2018年1月19日金曜日

白川~八坂神社~丸太橋など

今日も暖かかったので町歩きをしました(^_-)

大和橋(やまとばし)
 大和橋は江戸幕府によって石柱・石桁・石板形式で架けられました。
当時の様子は上の絵から偲ばれますが、白川の川幅は今より広かったことがわかります。
現在の橋は明治45年に架け替えられたもので、
今回、高欄の改修と石畳舗装を行いました。
これからも当時の面影を残す貴重な石橋として保存してまいります。
平成15年3月
縄手通大和橋 (大和橋)」(国際日本文化研究センター)
かにかくに碑

かにかくに 祇園はこひし 寐(ぬ)るときも
              枕のしたを 水のながるる

 この歌は、祇園をこよなく愛した歌人として知られる吉井勇(よしいいさむ 1886~1960)が
明治43年(1910)に詠んだ一首で、彼の歌集「酒ほがひ」に収められている。
 当時は白川の両岸に茶屋が建ち並び、建物の奥の一間は川の上に少々突き出ており、
枕のしたを 水のながるる」はその情景を詠んでいる。
しかし、第二次世界大戦下の昭和20年(1945)3月、空襲の疎開対策に白川北側の家々は強制撤去され、
歌碑が建っているこの地にあった茶屋「大友(だいとも)」も犠牲になった。
大友は当時の文人、画人たちと幅広く交流のあった磯田多佳(いそだたか)の茶屋である。
 昭和30年11月8日、友人たちにより吉井勇の古稀(70歳)の祝いとして、ここに歌碑が建立された。
発起人には、四世井上八千代(いのうえやちよ)、大谷竹次郎(おおたにたけじろう)
大佛次郎(おさらぎじろう)、久保田万太郎(くぼたまんたろう)、里見敦(さとみとん)
志賀直哉(しがなおや)、新村出(しんむらいずる)、杉浦治郎右衛門(すぎうらじろうえもん)
高橋誠一郎(たかはしせいいちろう)、高山義三(たかやまぎぞう)、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)
堂本印象(どうもといんしょう)、中島勝蔵(なかじまかつぞう)、西山翠嶂(にしやますいしょう)
湯川秀樹(ゆかわひでき)、和田三造(わださんぞう)などそうそうたるメンバーが顔をつらねた。
 以来、毎年11月8日には吉井勇を偲んで、「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行われている。
   京都市
火除(ひよ)け地蔵
 この地蔵は「火除け地蔵」と呼ばれている。
 地蔵菩薩は、あらゆる場所に身を変えて現れ、
六道の衆生を救ってくれるとともに、
様々な現世利益をもたらしてくれると言われている。
『地蔵菩薩本願経』では、代表的な十種のご利益の一つとして
「火除け」があるとしている。
 地蔵菩薩信仰は、平安時代末期から広がりはじめ、
鎌倉時代以降は広く民衆に浸透していった。
12世紀前半に書かれた『今昔物語集』には、
地蔵菩薩にまつわる説話が32編書かれており、
その一つにお地蔵さんの化身である小僧が火事を知らせてくれたという話がある。
 また、天明元年(1781)に書かれた木室卯雲(きむろぼううん)の『見た京物語』には、
「町々の木戸際ごとに石地蔵を安置す。これ愛宕の本地にて火ぶせなるべし。」と書かれており、
江戸時代の愛宕山の地蔵は、一方では火伏せの神として知られており、
京都のまちに「火除け地蔵」があったことが分かる。
  京都市
ブラタモリ 「#70 京都・祇園~日本一の花街・祇園はどうできた?ー」で
市電を通すために道幅が拡張されたことが紹介されていました。
そしてこの西楼門も移動したことが紹介されていてホーッと思いました。
八坂神社(元・祇園社)にやってきました(^_^)b
この後、不思議と京都市電(路面電車)に関わる場所を歩いていました(^_-)
 (えき)神社 
 祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)
 むかし祖神(おやがみ)が諸国を巡って日暮れに宿を請うたところ
巨旦将来(こたんしょうらい)は富み栄えていたのに貸さず、
蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しかったけれども粟殻で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので、
「われはハヤスサノヲの神なり」といい、
後年疫病が流行しても茅(ち)の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、
災厄から免れしめると約束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが、
蘇民将来の子孫は今に栄えています。
例祭一月十九日 夏越祭七月三十一日

着いた時は、もう例祭が終っていました(T^T)
でも、普段、閉まっている戸が開いていて
「蘇民将来」の額を見ることができました(^_^)b
南楼門の改修工事が去年の4月に終っていたんですね。
 石鳥居と南楼門の間に
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき 晶子」の歌碑
その隣にあるのが

