koma-no-ashikage-en Monument )
鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているところへ、通りかかった栂尾高山寺(とがのおこうざんじ)の明恵上人(みょうえしょうにん)が馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひづめ)の跡に種のを蒔くように教えたと伝えれています。
この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです。

 栂山の尾上の茶の木分け植えて
    迹(あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影
                       明恵

由 緒
 中国福建省福州府の黄檗山萬福寺の住持であつた隠元禪師がわが國に渡來したのは承應三年(1654)である
萬治二年(1659)四代将軍家綱公よりこの地を賜わり
寛文元年(1661)新しい寺の建立を始め
元を忘れないたま黄檗山萬福寺と命名した。
尓來黄檗宗の本山として黄檗禅挙揚の源となつている
歴代住持の内十六人が中國僧であるのみならず
山内到る處中國色濃厚な事を特色としている。
屋根の上に乗っているのは鯱(しゃち)ではなく
よく見ると脚が生えています。

摩伽羅(マカラ)
摩伽羅とは、ガンジス河の女神の乗り物で、そこに生息するワニをさす言葉。
水辺の動物の中で一番強力であるため、アジアの聖域結界となる入り口の門、屋根、そして仏像などの装飾としてよく使われます。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
叔父の通夜や告別式が明日からなので二日ほど歩けません。
雨でしたが萬福寺にお参りにきました。
京都の紅葉の名所は観光客で溢れているようですが、ここ萬福寺は静かです。
そして雨の日でも廻廊が続いていて傘をささなくても歩けるところが多いです。
今、工事で見ることができないお堂などがありますが
ゆっくりとお参りできました。
(「文化財保護の現場から 歴史を未来へとつなぐ」京都府)
なお、この記事も工事中です(^^ゞ
二日ほど歩けないのでその間に記事を書いていきたいと思いますm(__)m
なお、拝観受付で購入した『最新版 フォトガイドマンプクジ』の他に
古寺巡礼 京都9 萬福寺』(昭和52年版、リンク先は2008年版)、
萬福寺の説明板などを転記していますが、
原文通りではありませんし、転記間違いがあると思います。
山門を 
  出れば日本ぞ 
    茶摘うた 
     七十三齢 菊舎


 一字庵田上菊舎は、宝暦三年(1753)10月14日、現山口県下関市豊北町田耕に生まれた。
16歳で近くの村田家に嫁いだものの、24歳のとき夫と死別。
子供がいなかったため、実家に復籍。
俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い、尼僧となって諸国行脚に明け暮れ一世を風靡した美濃派の俳人である。
 菊舎が萬福寺に初めて詣でたのは、寛政2年(1790)3月、38歳のときで、

