歩いている間、空が暗かったです。
季節外れに咲いているユキヤナギを写していると
リハビリ仲間の方と目があいました。
その方は、片マヒで母と同じくらいの高齢ですが、ほぼ毎日、歩いておられます。
その方には、休憩するために何でもいいから写していると話しました。
メジロがパクッと飲み込んでいました。
鳥の消化器官は食べたものをすぐに消化し、不要物を早く外に出すようになっています。
歯があると重くなるので、食べ物を丸飲みし、砂のうという器官でくだくのです。
また、腸はとても短くつくられています。
このため、鳥はあまり食いだめができず、ひんぱんにエサを採らなければなりません。
(『野鳥ブックス1 BIRD WATCHING―野鳥と出会うために』
日本野鳥の会 1981年)
再放送も終わったのですが
又吉直樹のヘウレーカ!「トウガラシはなぜ病みつきになるのか?」で
こんなことが話題になっていました。
科学雑誌「ネイチャー」2001年掲載されていた論文に
トウガラシはなぜカプサイシンを作り辛くなるのか?
アメリカ アリゾナ州の砂漠に自生するトウガラシを調べたところ、
食べるのは鳥類ばかりでヤマネズミは辛みを嫌って食べなかった。
比較のために辛みのない品種食べさせてみたヤマネズミのフンを観察すると
フンに残ったタネは哺乳類特有の奥歯でかみ砕かれていて発芽できなかった。
つまりトウガラシのとっては食べられ損になってしまう。
このことからカプサイシンを作るのは、哺乳類に食べさせない戦略だった。
トウガラシは鳥が専属の客になるようにしている。
地上の動物では鳥ほどばらまいてくれない。
熊とかは消化器官が長いので排出されるときには芽が出ない状態になっている。
鳥は辛いとかの味覚を感じないで平気で食べることができるのですが
そのトウガラシを人間は好んで食べる…
トウガラシの戦略は人間には通じない(^_-)-☆
先日、万福寺を訪ねた時に「駒蹄影園碑」を見ました。
それは明恵上人への感謝と功績を顕彰するための碑でした。
『徒然草』に明恵上人が登場する段があります。
第百四十四段
栂尾(とがのを)の上人(しやうにん)、道を過ぎ給ひけるに、河(かは)にて馬洗ふ男(をのこ)、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止(どま)りて、「あな尊(たふと)や。宿執開発(しゆくしふかいほつ)の人かな。阿字(あじ)阿字と唱(とな)ふるぞや。如何(いか)なる人の御馬(おんうま)ぞ。余りに尊(たふと)く覚(おぼ)ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(ふしやうどの)の御馬に候(さうら)ふ」と答へけり。
「こはめでたき事かな。阿字本不生(あじほんふしやう)にこそあンなれ。うれしき結縁(けちえん)をもしつるかん」とて、感涙(かんるゐ)を拭(のご)はれけるとぞ。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
・栂尾の上人 京都市右京区梅ケ畑高尾町(うめがはたたかおちょう)にある栂尾山に高山寺(こうざんじ)を興した、華厳宗の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん)。
諱(いみな)は高辨(こうべん)。
後鳥羽上皇・建礼門院に受戒し奉り、また、北条泰時(やすとき)に崇敬された。
1232年寂、60歳。
『華厳唯心義(けごんゆいしんぎ)』『摧邪輪(ざいじゃりん)』『阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)』『明恵上人歌集』等の著作がある。
・宿執開発 宿執(前の生において執<と>り行った善根功徳<ぜんこんくどく>)が開発(今の世において開きおこって、善果を結ぶこと)した人。
・阿字本不生 阿字は一切の語と字の本源であることから、すべての諸法(現象)の根源として、他の因により生じたものではない。
このことを悟れば、一切の諸法も、もともと不生・不滅であるという理。
(『新訂 徒然草』西尾実、安良岡康作校注 岩波文庫 1985年改版)
実は、この段のよさが分らずにいたのですが
島内裕子さんの現代語訳と評を読んでいいなと思いました。
訳
栂尾の上人、すなわち明恵上人が、道を通りかかった時に、川で馬の足を洗っていた男が、馬に足をあげさせようとして、「あし、あし」と言った。
すると、上人は立ち止まって、「ああ、なんと尊いことだ。この馬の持ち主は、きっと宿執開発(しゅくしゅうかいほつ)、つまり前世の善果がこの世で結実した人に違いない。
あのように、「阿字(あじ)、阿字」と梵語を唱えているではないか。いったい、どのようなお方の馬なのだろう。これほどにも尊く思えるのは」と尋ねられた。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