月下氷人石
(略)
「天保十年己亥初秋建之」と正面に大きく彫られたこの石の左側には「尋ね方」、右側には「教え方」とあります。
迷子や行方不明の人を探す時、紙にその人の特徴を書き、「尋ね方」に貼ります。
「教え方」には心あたりの人が「何某までよろしく」と張り紙をする仕組みになっています。
月下氷人とは、仲人のことですが、仲介者という意味で名付けられたのでしょう。
京都にはもう一ヵ所北野神社の茶室の庭にもあり、その石には月下氷人石と彫られています。
いずれも人の大勢集るところへ設置されていました。
 読みにくいのですが、碑面には、変体がなでこう書かれています。
(略)
 天保十年の三月、市中を老若男女が仮装し狂気乱舞「ちょうちょう」と合いの手を入れながら踊り狂ったとあります。
この現象は、長く続いた天保の大飢饉のための不安や不況を一掃したいという庶民の豊作への祈りとあわせての爆発だといわれています。
 この年「蛮社の獄」がはじまり、渡辺崋山、高野長英が逮捕され、その二年後崋山は自刃しています。
(略)
なお、救済の中心的人物の鳩居堂(きゅきょどう)四代目当主熊谷直恭(蓮心)は京都で種痘を初めてやらせた人として有名です。
 天保年間の大飢饉は、幕藩体制をくつがえすきっかけになったようですが、大坂の大塩平八郎の乱もやはり天保八年のことでした。
 月下氷人石は、天災・人災に悩まされ続けた幕末の京都庶民の立会人ともいえましょう。
(『京都障害者歴史散歩』藤本文朗・藤井克美編 文理閣 1994年)
 藤屋と空也上人ゆかりの井戸
 この場所には、明治初年まで藤屋という茶店があった。
店の傍らに藤棚があったので屋号を藤屋と称した。
 藤屋の初代は、この井の清水を沸かし当社参詣の諸人に呈した。
爾来、参詣者はこの白湯を呑み、身を清めてから参拝さいたので、きよめの茶屋ともよばれた。
 延長三年(925)のむかし、時の醍醐帝が疱瘡を罹られ、諸人も病に苦しんだ。
 その惨状をみかねた空也上人は当社に参籠し、帝また諸人の病気平癒を祈念した。
その時、上人はこの井の清水を用いた白湯を諸人に施し、それを呑み人々は癒やされたという。
 のち、向かいにもう一軒の茶店が出来(現在の中村楼)、
鳥居の内のこの二軒の茶店は、二軒茶屋とよばれ人々に親しまれた。
忠盛燈籠(ただもりとうろう)
永久年間の頃(12世紀)白河法皇(しらかわほうおう)
祇園女御(にょうご)の許(もと)に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、
折しも五月雨(さみだれ)の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇は供(とも)の平忠盛(たいらのただもり)に討取(うちと)ることを命じられたが、
忠盛はその正体を見定めての上とこれを生捕(いけど)りにしたところ、
油壺(あぶらつぼ)と松明(たいまつ)とを持ち燈籠に燈明(とうみょう)を献(たてまつ)ろうとしていた祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被(かぶ)っていた蓑(みの)が灯(ともしび)の光をうけて銀の針のように見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと云う。
この燈籠はその時のものといわれている。

(「祇園社乱闘事件」についても書かれていたのですが、長文なので最後に転記します。)
悪王子社
 祭神 素戔嗚尊(すさのをのみこと)の荒魂(あらたま)
 
 悪王子の「悪」とは「強力」の意である、
荒魂は、現実に姿を顕わす、霊験あらたかな神の意であります。
諸願成就の御神徳で聞こえております。
元は東洞院四条下ル元悪王子町にありましたが、
天正年中(1573~92)烏丸通万寿寺下ル悪王子町に還り、
慶長元年(1596)四条京極に、
さらに明治10年(1877)本社境内に移築したものです。
 美御前社(うつくしごぜんしゃ)
際神
市杵島比売(いちきしまひめ)
多岐理毘売(たぎりびめ)
多岐津比売(たぎつひめ)神 
美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。
本社の際神、素戔嗚尊が天照大神と誓約(うけい)をされたとき、
素戔嗚尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生まれた三柱の女神で、
宗像三女神(むなかたさんじょしん)といい、清浄・潔白の証しとなった神々で、
俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。
古くから祇園の芸妓さん舞妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより、
美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。