  見聞に耳目をおどろかしつゝ、黄檗山のうちを拝しめぐり、誠に唐土の心地し侍れば

  山門を出れば日本ぞ茶摘うた


と詠んでいる。
黄檗山のたたずまいに酔いしれた菊舎が、三門を出た時、門前の茶畑から茶摘うたが聞こえ、一瞬我に返った時の句である。
 菊舎は、文政9年(1826)8月23日、同市長府にて死去。
享年74歳。
句碑の銅板は第二次大戦中に金属供出により失われていたため平成17年8月、菊舎顕彰会が復元したものである。
 一字庵菊舎は女流俳家なり。
本姓名を田上道と呼ぶ。
宝暦三年十月十四日長門国田耕村に生る。
父は長府藩士田上由永、母は豊田氏。
由永は後改めて本荘了左と称す。
菊舎十六歳にして郷里の著姓村田利之助に嫁し、二十四歳寡婦と為りて生家に復しぬ。
二十九歳薙髪して奥羽東海の行脚に出て、途次美濃派の宗匠朝暮園傘狂の門を敲く。
終生斯道に精進して遂に一家を成し、傍ら詩歌・書画・琴曲・茶儀の諸芸にも通暁せり。
深く藩主梅門公の眷遇を蒙る。
足跡殆ど海内に印し李紫溟・村井琴山・亀井南冥・小田海僊・小石元瑞・宗哲・費晴湖等の名流と交遊す。
斯くて蘿月松風塵外に徜祥して婦節を全うし、文政九年八月二十三日長府に寂す。
享寿七十四、徳応寺の塋域に葬る。
文化九年出版の手折菊四巻は其主著なり。
大正十一年十月十三日同府黄檗宗覚苑寺 進藤端堂、同万松院 山本提山両師発起して此句碑を建つ。
   五世後裔本荘熊次郎撰
 平成十七年八月、菊舎顕彰会これを復元する。
三門 重文 延宝6年(1678)横田道補信士建立
三間三戸。
重層の楼門造りで、左右に裳階(もこし)、山廊(さんろう)があります。
大棟中央に火焔付宝珠があります。
正面の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書。
背面の額「旃檀林(せんだんりん)」は千呆(せんがい)書。
ここを入れば脱俗の清浄域です。
円柱を用いた建物は、三門・天王殿・通玄門・舎利殿・寿蔵だけです。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
石 條(せきじょう)
境内を縦横に走っている参道は、正方形の平石を菱形に敷き、両側を石條で挟んだ特殊な形式であり、龍の背の鱗をモチーフ化したものです。
中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍象にたとえるので、菱形の石の上に立てるのは住持のみです。
江州日野田中藤左衛門・矢野儀右衛門の寄進によるものです。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
天王殿(てんのうでん) 重要文化財
 一般の臨済禅宗の大本山などなら三門の後ろにある伽藍は仏殿とか本堂とか呼ばれる仏堂であるが、黄檗宗では趣を異にして天王殿と呼ばれる殿堂がある。
当山のそれは五間三間・一重・入母屋造で、寛文8年(1668)の建築で、屋根の全形や鬼瓦・軒まわり等は在来の日本風であるが、正面一間通(いっけんどお)りを吹放(ふきはな)し(柱が並んで立ち、柱間に扉や窓・壁などがないこと)とし、その前に×型の組子を入れた高欄(こうらん<手摺>)を設けるなど、努めて中国風に扱ったところは他の寺では味わえないところである。
 この前の石段を上り切ると正面の吹放し部分に至るが、これから左右に廻廊が長く続く。
その廻廊は北または南へ行って東へ折れ曲がって奥へと延び、北では鼓楼・祖師堂・禅堂に、南では鐘楼・伽藍堂・斎堂に連なるが、これ等の諸堂楼は前面一間通りがみな吹放しになっているから、中に立って見通せば廻廊が続いているような気がするであろう。
それにさらに大雄宝殿の全面で内側に折れるし、大雄宝殿前面も吹放しだから廻廊と諸堂の前を通ることによって雨に打たれず回れるわけである。
大雄宝殿から奥も廻廊で法堂正面の吹放しへ回ることができる。
結局このように廻廊が完備して諸堂を連絡しているお寺は現在の日本では非常に特殊で、これも他寺と違った雰囲気を感じる要素のひとつであろう。
 さて天王殿は正面中央三間が扉、内部は土間で中央に明朝(みんちょう)の范道生(はんどうせい)作という弥勒菩薩、その背中合わせに韋駄天(いだてん)尊者、四隅に向かい合って四天王の像を祀っている。
柱脚の礎盤は太鼓形、天井は鏡天井(かがみてんじょう)、柱間(はしらま)には板蟇股(いたかえるまた)を入れる。
弥勒菩薩の坐る須弥壇は一般の禅宗様のものと同類であるが、いずれにしても天王殿が大雄宝殿の前にあるのが黄檗宗伽藍における一特色である。
(『古寺巡礼 京都9 萬福寺』富士正晴 安部禅梁他 淡交社 昭和52年)
布袋(弥勒)像 
范道生(はんどうせい)作 天王殿 木造金彩 像高110.3㎝
 三門をくぐって、黄檗様の飛石を歩むと、正面石段を登ったところに最初にお目にかかるのが、天王殿の布袋像である。
布袋は弥勒菩薩の化身といわれ、弥勒仏とされている。
 南北朝末後梁(6世紀後半)の高僧で、名は契此(けいし)、定応大師と号する。
身体肥満して額は広く腹大きく、常に杖をもって大きな布袋(ふたい)を荷い、すべて物はこの中に貯えた。
人々は長汀子・布袋和尚と呼んだ。
人の吉凶や請雨も予知し必ず当たったという。
弥勒菩薩の化身とされ、造像・絵画にされて尊崇されるに至った。
わが国ではまた七福神の一として貴ばれている。
 福々しい笑顔で、太鼓腹をつき出し悠然と坐して、未来に希望もって楽しく生きようではないかと話しかけているようである。
明代社会の現実主義を象徴する仏像といえよう。
 寛文3年(1663)11月末、隠元の命を受けて、范道生が造像し、はじめ松隠堂に安置されたことが「洗雲集」にみえる。
(『古寺巡礼 京都9 萬福寺』富士正晴 安部禅梁他 淡交社 昭和52年)
四天王立像
延宝2年(1674)造立、木造、造高各223.0㎝。
本像は大雄宝殿の迦葉(かしょう)・阿難両尊者立像とともに伊勢の福島信士などの喜捨によって造立されました。
着衣・甲冑に施された装飾的文様など明代彫刻を忠実に踏襲していますが、下半身が詰まり、衣の裾を重厚に強調している点などから日本人仏師の手になるもと推察されます。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
悲しいことに韋駄天は出張中でした(T_T)
大阪市立美術館の「仏像 中国・日本」
前回2011年3月19日に訪ねた時も九州に出張中でした…
紅葉も終わりかなと思うのですが
雨に濡れて、静かな境内で見るといいな(*´▽`*)

