2014年8月31日日曜日

京都(聖護院~黒谷~河原町)

11時過ぎにお店に入りました.
それでも満席…
お目当ては「タルトタタン」(^-^)
松永ユリさんの遺影
番組の中で,いつもこの席に座っている姿が映し出されていました.
お店は「武道センター」向かい
ラ ・ヴァチュール(La Voiture)
御辰稲荷(おたついなり)神社
無病息災・芸能上達の神

真黒石信仰のお参りの仕方
人されぞれの願い事があります.
袋の真黒石を,福石大明神の前に置き,願い事をして下さい.
願いが終わりましたら,真黒石を持ち帰り,肌身に御守として持っていただくか,神棚にお祭りして,願いが叶う様日々,お願いをして御守護願います. 

須賀神社(すがじんじゃ)(交通神社)
平安時代末の康治元年(1142),美福門院(びふくもんいん)の建てた歓喜光院(かんきこういん)の鎮守として創祀されたもので,祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと),櫛稲田比売命(くしなだひめのみこと)を主神に,久那斗神(くなどのかみ),八衢比古神(やちまたひこのかみ),八衢比売神(やちまたひめのかみ)を加え,五柱を祀る.
もとの社地は平安神宮蒼竜楼(そうりゅうろう)の東北にある西天王塚で,当社は岡崎の東天王者と相対して古くは西天王社と呼ばれた.
その後,吉田神楽岡に転じ,今の地に移ったのは大正13年(1924)のことである.
聖護院一帯の産土神
(うぶすながみ)とされ,また縁結び,厄除け,交通安全の神として崇敬厚く,ことに節分祭には参詣者で賑う.
5月10日の神幸祭は角豆(ささげ)祭といい,氏子の家々には遠くの縁者も集まる.
ささげのつる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味であろう.
        京都市 
積善院準提堂(しゃくぜんじゅんていどう)
積善院は,聖護院(しょうごいん)門跡(本山修験宗の総本山)の門跡を代行することもあった一院家であり,創建は鎌倉時代に遡るとされ,昔は「栴ノ坊(なぎのぼう)」称した.
明治の初め頃に準提堂と合併され,積善院準提堂と称するようになった.
本堂には,寛政年間(1789~1801)光格
(こうかく)天皇の勅願により,その皇子である聖護院宮盈仁法親王(えいにんほっしんのう)の開眼となる準提堂の本尊・準提観音像と,鎌倉初期のもので智証(ちしょう)大師の作風を伝え,截金(きりがね)文様の美しい積善院の本尊・不動明王像(重要文化財)を安置する.
聖護院の森の西北(現在の京大病院の辺り)の野にあって庶民の信仰を集めていた石仏の崇徳院(すとくいん)地蔵(別名 人食い地蔵)を境内西北隅に祀る.
崇徳院地蔵は一名を「人喰い地蔵」という.
付近の京都大学病院付近は院政期に白河法皇が造営した院御所の1つ,白河北殿の跡地にあたる.
1156(保元元)年におこった保元の乱の際,崇徳(すとく)上皇方の本拠となり,源為義(みなもとのためよし)・為朝(ためとも)父子や平忠正(たいらのただまさ)らがこもった.
7月10日の早暁,白河天皇方の源義朝(よしとも)らが強襲し,激闘数時間ののち,上皇方は壊滅し,御所は炎上した.
その後,崇徳上皇の怨霊(おんりょう)を慰撫(いぶ)するため御影堂が建立され,地蔵尊はその遺仏という.
近年,旧地からうつされた.

「人喰い」は崇徳がなまったものという.
(『散歩シリーズ 京都洛東・洛南散歩24コース』山川出版社 2004年)
また境内には,近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)」にちなんだお俊(しゅん)伝兵衛(でんべえ)恋情塚(れんじょうつか)がある.
これはお俊と伝兵衛が聖護院の森で心中しようとしたあらすじにちなむもので,昭和27年,義太夫(ぎだゆう)節の名人・片岡仁左衛門(にざえもん)らの発起によって供養塔と碑が建てられた.
毎年2月23日に行なわれる五大力尊法要(ごだいりきそんほうよう)は盗難除け・家運繁栄を願う善男善女で賑う.
  京都市




金戒光明寺にやってきました.

この山門は江戸幕府の命により文政11年(1828)再建にとりかかり萬延元年(1860)12月に落慶されたものである.
古くは当寺九世定玄上人の時代(1398~1415)応永年中に建立されたが応仁の乱にて兵火に罹り焼失し,約350年後に再建された.