馬は、官庁の下級職員である府生(ふしょう)の物だったので、男は、「府生殿(ふしょうどの)のお馬でございます」と答えた。
すると上人は、またまた聞き間違えて、「これはまた、何と素晴らしいことだろう。「阿字本不生(あじほんふしょう)」、すなわち万物は不生不滅(ふしょうふめつ)である、ということだ。今日たまたま、こんなに深淵は言葉を聞くとは、うれしい機縁に恵まれたことだ」と言って、感動の涙を拭われた、とかいうことだ。
評
この段は、前段と異なり、明恵の純粋無垢な対する兼好の共感・好感に注目すべきだろう。
このような話は、第五十二段に書かれていた、石清水八幡宮の末社を本宮と勘違いした仁和寺の僧の話や、第二百三十六段の聖海上人が狛犬の向きのいわれを勘違いして感涙を流した話とも響き合う。
(『徒然草』兼好著 島内裕子翻訳 ちくま学芸文庫 2010年)
2014年10月9日に京都国立博物館での
特別展「修理完成記念 国宝 鳥獣戯画と高山寺」で
購入した図録から
明恵上人と高山寺の文化財 石塚晴通
二 学問と実践
明恵の性向の特徴として、一途でひたむきということが指摘し得る。
それが柔的に表われると仏眼仏母信仰や自然詠歌の如く極めて感じ易く素直な一面となり、剛的に表われると山中蟄居や『摧邪輪(ざいじゃりん)』の如く極めて厳しく孤高な一面となっている。
(『国宝 鳥獣戯画と高山寺』京都国立博物館、朝日新聞 2014年)
今に高山寺に伝わる仏眼仏母像は明恵が母として仰ぎ本尊として崇めたものである。
紀州白上の峰の草庵の壁に懸けて常に礼拝し、この画像の前で右耳を切落して仏道に打込むことを誓ったと伝えられている。
絹本著色で、縦197.0センチ、横127.9センチの大幅である。
左右の端に明恵の筆で「モロトモニアハレトヲホセワ佛ヨキミヨリホカニシル人モナシ无耳法師之母御前也/哀愍我生々世々不暫離/(南無)母御前母御前(以上、右)南無母御前母御前/釈迦如来滅後遺法御愛子成弁紀州山中乞者敬白(以上、左)」と書き込みまれている。
極めて純真な感じ易い一面が良く表れている。
「仏眼仏母像(ぶつげんぶつもぞう)」(京都国立博物館)
また、ひたすら渡天竺に憧れたり、鳥・石までも友とする心もこれに通じている。
明恵の歌は単純明快であり、当時の歌壇が本歌取りや古歌・先行歌を踏まえることに腐心していた中で特異な存在である。
仏教用語が入り一見難解な歌も、学問しているその時々の経疏(きょうしょ)の語句をそのまゝ詠み込んだもので歌自体としては単純明快である。
これに対し、教義・修行に関しては極めて厳しく妥協を許さぬ一面を見せている。
『摧邪輪』では、一向専修称名念仏を説く法然の『選択集(せんちゃくしゅう)』を真向より厳しく反駁しており、また同年生まれで法然の門より出でた親鸞の一大論敵であった。
晩年有力な帰依(きえ)者も現れ梅尾に寺院としての建物も増し僧衆も加わる中で、ひたすら山中の庵室に蟄居し坐禅入観の自行に勤めた様は孤高の存在であった。
建久2年(1191)19歳より寛喜2年(1230)58歳まで40年間に亘り書き残されている「夢記」には、夢という性質上前者に連なるものもあるが、夢の中でまで学問して解決を得ている後者に連なるものも多く、何れにしてもその時々の正直な心が窺われる。
若くして伝統ある南都東大寺尊勝院の学頭となった程、学問に秀でた明恵ではあったが、実践の行を極めて重んじ、この点にこそ特色がある。
今に高山寺に伝えられる欅の板に書かれた明恵『阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)』は日用清規(しんぎ)であり、明恵の真面目が表れているので此処に引用しておく。
(省略)
厳しくも合理的な日用清規である。
この精神は、同行弟子に目配りしている「学問印信掛板」(板に僧名を連ね、名の下に穴を空けて経論章疏<きょうろんしょうしょ>の意味を体得した証として穴をふさぐ仕掛け)にも良く表れている。
示寂(じじゃく)の八日前の「置文」に、「寺主定真(空達房)、学頭喜海(義林房)、知事霊典(義渕房)、説戒信慶(円道房)、性実(法智房)」と定められており、彼らが中心となって明恵示寂後の梅尾高山寺を支えたのであり、他の同行としては空弁、証定、長真、円弁(了達房)、高信(順性房)、浄弁、順高、仁真(玄密房)、明信(禅忍房)、証禅(尊順房)、行弁(上見房)、義覚房、定竜(侍者)等が知られている。
このうち高信(順性房)は画才でも知られ、同じく明恵有縁の画家としては成忍(恵日房)、俊賀法橋、兼康(絵所絵師)等が有り、今に高山寺に伝わる華厳宗祖師絵伝(元暁<がんぎょう>伝・義湘<ぎしょう>伝)は彼等の中の誰彼が明恵のイメージを重ねながら元暁・義湘絵巻を描いて行ったものと言われる。
(『国宝 鳥獣戯画と高山寺』京都国立博物館、朝日新聞 2014年)