合山鐘(がっさんしょう)
開山堂の正面回廊の途中に吊るされている雲文梵鐘のこと。
開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の出頭以外には鳴らされません。
第6代千呆(せんがい)禅師(1636~1705)によって元禄9年(1696)に再鋳されたものです。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
石碑亭(せきひてい) 重文 宝永6年(1709)建立
亀趺(きふ)付きの顕彰碑と同時に建立。
碑には隠元禅師の特賜大光普照國師塔銘が刻まれています。
亀趺とは「亀の形に刻んだ碑の台石」のことであり、中国の碑の形式であって、我が国では江戸時代になって用いられるようになりました。
亀趺は、鳥取池田藩主の墓所、山口県東光寺、京都大亀谷仏国寺にも見られ、中国風を尊んだ江戸時代の藩主の墓碑や禅僧の行状碑に付属して多く作られ、それらの見本となりました。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
お尻も可愛かったです(^_-)-☆
寿蔵は開山堂の東北にあり、寿塔ともいい、開山堂前の通玄門・開山堂およびその背後の舎利殿とともに寛文3年(1663)にできたが、寿蔵は禅師の生前にその御霊屋(おたまや)として造られたものである(生存中に造られるとき「寿」の字をつけ、寿蔵・寿塔などという)。
この霊域は石段を上った上、はぼ半円形をなし、中門の奥に霊堂がある。
これは六角平面の六角円堂(略して六角堂)で、小規模ながら総円柱・組物出組(一手先)・扇垂木の禅宗様建築で、柱間は円窓、正面に「真空塔」の額を掲げ、前の碑には「開山隠元老和尚之塔」と彫り、また屋根の鬼瓦には中国の仙人がいろいろと現されている。
(『古寺巡礼 京都9 萬福寺』富士正晴 安部禅梁他 淡交社 昭和52年)
開山堂 重要文化財
 三門を通りすぎ左側に見る大建築で、前の通玄門とともに寛文3年(1663)の造営で、当山では早く営まれた建築の一つである。
桁行三間・梁間一間・一重・裳階(もこし)付・入母屋造で、背面に向唐破風造(むかいからはふうづくり)の後室が付き、凸字形の平面である。
(ゆか)は後室を除き全部四半敷(しはんじき)、正面三間一間は型通りに吹放しとし、その上はトンネル型のいわゆる黄檗天井とすること大雄宝殿・法堂と同じである。
外観上中国風なのは大棟中央の宝珠のほか、正面の卍文を入れた高い高欄、正面中の間の半扉(高さが半分ほどの扉、桃の彫刻があるので桃戸ともいう)などで、大雄宝殿背面と同じく正面柱間全部細かい縦桟の桟唐戸としてあるのも他寺では見られない。
屋根は二重だが内部で見られるように構造的には一重、梁間は一間であり、それに裳階(もこし)が付いている形で、これほど大建築でも全部方柱で円柱を用いていない。
身舎(もや)の組物は亜麻組(あまぐみ)という簡素なものである。
 内部には裳階部が勾配なりの化粧屋根裏、身舎が平たい鏡天井で広々としている。
正面に大きい前机が置かれ、その奥は後堂正面に当り、桟唐戸と半扉が吊込まれている。
なお柱に懸けられている多くの聯(れん<文字を彫った木札>)に中国気分を味わえるし、柱下の礎石も在来型と違う点などに注意したい。
 開山堂の後方、多くの石段を昇ったところに方三間・一重・宝形造(ほうじょうづくり)で軒まわり禅宗様の舎利殿がある。
 (『古寺巡礼 京都9 萬福寺』富士正晴 安部禅梁他 淡交社 昭和52年)
ブラタモリの「岡山~“岡山といえば桃太郎”なのはナゼ?~
でも桃が登場していました(^_-)-☆
 香椿(チャンチン)
*隠元禅師が中国から伝えたもの
*若葉は食用となる