常光院
八橋検校(やつはしけんぎょう)の菩提寺です.
【熊谷直実(くまがいなおざね)(よろい)掛けの松】
熊谷次郎直実(1141~1208)は,建久4年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね,方丈裏の池にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家しました.
池はその後,鎧池と呼ばれるようになりました.
庵は蓮池の畔に建てられ,現在は蓮池院(熊谷堂)となっています.
供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています.
平成25年9月に二代目の古樹は枯れ,現在は三代目となります. 



お会いしたかった仏様(*^-^*)

螺髪(らほつ)の一番大きいところで周囲2メートル近くもあるとか…
このような仏像を「五劫思惟阿弥陀仏
(ごこうしいあみだぶつ)」といい,全国でもわずか16体ほどしか見られないという. 
五劫思惟の〝劫〟とは,時の長さを表わす単位で,一劫は43億2千万年!
つまり五劫は216億年!!
そんな気の遠くなるような長い時間,思惟をこらし修業を重ねた結果,髪の毛が伸びたという.
お寺によると石仏が造られたのは江戸時代中頃で,当時亡くなった人のご遺族がお墓とともに建立したらしい.

(『京都珍百景』らくたび文庫 2013年)
徳川秀忠夫人崇源院の供養塔
春日局が,同夫人の死後,追善菩提のために建立したもので,夫人の遺髪が納められている.
(墓所は東京芝の増上寺)

傀儡塚(くぐつづか)
傀儡師(くぐつし)とは,小さな人形に無量の願いをこめ,人に除災招福の灯火を掲げて回向し,旅に果てた芸能者たちである.


會津藩殉難者墓地
歴史を見ると「勝てば官軍,負ければ賊軍」というように
記録として残るのは勝者の側の資料.
それも勝者の都合のいい様に書き換えられていることが多い.
会津藩や新撰組は,どちらかといえば敵役を演じてきたと思います.
でも,新撰組のファンに出会うことが多いですし
「八重の桜」以来,会津藩のファンも増えたのじゃないかな(*^ー゜)
一人で来られた女性

金戒光明寺 会津藩が本陣をおいた寺
京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)は,京都黒谷の金戒光明寺に本陣を置きました.
近藤勇はこの寺で会津藩お預かりとなりました.
晴れて幕府の為に働くこととなった勇は,忠義を尽くす決意を固めます.
この寺には新選組と共に戦った会津藩士達が眠っています.
(「NHK映像マップ みちしる」)
江戸時代初期徳川秀忠公菩提の為に建立の三重の塔に安置されている。

京都タワーが見えました(^_^)v
お昼に野菜の冷製パスタ(^_^)v
聖護院門跡
聖護院八ツ橋総本店

母に頼まれていたのはしば漬けでしたので
聖護院本舗たかはし本店で茄子と胡瓜のしば漬けをお土産に(*^▽^*)
漬物は,禅宗の修行僧と深いかかわりがありました.
京都大学iPS細胞研究所

高瀬川一之船入(いちのふないり)
瑞泉寺
瓦の「消された菊花紋」
下に並べられた古瓦は,当寺の旧山門の瓦ですが,どれも中央の菊花紋がセメントで塗りつぶされています.
これは,明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈の大嵐の時,天皇家にはばかって寺が「菊花紋」を自主的に消したものと思われます.
現在も本堂の屋根などに同じものが数多く認められています.
どれも,当寺の歴史を語る貴重な資料だと考えます. 住職



豊臣秀次が,謀反の疑いをかけられて1595年(文禄4)に高野山で自刃させられた後、
その子供5名と妻妾34名の計39名の一族が三条河原の南西詰めで処刑された。

秀吉の甥,豊臣秀次は近江八幡に,各地から有力な商人や職人を呼び寄せました.
しかし秀次は,秀吉から謀反の疑いをかけられ,切腹させられます.
諸大名を震撼させた「秀次事件」は,豊臣家の行く末に暗い影を落としました.
この堂の中央に安置された地蔵菩薩像は,秀次公一族の処刑の際,四条・大雲院の僧「貞安上人」が刑場の一隅にその木像を運び込み,次々と打たれる子女達に引導を授け続けた,と伝わる尊像です.
極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵」として京洛の人々に今日なお崇敬されています.
「定朝」作 寺伝

子どもの頃,織田信長や豊臣秀吉が好きだったのですが
歴史を知れば知るほど嫌いになってしまいました…
酢屋
四条河原町で休憩
六曜社
高田渡が愛した喫茶店です.
マスターはあまり商売気がないなと思いました.
と言うのは,お客さんが入ってきたのですが「今,満席なんです」と…
Kazeが席を立とうとしていたのに…
珈琲をゆっくり楽しんでもらいたいという気持ちが溢れています(*^-^*)
ちなみにドーナツも美味しいですよ!