最近、霜焼けがあるので「美容水」をほんの少しつけました(^_-)
知恩院三門

三門(国宝)
この三門は三解脱門(空・無相・無作)の意味をもつ。
元和7年(1621)徳川二代将軍秀忠公の寄進によって建立され、
一階の桁行は26.6メートル、礎石より二階棟瓦頂部まで23.8メートルある。
入母屋造、本瓦葺の五間三戸二階二重門で左右に山廊のある三門特有の形式をもっている。
上層の内部は極彩色を施し、須弥壇中央に釈迦牟尼佛、
その左右に須達長者と善財童子、脇壇の左右に十六羅漢像を安置する。
三門正面に掲げる「華頂山」の額は霊元天皇の宸筆(しんぴつ)である。
平成14年5月、国宝に指定された。
  総本山知恩院 
本願寺発祥之地
蓮如上人御誕生之地
親鸞聖人旧御廟所
  元大谷崇泰院(そうたいいん)
花園天皇(はなぞのてんのう) 十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)
「花園天皇宸翰御消息(はなぞのてんのうしんかんおんしょうそく)」
行きは誰にも会わなかったのに帰り
欧米から来られたのかな?
親子?が上っていきました。
 京都市登録天然記念物
青蓮院のクスノキ
 このクスノキは、青蓮院の築地の上に4本、
さらに境内の庭園内に1本が生育している。
 樹高は最大のもので26.1メートルに達する。
いずれも幹から大枝を伸ばし、クスノキに特徴的な
半球形のこんもりとしたみごとな樹冠を形成し、樹勢も良好である。
 12世紀末に親鸞聖人に植えられたとも伝えられているが、
クスノキが現在の境内の地割に沿って生育していることから、
青蓮院が現地へ移転した12世紀以降に植栽されたものと考えられる。
 樹勢が旺盛で、樹形も優れているだけでなく、
円山公園から平安神宮に続く神宮道の中で
青蓮院を含む地域の景観要素となっている大木として貴重なものである。
  平成10年4月1日登録  京都市
学生時代に乗った懐かしい市電がある!(^^)!
日本初の市街路面電車
明治28(1895)年2月1日から昭和53(1978)年9月30日までの83年間、
路面電車が京都市内を縦横に走っていました。
京都の市電

車内は観光案内所になっていてガイドの方と
市電を廃止したのはもったいないですよねと話していました。
車の交通の邪魔になるからだと思いますが、
今は、車の量が多すぎて市内の道路は交通渋滞になっている。
観光客には、車でなく公共の交通機関を利用するような施策をしたらよかったのに…
国指定重要文化財
 應天門(おうてんもん)
應天門は、平安京大内裏(だいだいり)の正庁朝堂院(ちょうどういん)の南面正門で、
延暦14年(795)に造営された鴟尾(しび)を置く二層碧瓦葺(みどりかわらぶき)の建物で
左右両廊から栖鳳(せいほう)・翔鸞(しょうらん)の二楼につながっていた。
この門は、平安遷都千百年にあたる明治28年に往時の様式を復元し、
平安神宮の「神門(しんもん)」として建造されたものである。
   建坪34.10坪(約112平方メートル)
   棟高60.84尺(18.43メートル)
尊勝寺跡(そんしょうじあと)
 平安時代の後期(約800年前)この岡崎一帯には数多くの寺院が建立されました。
なかでも歴代の天皇等を願主(がんしゅ)とする
法勝寺(ほっしょうじ)、尊勝寺(そんしょうじ)、最勝寺(さいしょうじ)
円勝寺(えんしょうじ)、成勝寺(じょうしょうじ)、延勝寺(えんしょうじ)の6寺は、
総称して「六勝寺(ろくしょうじ)」と呼ばれていました。
 昭和61年には当府営住宅西天王町団地の改築工事に伴って発掘調査が行われ、
尊勝寺の御堂(みどう)跡がみつかりました。
建物跡は、東西110尺(33m)・南北64尺(19.2m)の規模をもち、
東西6間・南北2間の身舎(もや)に廂(ひさし)と縁をめぐらせ、
階段を設けていたことが明らかになりました。
 調査地は、尊勝寺推定復元図によれば観音堂にあたり、
また『中右記(ちゅうゆうき)』・『阿沙婆抄(あさばしょう)』に、
観音堂には6体の観音像を安置するという記載があって、
今回の調査で身舎の間口が6間あることと一致することなどから、
この御堂を観音堂と推定しています。
 昭和62年3月
京都府土木建築部・京都府教育委員会
(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター

(設置されてから年数が経っているので読み間違いがあると思います)
お昼はベジタブルカレー
甘口を頼んだけど結構汗がでました(^_-)
なんか癖になる味で美味しかったです♪
先日、朝日新聞に“キムラ緑子が通ったアルバイト先「またね」言い合える大切な関係”と紹介されていた。
記事を読んでいて、結構この辺り歩いているよなと思い訪ねました。
カウンター席だけのお店でほぼ満席になっていました。
カレー専門店「ビィアント」
熊野(くまの)神社
 我が国最初の夫婦神である伊奘冉尊(いざなみのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
天照大神(あまてらすおおみかみ)、速玉男尊(はやたまのをのみこと)・事解男尊(ことさかのをのみこと)
五柱の神を祀(まつ)り、縁結び、安産、健康長寿のご利益があるとして信仰されている。
 平安時代の弘仁(こうにん)2年(811)に修験道の日圓上人(にちえんしょうにん)が国家守護のため、
紀州(現在の和歌山県)熊野大社を勧請(かんじょう)したことに始まるといわれている。
寛治(かんじ)4年(1090)に創立された聖護院(しょうごいん)は、
当社を守護神として別当職を置いて管理された。
 熊野信仰が盛んであった平安末期、後白河法皇は
度々熊野御幸(くまのごこう 熊野詣で)を行うとともに当社を厚く崇敬し、
紀州の土砂や樹木を用いて社頭の整備に力を注いだ。
室町時代には足利義満から広大な社地を寄進され、社域は鴨川に至るものとなった。
その後も歴代天皇に崇敬され、庶民の信仰も集めたが、応仁の乱により荒廃した。
 江戸時代の寛文(かんぶん)6年(1666)、
衰微を嘆いた聖護院宮道寛法親王(どうかんほうしんのう)によって再興され、
天保(てんぽう)6年(1835)には大修造が行われた。
現在の本殿は、その時に下鴨神社の旧本殿を移築したものである。
 大正元年(1912)の市電丸太町線の開通、
昭和元年(1926)の東大路通の拡幅などにより、現在の社域となった。
 毎年、5月16日に例祭、4月29日に神幸祭が行われる。
大小の神輿(みこし)があり、大神輿は光格天皇の寄進によるものである。
   京都市
 八ツ橋 発祥之地
 西尾為治は、明治12年(1879)山城国愛宕郡 聖護院村の八ツ橋屋生まれ、
以来昭和37年(1963)1月に永眠するまで、84年の生涯を八ツ橋の発展のために心血をそそぎました。
後年中興の祖と言われ、元禄からの古法を基調に改良に改良を重ね〝京に八ツ橋あり〟とその名声を拡げました。
平安遷都千二百年を記念し、八ツ橋発祥の地「聖護院の森」に石碑並びに銅像を建立しました。
   熊野神社
【丸太町橋の歴史】
 丸太町通とは材木の売買に由来します。
その通りに丸太町橋が架けられました。
近代以前、丸太町橋は木製の橋が架けられていました。
 大正2年(1913年)に京都市営電気軌道が計画され、
同時に道路の拡張工事により、鉄橋の丸太町橋が架けられました。
 現在の橋は平成5年(1993年)に架け替えられました。
 駅伝発祥の地
出発地点
日本初の駅伝は、1917(大正6)年、京都三条大橋から東京上野不忍池までを23区間にわけて開催された。
2017(平成29)4月29日はちょうど100年となる。
今や国際的にも普及発展し、「EKIDEN」という語が世界共通の競技として認められるようになった。
駅伝発祥から100年を迎えたことを記念して、この地に記念碑を建立した。
   2017(平成29)年4月29日
  一般財団法人 京都陸上競技協会

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祇園社乱闘事件
 八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から865年前に、平清盛に関わる乱闘事件がありました。
 時は久安3(1147)年6月15日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在7月24日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)の日の事。
 中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園社に田楽を奉納します。
 この田楽を守護していたのが清盛の郎等達、兵仗を帯び祇園社へ赴いた彼らにこの後思わぬ事態が待ち受けています。
 武装した彼らを見、祇園社の神人(下級神職)はその解除を求めます。
しかし清盛の郎党はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。
乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も尾を引きます。
 6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺はこの乱闘の事を訴えます。
これに対し播磨守平忠盛は乱闘の下手人7人をすぐさま検非違使に引き渡します。
事態はこれで収拾するかに思われましたが、延暦寺衆徒らの怒りは治まりません。
 28日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は清盛と父・忠盛の流刑を訴え神輿を舁(か)いて入洛しようとします。
神々の神意の体現とされた神輿の動座を伴う強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられていました。
これに対し鳥羽法皇は「道理に任せ裁許する」と回答し、ひとまず彼らを帰山させます。
 しかし中々裁許は出ません。
洛中には衆徒らが再び入洛しようとしているという声が頻繁に聞こえてきます。
 事件の実検などを行った法皇が、清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、
その内容は贖銅(しょくどう 実刑に代わり銅を納めること)という軽いもの、
忠盛・清盛と鳥羽法皇との関係の深さを物語る歴史の一幕でした。
 さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を擁護した鳥羽法皇は、祇園の神に対する謝罪を何度も行っています。
中でも久安4(1148)年2月20日には法華八講が修され、これが当社における法華八講の初見となりました。
   平成24年壬辰記