祖師堂 重文 寛文9年(1669)
 今津浄水居士建立
禅宗祖師「達磨大師坐像」と、開山隠元禅師から57代までの歴代管長の位牌が祀られています。
達磨大師像は絵画でも多く描かれていますが、本山に所蔵されている逸然筆「朱衣の達磨像」や馬言筆「隻履達磨図」のように前歯が2本で描かれることがあり、この像にも見られます。
この坐像は、中国の名工范道生の作です。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
達磨大師坐像
范道生作、寛文3年(1663)像立、木造、像高166.5㎝。
達磨は南天竺・婆羅門国王の第三子といわれます。
はじめて禅を中国に伝えた禅宗第一祖として、昔から多くの像が造られてきました。
日本では、造像例は鎌倉以前にはみられないものの、図像例は平安時代まで遡ることができます。
本像はもともと体全体に金色が施されていたようですが、現在は下地の朱漆色が目立ちます。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
鼓 楼(左)
重文 延宝7年(1679)
信夢善士建立 重層入母屋造、本瓦葺
二階四周と縁と逆蓮柱付の匂欄を廻らし、大棟両端に鯱を置きます。
鼓楼は鐘楼と相対し、朝5時開静、夜9時の開枕に大鐘と太鼓をもって、時刻と消灯、本山の大衆に起居動作の始終を知らせています。
また賓客来山のときにあ鐘鼓交鳴して歓迎を表わします。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
白い幕のところに掲げられている板には「止静

禅堂(重要文化財)
坐禅するところ
齋堂、浴場と共に三黙道場といわれています
中央の観世音菩薩像は開山禅師が母からの手紙を張り込めておつくらせになつた伝えられています
両側の髙いところを単(たん)といい
坐禅も起き伏しもこの疊一じょうで修行します
「選佛場」の額は開山禅師筆
聠は木庵禅師筆
内部の聠は開山禅師及び六代千呆禅師筆共に重要文化財
表中央にかけてある牌(はい)
表止静(しじょう)裏放参(ほうさん)とあります
大雄宝殿(だいおうほうでん) 
重文 寛文8年(1668)建立 
歇山重檐式(けっさんじゅうえんしき)
萬福寺の本堂であり、最大の伽藍。
日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重なものです。
本尊は釈迦牟尼佛。
両脇侍は迦葉(かしょう)、阿難の二尊者。
両単に十八羅漢像を安置。
大棟中央に火焔付、二重の宝珠。
正面入口は魔除けとされる桃の実の彫刻を施した「桃戸」、左右に円窓。
上層の額「大雄寶殿」は隠元書。
下層の額「萬徳尊」は木庵書。
本堂内部須弥壇の上の額「真空」は明治天皇の御宸筆(しんぴつ)。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
十八羅漢
范道生作、寛文3年(1663)造立、木造、像高各130.0㎝前後。
奥州白河城主本多下野守忠平が、母の菩提を弔うために兄弟とともに寄進したものです。
相貌、衣文、持物等多様で強烈、躍動的な表現は明代彫刻の特徴をよく伝えています。
従来の鎌倉、室町の十六羅漢に、「慶友(けいゆう)尊者」と「賓頭盧(びんずる)尊者」を加え、十八羅漢とした明代寺院の形式を受け継いでおり、中国、台湾に現存する大雄宝殿と同様です。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
膝が光っているのは撫でられているんだろうな…
賓頭廬尊者(びんづるそんじゃ)
半托迦尊者(はんだかそんじゃ)
写真の囉怙羅(らごら)尊者は、両手で胸をきり開き、その中に仏顔が見えるという奇抜な像容で、十八羅漢中特に有名です。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)
これは三代目になるそうです。
お参りの参考にした『最新版フォトガイドマンプクジ』の表紙を見ると
何故、魚が選ばれたのかがわかりました(^^)v
魚梆
斎堂前の魚板。
大きな魚の形をし、口に球をくわえている。
木魚の原形であり時を報ずるもの。
魚は不眠不休ででいるところから
怠惰を戒めるためにこれを叩く。
三代目。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)

前回、2011年3月に訪ねた時は、このガイドブックのことを知らなかったのですが
今回、ガイドブックでいろなんことを知ることができました(^^)v
他の寺院では撮影禁止が多いのですが、萬福寺はほとんどなかったです。
斎堂(さいどう) 重要文化財
食堂です
中央には緊那羅王(きんならおう)菩薩が祀ってあり
約三百人が一堂に会して
食事をすることができます
表の額と聯は木庵禅師筆で共に重要文化財です
魚梆(魚板)は木魚の原型となったもので
儀式や行事の時刻を報じる時に打たれ
当山の時計にあたるものです
雲水が棒で打つと山内の隅々迄響き渡る音が出ます
堂前の生飯台(きばだい 青矢印)は食前に一箸の飯を餓鬼や鬼子母神などに施しをする台です
賣茶(まいさ)
右方窟門内のよせむねのお堂が賣茶堂
煎茶道の祖賣茶(まいさ)翁(髙遊外、月海元昭禅師)が祀ってあります
翁は當時開寺禅師の曽孫にあたり晩年洛東洛北名勝の地に茶席を設け行人に茶をすゝめ風流三昧に余生をおくりました
扉を見るとコウモリのような穴が開いているので検索すると

漢詩をよくし、自らを世俗のことも仏道も放り出したコウモリに似た「売茶の一老生」と呼び、身は市塵にまみれても永遠で絶対的な「劫外の春」を求める自由な生き方を貫いた。
売茶翁の煎茶」(三井寺)
怨親(おんしん)平等塔由来
昭和12年日中両国干戈を交うるに至り、痛恨にも両国の戦病死夥し
当寺はその創立中国と最も深き因縁にあり
当時の住職山田玉田和尚いたくこれを愁い、
戦禍に斃れた両国の将兵及び諸民の精霊を慰さめんと、
妙法蓮華経69,643文字を一字一石に謹書して宝筺印塔に納め
その冥福を祈ることを発願された
偶々信者四日市九鬼悠儼氏及びその一族深く感激してこの塔を建立し怨親平等塔と銘し
両国が一日も早く友好の昔にかえり 
親和親善の浄界実現を心から祈願された
怨親平等(おんしんびょうどう)
戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐(おんしゅう)を越えて平等に極楽往生させること。
中世の戦乱が多数の死者を生み、その霊がとむらわれないままに放置されたのを念仏によって救済した鎮魂行為で、特に時宗僧の活躍が知られている。
ちなみに、神奈川県藤沢市の時宗の総本山清浄光寺の境内には、応永23年(1416)24年にかけての前関東管領上杉氏憲と鎌倉公方足利持氏の合戦の戦没者を供養した応永25年建立の敵御方(みかた)供養塔(怨親平等碑)が現存し、その碑文には、戦火で落命した敵味方の人畜の往生浄土を祈願し、碑の前で僧俗が十念を称名すべきことを刻んでいる。
死者への慈悲に加えて、死霊の御霊(ごりょう)化を恐れ、念仏による慰霊をはかったものと解されている。
さらに文永・弘安の役の蒙古軍撃退ののちに敵味方の霊を弔ったことは、民族や国の対立を超えることを意味し、島原の乱のあとで敵(切支丹)味方の霊を弔ったのは、宗教の相違をも超えることをめざしたいたわけである。
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
鎮守社があるので見に行くと
祠の屋根に鳩がいるということは…

八幡宮祠堂 重文 寛文7年(1667)建立
一間社流造。
八幡宮の祭神、八幡大菩薩は、奈良時代から平安時代にかけて護国霊験威力大神通大自在王大菩薩の号が授けられました。
のち石清水へも勧請され、武家の守護神となりました。
寛文4年に放生池を開鑿(かいさく)する資金を喜捨した原田佐右衛門が、天王殿と伽藍堂建設に先立って、境内守護と法門隆盛を祈願して寄進、建立しました。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)

影壁(えいへき)と隠元やぶ
総門を入ってつきあたりに影壁と呼ばれる魔除けの壁があります。
総門からまっしぐらに突進して来た邪鬼はこの影壁に激突し、驀直(まくじき)に去るといわれ、智慧ある者のみ三門に至ることができます。
隠元禅師が請来された孟宗竹(もうそちく)の藪を「隠元藪」と称しています。
この孟宗竹は洛西・山城地方一帯に繁殖したといわれ、今日では全国に分布し食材としても使われています。
孟宗とは中国の『二十四孝』という親孝行をした24人の有名な物語に出てくる人の名です。
ある日孟宗は病弱の母に筍を食べさせようと竹林に入ったが、時は冬で見つけることができませんでした。
ところが、親を思う切なる願いに天地が感応して筍が生じました。
これが「孟宗竹」の名の由来です。
隠元禅師は、竹に関する詩を多く作られ、また自ら竹を植えられた記録があります。
竹は四君子「梅・蘭・竹・菊」の一つであり、高雅にして節操あるをもって多くの人に好まれ、詩や画題として取り上げられています。
古典落語にある錦(金)明竹(きんめいちく)も同じく禅師によってもたらされたものと言われ、黄金色の中に緑色の縦筋が入った大変珍しいものであり、境内に植えられています。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)

落語『金明竹』の舞台を歩く
放生池(ほうじょういけ) 寛文4年(1664)
放生とは捕らえられた生き物を放して功徳を積むことで、この池で放生会(ほうじょうえ)という儀式が行われます。
その形は半月型を為して、風水上の機能を有しています。
隠元禅師の放生思想は、明代の雲棲袾宏(うんせいしゅこう)などの放生運動をうけたもので、「雲棲大師戒殺放生文」の跋文ほか放生を勧める法語がたくさんあります。
(『最新版 フォトガイドマンプクジ』大本山萬福寺 改訂版平成13年)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    >黄檗山萬福寺
    あらてめて、萬福寺ってとても広かったのですね。
    四十数年前に訪ねました。
    すっかり忘れてしまっています。
    布袋様だけは、印象に残っていましたが。。。
    普茶料理を頂いたような記憶も少し残っています。(^-^;

    >布袋は弥勒菩薩の化身といわれ
    そうだったんですね。
    あの美しい姿の弥勒菩薩様の化身。
    う~ん?ちょっと不思議な感じです。

    萬福寺については中国風のお寺だったかな?
    くらいしか残っていません。
    (若すぎたせいにしてください(^-^;)
    また機会があったら訪ねたいです。
    宇治平等院と、一緒にもう一度。

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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      >四十数年前に訪ねました。
      その頃は、萬福寺の存在を知りませんでした(^^ゞ
      今回、二度目になりますが
      広く感じるのは、伽藍配置と観光客が少ないこともあるかもしれません。
      ゆっくりと拝観できるので、大きな寺院だなと感じたのかもしれません。

      >普茶料理を頂いたような記憶も少し残っています。(^-^;
      前回もそうですが普茶料理は食べたいなと思いながら
      山菜うどんになりました( ´艸`)

      >あの美しい姿の弥勒菩薩様の化身。
      布袋様と弥勒様と結びつかないですよね(^_-)-☆

      σ(^-^;も訪ねたいです。
      平等院や三室戸寺も素敵ですよね(^^)v

      削除